家族介護者の気持ち⑩手を差し伸べる人たち
この「家族介護者の気持ち」シリーズでは、家族介護者の気持ちについて、できるだけ、考え、お伝えしていきたいと考えてきました。今回は、10回目になります。
家族介護者の気持ち⑩手を差し伸べる人たち
今回のテーマは、「家族介護者の気持ち⑩手を差し伸べる人たち」です。
少し分かりにくいと思いますので、説明を加えていきます。
これまでいろいろなことを、家族介護者の気持ちとして述べてきたと思います。そして、もちろん個々人の違いがあるので、ひとまとめにするのは難しいし、ある意味では失礼だとも思うのですが、ここ20年くらい、いろいろな形で家族介護者と接してきて、話をしたり、介護相談の場面でお会いしたり、最近になって、その特徴を表現するとしたら、「手を差し伸べる人たち」だと、思うようになりました。
この「手を差し伸べる人たち」という言い方は、もう少し詳しく言えば、「困っている人が目の前にいれば、いろいろと考えたりする前に、手を差し伸べる人たち」を短くしたものと考えていただければ、と思います。
長く介護をされている人たちは、程度の差はあっても、そういう資質を持っている方が多いように思い、その上、そのことに対しては、ご本人の方達には自然なことなので、それについての話をしても、あまりピンとこないように見えてます。それでも、私は「手を差し伸べる人たち」の行為と姿に、なんとも言えない気持ちになることが多かったと思います。
(ここで、私自身も介護者であった当事者性があるので、こうした話をする難しさがあります。まるで自己弁護と思われてしまうと、正確性が損なわれるような気がします。その部分もゼロではないと思いますが、私自身は、「手を差し伸べる人」の度合いは、低いほうだと思っています。介護を続けていく中で、そうした習慣がついた人間だと思っていますので、最初から、そうした要素を持つ方々が、思った以上に多いことに、どこか驚きと嬉しさを感じています)。
家族介護者の定義の一つとして「手を差し伸べる人たち」という特徴を述べる人は、たぶん、ほとんどいないと思いますので、どうして、そう感じさせるのかを、これから、さらに説明していきたいと思います。
介護を続けている理由
ある時、仕事の現場で知り合った若い人が、孫の立場で介護に関わってる事を知り、それについて話をした時に、「なんで?と聞かれるけど、それは、そこに山があるから、と同じくらいの感覚」という答えを聞いて、その潔さと、ある種の自信に、うらやましさみたいなものと、清々しさを感じたことがあります。
介護をテーマとして、家族介護者の方々にインタビューをお願いしたことがありました。その時、「どうして介護を続けているのですか?」という項目を入れていました。だけど、話を聞かせてもらっているうちに、その項目だけを、聞くのを忘れてしまうことも少なくありませんでした。
それは、その時は、私自身が介護をしていることもありましたが、それよりも、話を聞かせていただいている家族介護者の方々にとって、介護を続けていることが、あまりにも自然に感じていたせいだと思います。
日本においてこそ、介護からの解放の選択肢も内包した「家族介護者支援」についての社会的議論が必要とされているのではないか。「高齢者の尊厳」を大切にする介護理念がやっと政策化された今日、新たなステップは家族介護者の尊厳に向けられるべきである”(笹谷 、2005)
この文章を含む論文が書かれたのは、すでに15年前になりますが、家族介護者の尊厳に対して、今も社会の目が、十分に向けられているようには、思えません。
もちろん、家族介護者にとって、“介護からの解放の選択肢”も存在するのは、とても正しく、ありがたいことですが、そうした選択をした上で後悔しないような状況も、まだ遥かに遠いように思います。
しかし、そうした進まない状況とは別に、この20年ほどで出会った家族の方々や、調査に協力してくれた方々など、ここまで接して来た家族介護者の方々を思い浮かべると、介護の継続をやめる、という選択をする想像が難しいのも事実です。それは、決して強制というだけではないと思います。
だけど、どうして「トラウマ体験にも近い厳しい介護体験」(リンクあり)をしたり、介護者自身も病気になったり(リンクあり)と、辛い思いをしているのに、介護を継続するのだろう、という疑問を持つ専門家や支援者は実は少なくないのかもしれない、とも思います。
介護の最大の負担感は「いつまで続くか分からない」(リンクあり)という“拘束感”であると考えられるのですが、支援者や専門家から見た最大の矛盾点や謎は、その“拘束感”を作り続けているのは、介護をやめないという選択をしている、介護者自身でもあるということなので、
なぜ介護を続けているのか。
それこそが、家族介護者の外側から見れば、理解しにくいことの一つであり、それは場合によっては、畏れを生んでしまうことかもしれない、と思うようになりました。
「介護を継続する理由」の研究
過去に、なぜ介護を続けるのか?についての研究もされています。それは、介護に関して、改めて、様々な角度からの見方を考えさせてくれます。
“他の家族・親族や公的サービスからの支援が満足のゆくものでないため、それらに対する意地が介護者を動機づける場合である。周囲からの冷たい仕打ちに逆に発奮して被介護者を守り、介護を継続しようとする動機づけを持つこともある”(山本、1995)
