東北生まれをキャラにした私と隠した母|『海に眠るダイヤモンド』
テレビでリアルタイムにドラマを観るという習慣がなくなって久しい。
放送の時間を軸にするのがなんとなく縛られているようで嫌だし、気になったものは録画しておくか見逃し配信などで観る。
たとえ見逃し配信すら見逃しても、いつのまにかサブスクなどで配信されていることも多く、だいぶ後になってから観ることもある。
『海に眠るダイヤモンド』が面白い
10月スタートTBS日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』を知ったきっかけは、SNSに流れてきたショート動画だった。
「神木くんと杉咲花ちゃんが出ているなら面白いかも」と思い、何の事前情報もなく第1話の見逃し配信を観てみることに。
ショート動画では昭和の香りがムンムンなイメージだったのに、始まってみたら現代だしホストだし(タイムリープ物…?)と戸惑ったのも束の間。
詳細は伏せるけれど、端島(軍艦島)の再現映像がもうとにかく凄すぎた!
現代の映像技術って、もう、なんかもうこんなに今も住んでますよって感じでイケるの!?リアルすぎるな!と、ストーリー以前のところで大興奮。
こりゃあきっと面白いぞ!俳優陣がものすごく豪華だ!エキストラの動きや表情、小道具までも細かいな!
「涙をふいて」というドラマに出会ってから私は神木隆之介を一生支持しようと決めているんだけど(?)、彼は相変わらず素晴らしい俳優だわ。
なんていうか、目とか表情とかそういう表面的なものではなく、内側からにじみ出るようなキラキラがある。
アイドルのそれとは違う、希望とか勇気とか期待とか、なんか大人を繰り返すほど真正面から向き合うには割と気力と体力が必要な要素を、全部抱えて惜しみなく爆発させているような人間的な眩しさ。ピュアさ。
そういうのを大人になっても表現できる稀有な俳優だなあと思っている。
トリプルヒロインも、みんな可愛さ、美しさ、妖艶さの権化で、それぞれ魅力的なのもいい!眼福!
宮本信子は相変わらず慈しみと切なさの狭間を行き来するのがうまいし、國村隼はある時から年を取るのを忘れたっぽい。ずっといい味の親父をやっている。
斎藤工も炭鉱で浮くことなくいい雰囲気をまとっている。ただ脚の長さだけちょっとおかしい。
エロイアン(沢村一樹)は相変わらずエロイアン。
1話で1本の映画をみたような充足感を得て、これは続きも見なければと、すぐに録画予約をした。
いったい脚本は誰なんだろうと調べてみると、野木亜紀子×塚原あゆ子×新井順子のタッグということで、全部が腑に落ちた。絶対おもしろいじゃんそんなの。
それを知って、劇中で(なぜこの役に坪倉…?)という小さな疑問も勝手に解消された。
『アンナチュラル』でいい演技していたもんなあ。
炭鉱夫・炭鉱町に対する差別や偏見への無知
ところで劇中で、炭鉱への差別・偏見について触れられたシーンがあった。
私は炭鉱が身近にない土地で生まれ育ったので、その感覚は正直いまも昔もわからない。
知り合いにも炭鉱の話をする人はいなかったし(しないようにしていたのかもしれないけど)、私の中の炭鉱は、教科書の中で知る話であり、『ヨイトマケの唄』だった。
実際にどういう差別があったのかは知らないし、これまで知ろうとしたことはなかった。
ただ、このシーンを見てちょっと思い出したことがある。
東北出身をキャラにした私と、隠した母
私が通っていた都内の大学は、実家通いの生徒が圧倒的に多かった。
ほとんどが都内、もしくは電車通学できる範囲の関東圏出身の人たちで、地方出身者は少なかった。
男の子はそこそこいたけど、女の子で1人暮らしはとても珍しく、いたとしても実家も都内か関東圏にあり、通学のために学校の近くに1人暮らしできる比較的裕福な人がほとんどだった。
さらに東北出身者はさらに少なくて、自己紹介の時に出身を言うと「えっ、東北!?」と驚かれた。
そして決まって「方言とかあるの?喋ってみて!教えて!」と興味を持たれ、いくつか紹介すると「可愛い~!方言あるのいいなあ~!」と好意的に受け止められた。
だから、私はそれをあえて利用して、自己紹介のつかみにしたり、正直地元でもじいちゃんばあちゃんしか使わないような方言や訛り、雪国あるある(笑)を会話のネタとして仕込んで、「東北(田舎)出身」「方言・訛り」というのを自分のアピールポイントにしていた。
あれはいつだったかな。それを母親に話した時、とても驚かれた。
母も、大学時代を東京で過ごした経験があった。
18歳で上京した時、何が方言なのか、どこが訛っているのかもわからなかったけど、とにかくお国言葉が出ないように、東北出身ということがバレないように、細心の注意を払っていたという。
それでも「ふとした時にポロっと方言が出ると、友人にからかわれてものすごく恥ずかしい思いをしてたまらなかった」と言っていた。
幸いにも母は友人に恵まれ、「隠さなくてもいいのに」という温かい空気の延長でたまにからかわれる程度だったけれど、それでもなるべく方言は出さないようにずっと気を付けていたらしい。
(ちなみに母は今でも大学の友人たちと旅行に行くほど仲がいい)
アイデンティティを誇れる時代になったのか?
東北弁をひたすら隠そうとした母からしたら、わざわざ東北弁を使って友達を作ろうと画策する娘が信じられなかったんだろう。
母が学生だった頃の日本(都会)では、「田舎者ってバレちゃいけない」「バレたらバカにされて恥ずかしい」という空気がもっともっと濃かったんだと思う。
育った場所や生まれた土地の言葉を隠さなきゃいけない雰囲気は、炭鉱に限らずもっとあちこちにあったのかもしれない。
いや、あったんだ。確かに。
出身地かもしれないし、職業かもしれない。家柄や性別、さまざまあったはず。
それで、令和になった今でも、それら全てがなくなったわけではない。
ただ、私は自分の出身も、お国言葉も文化も隠すどころが誇るべきものとして、アイデンティティとして持ち続けることができた。
それは幸せなことであるし、本来は当たり前であるべきことなのだ。
別に羨ましがられなくてもいい、興味を持たれなくてもいい。
興味がないなら、魅力を感じないなら、わざわざバカにしなくていいから、ほっといてほしい。
口を出さずに放っておくというのもまた、意味があるのだと思う。
――――なんてことが、ドラマをきっかけにふと思い出された。
さて、話は大きく脱線したけど、もし興味のある方は『海に眠るダイヤモンド』観てみてね。
私は第2話が、今から楽しみ!