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たかだかそれくらいで、何かを作った気になってんの草。 ある展示を見て聞いた声。

1年くらい前、駅ビルの中にある服屋の店先で、とある展示があった。
知的にハンデのある方が入居している施設の入居者さんのもので、それがとてもよかったのでここに記しておこう。

どんな展示だったかと言うと、
手のひらに乗るくらいのほとんど同じサイズ、そしてほとんど同じような形の車の粘土細工が、展示スペースであるテーブル一面に、ダーーーっと並べられていた。数にして3桁は余裕であったと思う。

同じような車が、ダーーっとたくさん並んでいるだけ。
言ってしまえば、それだけの展示だった。

一つ一つを見てみればどれも似たり寄ったり。
たまに違うデザインの車が例外的にあったけど、それ以外ほとんど同じような車。
造形的なバランスが整っておらず、歪な形をしたものも多い。
下手くそではないけど、上手かと問われれば決してそうでもない気もする。
なんだか不思議に胸を打つ味わいがあった。

展示物を前に僕は、毎日毎日、粘土をこねこねして作っている作家さんの姿を想像した。

そして、思った。

作る喜び爆発してますやん!!!!

なんと爽快で純粋な創造だろうととても心が躍った。
そして、その作品群にこう言われてる気もした

「いいから作ろう。作ることがゴールでいいじゃん。
楽しいってことだけでいいじゃん。
他人の評価とか、上手い下手とか、そんなこと気にして手を止めてんのって、アホらしくない?
考えてる暇があったら、とにかく、作ろう。
つべこべ言う前に作ってみよう。
同じものでいいから、毎日作ろう。
やればわかる、楽しいから。」

この展示を見たのは、僕が絵を描き始めて1年くらいのタイミングで数にして4、500枚くらいの作品を描いた頃だった。
その時の僕は、描くモチーフを決めるのに日に日に時間がかかるようになっていた。

というのも「あ、こういうの前にも描いたしなあ。」と思うことが増えたから。
作品数が増えればそれも自然のことかもしれないし、似たような作品を描くことを良しとしない自分が無意識のうちにいたんだろう。
そして、新しいモチーフを探すことが億劫で手の動きが鈍っていた。

そんな僕に展示が語りかける

「いやいやいやいや、同じものでいいっしょ別に!」
「てか、同じものだと思って作ってみたところで、同じにならないから!」
「てかそもそも、4,500枚描いたくらいで、何かを描いた気になってんのマジで草生えるんだけど」
「てことで、早速次を作っちゃいなよ」

僕達、人間には根源的に「作る喜び」が備わっている。
子供を見てるとよくわかる。なんの役に立つのかわからないようなものでもガンガン作るし、それでめちゃくちゃ満足してる。
僕達もかつて子供の頃そうだったハズ。

ところが、成長するなかで、いろんな呪いをかけられる。
たとえば
「それやって稼げるの?」
「それが何の役に立つの?」
「それが何に繋がるの?」
「それには才能やセンスが必要だよね」

そういう呪いのせいで、
「どうせ稼げないしな…」
「どうせ、何かの役に立つわけじゃないし、自分にはセンスも才能もないしなぁ…」
と、せっかく好きだった趣味や、作ることをやめてしまう人が少なくない。

展示を見た時の僕も、無意識のうちに
「なにか、新しいものを描かないといけない」
という呪いにかかっていたせいで、手の動きが鈍っていた。

そして、今も続けていると、たまに呪いが聞こえるときがある。
しょっちゅうブレる。
「こんな絵じゃ、誰にも刺さらないよな、、」
「全然新しいアイデアがうまれないな、、、」
とか、そういうの。

そんなときは、あの展示で僕が勝手に聞いた声を思い出すようにしている。

ただ、作り続ければいい。
それだけで楽しいから。
あとのことは全部おまけ。

今日も描く。

“Afternoon fragments”



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