“介護者が最も頻繁に挙げた信念は「あとで後悔しないように生きたい」であった。この信念において介護は自分がその人生の中でやり遂げなければならないものととらえられ、そのため、介護者役割を満足に果たせないと「後悔しない人生を送りたい」の原則に反することになる”(山本、1995)
“介護されようがされまいが、老人は死んでいくだろう。しかし、どうせ死んでしまうんだから老人を介護する必要などないとはわれわれの多くは考えない。死にゆく老人を介護しなければならないとわれわれの多くは感じている。さきほど介護は合理性を超えるといったのはこのことだ。”(大岡 、2004)
“人間はケアへの欲求というものをもっており、また、他者とのケアのかかわりを通じて、ケアする人自身がある力を得たり、自分という存在の確認をしたりする”(広井、2000)
“「介護はそもそも苦しみか」と問われたら、私は必ずしもそうとは言いきれないと思います。私自身、介護が必要な家族が2人いて、さまざまな困難も経験しましたが、自分にとって大切な人のそばにいて、共に時間を過ごすというのは、とても豊かな経験であったとも思うのです”(湯原、2011)
“ケアという行為は、通常考えられているように、たとえば「私がその人をケアしている」といったことに尽きるのではなく、むしろ「私とその人が、互いにケアしながら、〈より深い何ものか〉にふれる」というような経験を含んでいるのではないか”(広井、2000)
どの言葉も、それぞれの説得力があり、独特の視点があるように思いますし、生意気で大げさな言い方ですが、豊かな思想だと思いました。
それでも難しい「介護継続の理由」の説明
ただ、こうした様々な言葉や調査結果や分析は、それぞれとても意味が大きいとは思うのですが、どうして介護を続けるのか?という問いに対して、合理的な現代に生きる誰もが完全に納得する(メリットのある)理由にはなりえない気がします。(それは、元々、無理なのかもしれませんが)。
そうした納得がなければ、身を削るようにして介護を続ける人は、場合によっては、理解しがたい恐さを感じさせてしまうのかもしれません。つまりは、家族介護者に対して「そんなに辛いのなら、介護をやめればいいのに」としか思えない人にとっては、愚かさや畏れまでを感じてしまい、場合によっては、介護に専念する人は、理解できない人として、敬遠されてしまうかもしれない、と思うことがあります。
外部からの「どうして、そこまでして介護を続けるのか?」という疑問に対して、納得してもらうような答えを返すことは難しい、と感じることも少なくありませんでした。それは、時によっては、何か隠れた(ネガティブな)理由があるように思われたりすることもありました。
自分自身というよりは、約20年の間に知り合った介護をしている方々は、「なぜ介護をするのか?」と問うよりも前に、まずは介護を継続しているような人が多かったので、より言葉で説明することが難しかったのかもしれません。合理的な理由がない場合は、介護に関わる専門家でも、心身に負担をかけながらも、在宅介護を続ける家族介護者に対して、“愚かな選択”といった言葉を向けかねない場面もありました。
ルソーの「あわれみの人」=「手を差し伸べる人」
こうした中で、東浩紀が光をあててくれたルソーの思想は、私にとっては、大げさかもしれませんが、輝きを感じる言葉でした。
この著書の中で、ルソーの「あわれみ」の人の考えに触れて、それは、介護の思想ではないか、と思い、それまでほとんど知らなかったルソーの本(「人間不平等起原論」)を読んでみました。
あわれみは自然の感情であり、それは各個人においては自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力するものであることは確かである。われわれが苦しむ人たちを見て、反省しないでもその救助に向かうのはあわれみのためである。また自然状態において、法律や風俗や美徳のかわりをなすのもこれであり、しかもどんな人もその優しい声に逆らう気が起こらないという長所がある。
この場合、「あわれみ」というのは、「同情」だったり、上からの施し、といったようなネガティブな意味合いが、現代ではついてしまっている部分もあるのですが、それは、「困った人がいたら、考える前に、手を差し伸べるような人」という意味だと思います。
それを、かなり昔の(社会的に偉い)思想家が語っていて、それも東が言うには、ルソーはどうやら人嫌いで、そんなに人付き合いもしたくないタイプだったらしいので、そうした人が言っていたとしたら、より説得力が増すような気がしていました。そして、そうした「あわれみの人」(「手を差し伸べる人」)が、人間の社会を存続してきたのではないか、という言い方もしています。
理性によって徳を獲得することは、ソクラテスやそれと同質の人々のすることかもしれないが、もしも人類の保存が人類を構成する人々の理性だけにたよっていたならば、人類ははるか昔に存在しなくなっていただろう。
ケアの根拠
これまでの20年くらいの時間の中で出会った、自然と質の高い介護を続けている人たちは、『「あわみの人たち」=手を差し伸べる人たち』と思うと、合点がいきました。いろいろな事情があったとしても、目の前の家族が困っているから、手を差し伸べずにいられなくて、自身に負担をかけながらも、それを続けているのだと思えました。
