かわなべひろき

画家。ここでは小説やエッセイなどを。 Twitter @kawanabehiroki

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マガジン

  • ゆらぎ

    たぶん教訓も筋もメッセージもなにもない、断片的な文章

  • 気楽に生きるために

    人生を気楽に気持ち豊かに生きていくための、考え方などについて書いています。

  • 創作のこと

    自分の創作活動におけるあれこれ

  • ウケる日々

    ウケた記憶のこと

  • twilght

    短編小説。 あいまいに日々を生きるセンセイと、それをめぐる人々の物語。 あいまいな頻度で更新されます。

最近の記事

最短距離を、君と行かない。気持ちのバリエーションに触れる道。

一見、非生産的で無駄なこと、遠回りなこと、コスパやタイパの悪いこと。 そういうことを積極的にやっていきたい。 人生に彩りを与えくれる物事は、そのような営みの中にあるから。 彩りとは「気もちのバリエーション」のことだ。 先日、旅先で友人と車に乗っていた。 その夜、観光案内所的な場所でもらえる無料の地図をぱっと見て、「あ、ホテルだいたいこっちね」みたいなノリで車を走らせていた。 国道⚪︎号を北上してそこから⚪︎号線に入って、どうのこうの、、、、。 しかし、案の定道に迷った。

    • 手ざわりが人生の中身を作る。触れて、撫でて、つっついてみる。

      生きている時間の中身をつくるものは、「手ざわり」である。 これは比喩ではない。物理的な手ざわりのことを言っている。 大切な誰かの手、髪、木の葉、花びら、ふく風、猫、シャワーの湯、食器、楽器、布団、なんでもいい。 とにかく、生活を取り巻くありとあらゆるものに触れるその時間、私たちは生きる実感そのものに触れている。 最近、友だちと海辺へと出かけた。 海水に触れ、海岸の珍しい形をした岩肌に触れ、そこらへんに生えている木々の葉や幹に触れ、時間を過ごした。 「うわ〜葉っぱの裏に毛ぇ

      • 呼吸 和音 川端康成

        最近、意識的に人と会うように心がけている。 久しぶりに会う同級生だったり、友達だったり、昔の職場の先輩や、ありとあらゆる知り合いに。 こちらから出向くこともあれば、家やアトリエに招いてみたり。 同じ時間を誰かと過ごすこと。 お互い何の目的もない話でいいから、言葉を交わす。 最近どう?へぇ。オレはさ、。 オチとか結論とか全然ないような話をうだうだと。 あるいは、相手の言葉にただじっと耳を傾ける。 逆に、聞いてもらう。 とるに足らない誰かとの時間を自分に浸み込ませていく。

        • 秋 わびさび ぼーっと 

          年齢を重ねるほど、秋という季節が好きになっている。 この頃は朝晩だけでなく、日中も肌寒さを感じる瞬間が増えてきた。 通勤時または散歩の折に、町を染める光線のセピアがかった色を目にする。 それがいかにも秋の風情で、しみじみと「いいなぁ」となる。 先日とある古本屋の店先のワゴンを物色していると、「わび」「さび」それぞれをタイトルにした新書が2冊並んであった。 なんの気なしに引っ張り出して表紙を見てみると、シリーズものの著作というわけではなく、それぞれ別の著者による本だった。

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        記事

          20230727-1

          テスト

          人生とは数限りない「ドッキリ」の連続であるという話。こんなはずじゃなかった人生をこんなはずじゃないまま生きていく

          人生とは数限りない「ドッキリ」の連続である。生まれてからたぶん死ぬまでそれは続く。 「将来の夢ドッキリ」「理想の恋人ドッキリ」「自分の才能ドッキリ」「学歴ドッキリ」「就職あるいは転職ドッキリ」、「大病ドッキリ」「加齢ドッキリ」「死別ドッキリ」などなど、無数に連なるドッキリの集合。 それが人生である。 時に、私たちの人生は「もう無理、立ち直れないんじゃないか、、」という深刻な局面を迎えることがある。こんなはずじゃなかったのに、、と。 そんな時、私たちに必要ことは 「テッテ

          人生とは数限りない「ドッキリ」の連続であるという話。こんなはずじゃなかった人生をこんなはずじゃないまま生きていく

          好奇心がなけりゃやってられないのが人生

          最近、仏教にハマっている。 人生に救済を求めてという理由ではなく、単純に教養として学ぶことにハマっている。 その起源、歴史。法然、親鸞らによる鎌倉仏教の勃興。 はたまた禅と日本文化の相関。 たいへん興味深く、おもしろい。 物事にハマると、その影響は日常生活のさまざまな場面に波及する。 たとえば近所の町の見え方も変わってくる。 あれ、こんなとこにもお寺あったのか、とか こんな道端に、無縁仏のお墓あるやんけ、とか わ、お仏壇屋さん見っけ、エモ、とか。 今まで気にもとめなかった

          好奇心がなけりゃやってられないのが人生

          私の読書に意味はあるか? 読んだそばから、内容をほとんど忘れてしまう読書について。

          日常的に読書をしている。1日平均して2時間くらい。 哲学、社会学、文化人類学、芸術、仏教の本が多い。 そして、毎日読んでいる割にちっとも内容が記憶に残っていない。 読んだそばからほとんど忘れている。 「今読んでるその本てさ、どんな本なの?」と人に聞かれても、 「ええと、なんつーかな、まあなんかこう、一言で言うのは難しいけどさ。みんなで助け合ってやってこうぜ、みたいな内容だよ。まあ、気になるなら読んでみたらいいよ」とか、 「カントって、つまりどういうこと言ってんの?」と聞か

