『「介護時間」の光景』(198)「卒業」。3.19。
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年3月19日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年3月19日」のことです。終盤に、今日「2024年3月19日」のことを書いています。
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2001年の頃
個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、仕事をやめ、介護に専念する生活になりました。2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。
母の病院に毎日のように通い、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。
入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。
周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。
2001年3月19日
『夢を見た。
母に仕事のことで怒っている夢。
ものすごく怒っている夢。
それが何に対して怒っているのかも分からない。
起きたら、妙にぐったりしていた。
もう仕事はしてない。心臓の発作も起こしたし、仕事を諦めて、介護をすることにしていた。
午後4時30分頃、病院に着く。
病院で使っているスリッパを春用に、と思って買って、持ってきた。
「今ので大丈夫なのに」
「季節も、変わるからさ」。
昨日も私が来たことも、よく分からなくなっていたのだけど、スリッパは前から使っていることは覚えていてくれた。
最初、イスに座っていたのだけど、何か、悲しそうな顔をしていた。
今日は、何曜日かは分からなくなっていたようだ。
何日かも、わかっていなかった。
なんだか、ぼんやりしてる。
「テレビは、いつも同じでしょ」。
急に力強く断言する。
気持ちの変化をつけようとして、スリッパも変えたのだけど、あまり関係ないようだった。
なくなったと思っていた温度計が、部屋の隅っこにあった。どうやって、そこに転がっていったのだろう。
体調のことを聞いた。
「便秘は大丈夫?」
「してない」
「うんこは?」
「してないよ」
「え、いつすんの?」
「うーん、わかんない」。
答えてくれる時と、そうでない時があって、何か細かい身近なことの記憶が全然ないような感じに見える。
病棟には、いつの間にか男性の高齢者の患者が増えていた。
うめきや、叫び声のようなものが、わりとひっきりなしに聞こえてくる。
それからも食事をして、いろいろと話すのだけど、記憶がゆるくなっているように思う。
時間が経って、午後7時30分頃、病院を出た』。
卒業
夜の8時前、病院から歩いて、バスターミナルに着く。いつもほとんど人がいないのに今日はたくさんの人がいる。
すぐそばの大学の卒業式らしく、それで、この時間まで人が多く残っているみたいだ。こんなたくさんの人が、ここにいるのを見るのは初めてだった。はかま姿の女性も多い。
自分が大学を卒業したのは、もう15年くらい前の事になった。
バスに乗ったら、ほぼ満席になる。空いている席がないような状態。ここ半年くらいで初めてかもしれない。
エネルギーというか、華やかさというか、若さというか、そういう前向きといっていいものが、この空間にはいっぱいになっていた。ある意味うらやましい空気で、でも、なつかしさみたいなものは感じなかった。
今の自分とはまったく関係がないんだ、と思った。私は、ただ高齢者と関わって時間が過ぎているだけだった。関係ないと、自分で意識し過ぎているだけかもしれないけれど。
(2001年3月19日)
それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。
だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2024年3月19日
区がおこなっている健康診断が無料で受けられる。
それがいつも6月から3月末の期間で、それと共に有料でがん検診もあるのだけど、いつも、3月ギリギリになってしまう。
でも、年に一度は診てもらった方がいいという気持ちと、もし病気になっていたとしたら、今の経済状態では、たとえば手術も受けられないかもしれないから、検診は受けないほうがいいのかも、というような気持ちにもなるが、結局は、それでも病院に行こうと思う。
今年も3月になってしまった。
健康診査
正確には「健康診査」という名前で、その名称を毎年確認するのだけど、毎回、忘れてしまう。
その「健康診査」を受ける病院は、いつも行っている隣のまちにあるのだけど、その注意事項の中に「原則、検診前の10時間は、水やお茶以外の飲食物は控えてください」という文章もあったのだけど、それもよく読まないと、わからない。
それで、前の日の夕食を食べて、夜中からも水以外のものを飲まないようにして、起きてから出かける。毎日のように朝食は食べずに、牛乳と飲むヨーグルト以外はとらないので、それほど辛くはない。
ただ、起きてから、習慣のようにトイレに行った後、しまったと思ったのは、尿検査があるからだった。
それでも、出かける。
一通り、検査もして、尿検査もなんとかできて、今日すぐに分かる結果として、心電図も異常なく、肺のレントゲンも大丈夫と言われ、それはやっぱりちょっと安心もした。
血圧は、上が107と聞いて、調子が悪いと100いかないので、それも少し安心もして、下は70台であることはわかったが、一桁代の数字は忘れてしまった。
身長は少し縮んで、体重は少し減った。
そのあと、美容院に行った妻と合流し、食事をした後、スーパーと八百屋などにも寄って、帰ってきた。
隣町の公園には大きいイチョウの木があって、それがきれいに整えられていて、それを見た時、どうやって剪定したのだろう、などと思った。
NIMBY
今日、妻と待ち合わせをしている時間に、本を読んでいた。
もちろん心理士(師)として、臨床心理学も学んでいるのだけど、歴史の途中で、心理学は哲学から分かれてきた、という見方もあるので、未熟ながら、哲学のこともなるべく知るようにしている。
この本は、大勢の「哲学者」が、世界の最新の哲学の研究成果を紹介する、というスタイルをとっている。だから、一つのテーマで4〜5ページとコンパクトに書かれていて、やや物足りなくもあるけれど、あとは自分で考える、ということだと思った。
その中に『施設の建設反対はわがままな考えから生じるのか?』というテーマがあり、その中にNIMBYという言葉が出てきた。
こうした話で思い出すのは、自分の仕事に関連させすぎるのかもしれないが、児童相談所や障がい者施設への建設反対があったことだ。ただ、こうしたことがいつでも悪いのか、という問いを立てて考える哲学者もいることが述べられている。
さらに議論は進む。
特に最後の仮説は、とても説得力があると思った。
(他にもいろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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