人類しか高齢者の介護をしない、という話もどこかで読んだと思います。今よりも、もっと苛酷な生活環境だったはずの縄文時代の人間が介護をしていた可能性がある、という話(藤田尚 2006)も、これまで出会った大勢の家族介護者の方々と重ねて、ああいう人たちが社会を作って来たのだと思えるようになり、介護の継続に対して疑問をもつ人たちに対して、ルソーのことを、あわれみが社会を作って来たことを伝えるようになりました。
合理的な「ケアの根拠」がないとしても
「ケアに根拠があるか」という規範的な問いに、本書は本質主義的でかつ普遍的なしかたでは答えない。なぜなら規範もまたそのときどきの歴史的な文脈のもとでつくられた社会的な構築物であるゆえに、文脈超越的で普遍的な規範など存在しないからである。 (「ケアの社会学」上野千鶴子)
こうした考えのほうが、おそらく今も主流かもしれません。
それでも、「ケア(介護)に根拠がある」とすれば、外側から与えられるものではなく、介護を継続している人たちは、基本的には、内発的なあわれみによって「手を差し伸べる」、その「普遍的」な「根拠」によるのではないか、という見方を、人に伝えるようになりました。
(もちろん押し付けられるような場合も、あると思います。そして、それを拒否する選択肢もあるべきだと思っています)。
もしも、あわれみの感情(人への自然な思いやりに近いかもしれません)を持つ人が減っているとすれば、それは、社会学者の宮台真司が繰り返し語っている「感情の劣化」のせいかもしれません。
ただ、あわれみは全員が持つべきでもないでしょうし、ここまで書いてきたことも、介護の継続を強制する意志はまったくありません。介護をしたくない人、介護の継続をしたくない人、介護の継続は無理だと思った人は、そうした選択は尊重されるべきですし、同時に要介護者の幸せをなるべく守りながら、それがただちに実現される社会になったほうがいいと思っています。
ただ、誰かが困っていた時に、「誰が手を差し出すべきか?」『誰がその「当事者」であるべきか』。そのことを、考えるより前に、あわれみによって、手を差し出さずにいられない人たちがいてこそ、これからも社会が続いていくとすれば、そのあわれみの人たち=「家族介護者」への見方が、変わっていくだろうし、変わっていくべきだ、と思っています。
時々、家族介護者の方々と話をしている時に、この人たちは、家族でなくても、目の前に困った人がいれば、それが他人であっても、まずは手を差し伸べるのではないか、と感じることも少なくありませんでした。
今回は、以上です。
疑問点、ご意見などありましたら、コメント欄などで、お伝えくだされば、幸いです。
また、「家族介護者の気持ち」シリーズは今回で、いったん終了の予定です。それでも、もしも、大事なことを再発見したり、こうしたことを書いて欲しい、といったリクエストなどがありましたら、また書かせていただくつもりです。
よろしくお願いいたします。
【引用・参考文献など】
藤田尚:「縄文時代人の骨折の病態から推測される看護・介護の状況」 新潟県立看護大学 学長特別研究費研究報告書 2006ー6
東浩紀:「観光客の哲学」 株式会社ゲンロン 2017年
広井良典:「 ケア学 越境するケアへ」 医学書院 2000年
宮内洋・今尾真弓 編著 :「あなたは当事者ではない」 北大路書房 2007年
宮台真司:「社会という荒野を生きる」 KKベストセラーズ 2018年
中西正司 上野千鶴子:「当事者主権」 岩波書店 2003年
野崎泰伸:『「共倒れ」社会を超えて 生の無条件の肯定へ』 筑摩書房 2015年
大岡頼光 :「なぜ老人を介護するのか」スウエェーデンと日本の家と死生観 勁草書房 2004年
ルソー 「人間不平等起原論」:「世界の名著 30 ルソー」中央公論社 1966年
笹谷春美: 高齢者介護をめぐる家族の位置 —- 家族介護者視点からの介護の「社会化」分析 — 家族社会学研究 , 2005,16(2) , 36-46
山本則子(1995a): 痴呆老人の家族介護に関する研究 嫁および嫁介護者の人生における介護経験の意味 1.研究背景・文献検討・研究方法 看護研究 , 28 , 178-199
山本則子(1995b): 痴呆老人の家族介護に関する研究 嫁および嫁介護者の人生におけ る介護経験の意味 2. 価値と困難のパラドックス 看護研究, 28(4) , 313-333
山本則子(1995c): 痴呆老人の家族介護に関する研究 嫁および嫁介護者の人生における介護経験の意味 3. 介護量引き下げの意思決定過程 看護研究, 28(5) , 73-91
山本則子(1995d): 痴呆老人の家族介護に関する研究 嫁および嫁介護者の人生における介護経験の意味 4.介護しなければいけない現実と折り合う・介護の軌跡・結論 看護研究 , 28(6) ,
湯原悦子(2011a): 介護する人のメンタルヘルス 精神科 , 19(2) ,
(他にも、いろいろと介護について、書いています↓。クリックして読んでいただければ、ありがたく思います)。
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