          私の読書に意味はあるか? 読んだそばから、内容をほとんど忘れてしまう読書について。

          説教くさい自分が内側にいる時の自分は、どこかが狂い始めているという話

          大人というのは自分のバランス(機嫌と言ってもいい)を自分で取れるものだ、とは思いつつも気がついたらモヤってたり、鬱ってたり、逆に躁になってたり、全能感がほとばしっていたりする。 僕みたいな躁鬱の気がある人間ならば特に、かもしれない。 ネガティブだけが悪者のように言われがちな風潮だけど、ポジティブもフラットなバランスを失している状態という意味では、どっちも不健康だ。 振り子のようにあっちへこっちへ大きくブレる自分を整える術を備えることはとても大切だが、その前にそれに気がつけ

          説教くさい自分が内側にいる時の自分は、どこかが狂い始めているという話

          音楽ファン必聴。3ピースバンド「YOLK」を推す記事

          日本人3人組のYOLKというバンドがいます。 つい最近、3月22日に新譜「muse」がリリースされました。 とにかく素晴らしい作品で、さっさと聞いてもらった方が早い。 下のapple music、spotifyのリンクからどうぞ。 聞いた?ちゃんと聞いたよね? いいよね?いいですよね? マジでいいよね。 上品でシャレててポップで、今期カーステで流したい邦楽ランキングTOP3には余裕で食い込んできますね。 ツボに入りすぎて、鬼リピートしております。 と言うわけで、YOL

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          ダメ出しは要らん。作品は、褒めてくれる人に見せよう、という話。

          僕は毎朝絵を描いているんだけど、描き上がったらすぐ嫁さんに見せる。 「ほら、今日の絵見てよ。こんなん描けたよ。」 すると、僕の嫁さんは嘘がつけない正直な人で、「いいね」と言ってくれる日もあれば、逆に「うーん」と微妙な表情をたたえて「もっと、こうすればよかったんじゃない?」と、言ってくれることもある。 こんな、やりとりを繰り返してて思うのが、 ダメ出しって、マジでテンション下がるなあ ってこと。 僕は思う。 人間ってのは、ただただ褒めてほしいだけの生き物なんじゃないかと。

          ダメ出しは要らん。作品は、褒めてくれる人に見せよう、という話。

          ラクして何が悪い。むしろそれは人として自然なふるまいだろう、という話。

          現在、僕はかなりラクに生きている。 仕事は美容師、ギター講師、画家と三つしているけど、人間関係の悩みなどの精神的なストレスがない上に、時間のコントロールもできる環境を整えているので、「かなりラク」な状態で生きている。 (仕事が簡単という意味ではない) 世の中には「ラクすることは悪い」とする風潮や「ラクして生きてる人を許せない人」が一定数いる。 でも、僕のように「いや、むしろラクしなきゃ。じゃないと死んじゃうよ」と、思ってるタイプもいる。 自分にフィットする方を選んで、各々

          ラクして何が悪い。むしろそれは人として自然なふるまいだろう、という話。

          あきらめているおかげで、新作を描き続けることができる、という話

          ほとんど毎日のように絵の新作をネットに上げているとたまに「よくそんなにぽんぽん新作描けますね」と言われることがある。 そういう人の中には、絵を描こうとするんだけどいいモチーフが思い浮かばない、構図を決められない、着彩がうまくいかない、などとにかく描けないあるいは、描いても仕上げられないとかいろんな人がいるのかもしれない。 僕は絵はうまくないけど、「ぽんぽん新作を描くこと」は割とうまいほうかもしれない。 これも技術なので、その辺のことについて書いてみる。 先に結論から言う

          あきらめているおかげで、新作を描き続けることができる、という話

          たかだかそれくらいで、何かを作った気になってんの草。 ある展示を見て聞いた声。

          1年くらい前、駅ビルの中にある服屋の店先で、とある展示があった。 知的にハンデのある方が入居している施設の入居者さんのもので、それがとてもよかったのでここに記しておこう。 どんな展示だったかと言うと、 手のひらに乗るくらいのほとんど同じサイズ、そしてほとんど同じような形の車の粘土細工が、展示スペースであるテーブル一面に、ダーーーっと並べられていた。数にして3桁は余裕であったと思う。 同じような車が、ダーーっとたくさん並んでいるだけ。 言ってしまえば、それだけの展示だった。

          たかだかそれくらいで、何かを作った気になってんの草。 ある展示を見て聞いた声。

          僕の絵が誰かの記憶のスイッチになること

          絵を見て、何かを感じたり、忘れていた記憶が蘇ることがある。 「ああそう言えば、子供の頃に遊んだ空き地があったなあ」とか、その後で当時の友達やその時の季節や天気、街の匂いなんかも思い出したりする。 そのスイッチみたいな役割が、絵に限らず音楽や詩などの作品にはある。 僕の絵を見て、だれかが「懐かしい」と感想をくれることがある。 そういうのって、理屈抜きに「いいな」ってなる。嬉しい。 その人の中にある「懐かしい風景なり情景」を復元するスイッチに自分の絵がなることの不思議。 全く違

          僕の絵が誰かの記憶のスイッチになること

          若者へのあざっすの気持ちが、肉に化ける話

          ちょっと前に地元の観光名所に行く機会があった。駐車場に停めて車を下りると、ほとんど同じタイミングで別の車がやって来た。 そこから降りて来たのは、20代とおぼしき4人の女の子。 視力0.01の人が10メートル離れたところから裸眼で見ても「インスタグラマーですね」と、即答しそうなほど、インスタばえガチ勢オーラ全開の4人。 車から降りるとさっそく、メンバーの1人であるハイトーンの髪をゆるっと巻いたショートパンツの女の子が、自撮り棒にセットしたスマホを取り出す。 そして、4人集ま

          若者へのあざっすの気持ちが、肉に化ける話