呼吸 和音 川端康成
最近、意識的に人と会うように心がけている。
久しぶりに会う同級生だったり、友達だったり、昔の職場の先輩や、ありとあらゆる知り合いに。
こちらから出向くこともあれば、家やアトリエに招いてみたり。
同じ時間を誰かと過ごすこと。
お互い何の目的もない話でいいから、言葉を交わす。
最近どう?へぇ。オレはさ、。
オチとか結論とか全然ないような話をうだうだと。
あるいは、相手の言葉にただじっと耳を傾ける。
逆に、聞いてもらう。
とるに足らない誰かとの時間を自分に浸み込ませていく。
誰かと過ごす時間を呼吸する。
ネット、SNS、オンラインゲームの普及によって私たちは、「誰かと繋がった気になれる」社会を生きている。
でも、オンラインだけの誰かとのインスタントな繋がりは、刹那的な楽しみや喜びをもたらすことはあっても、私たちの生を深いところから支えてくれる豊かさとはなり得ないと、30代を通じて理解した。
理屈ではなく、リアルな身体的感覚として。
人と会う。同じ時間を過ごす。
会話はあってもなくてもいい。
その時間に横たわる雰囲気の中に自分を置く。
ふとした瞬間、自分の中で息を吹き返す情景とは存外、そうやって過ごした誰かの横顔だったりする。
さまざまな人と会っていると、本当に私たち一人一人は一つ一つの音のようだ。
2人以上が集まれば和音になる。
美しく、時にまた、不協に響く和音がそこにはある。
場の響きに耳を傾けながら、私は意識的に自分の音色をコントロールできたらと、あるいは、「無音」として響くことができる器を持てるようになりたいと思ったりもする。
最近、文庫本で川端康成の短編を読んでいた。
著者の文章によって美しく化粧を施された、人と人とが過ごすなんでもない時間の物語だった。