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断れないのはなぜか:歪んだ処世術と自己開示

先日参加したTwitterスペースやスタエフ上で話題に上がったのが「『NO』と言えるか」「感情について」というテーマだったので非常に興味深く、私もそれについて思考を深めてみたいと思い立った

飲食店で注文を間違えられたらどうするか?

「カシミヤさんは、断れないタイプですよね」
そう言われたのは数年前、カウンセラーの先生からの一言だった

言われるまで自覚がなかった
今から考えると自覚がなかったことが恐ろしいほどだ

「たとえば飲食店で注文したものと違うものが運ばれてきたとして、『これは頼んでいません』と言えますか?」と続けて先生が言った
私は忙しい定食屋で店員さんが料理を運んでくる様子をとっさに思い浮かべた
些末な違いだったら言わないかもしれない…私は思わず考え込んでしまった
答えずともその様子がもう答えだった

「忙しいところ作り直させるのは申し訳ない」
「すこしでも面倒くさいという顔をされたらどうしよう」
「もしかしたら自分のほうが注文を間違えた可能性だってあるし…」
考え始めたら断れない理由が湧水のように絶えず溢れてくる

「自分が正しい」「相手が間違っている」「自分には間違いを主張する権利がある」とどうしても自信を持って思うことができなかった

歪んだ処世術

「断れない話」は想像の話だけにとどまらない
頼まれた仕事を断れない、宗教や営業の勧誘などが非常に断りづらい、乞食にお金をせびられて断るのに大変な思いをしたこと…
カウンセリングの中で次々に私の意思の弱さが炙り出されていく
共通しているのは、どれも「相手に申し訳ないから」と感じていることだった

一体なぜ断ることで罪悪感を覚えるのだろう?

私はもともと自分の意見ははっきり言うタイプの人間で、それが原因で学生時代は友人とたくさんの衝突があった
社会人になってからも、上司や先輩などに理不尽なことをされるたび怒りを覚えたが、それを態度に出したが最後、めった打ちにされる日々が続いた

「自分の意見は抑えて、とにかく黙って相手の言いなりになる」
それが最初に就職した企業で学んだ、歪んだ処世術である

結果人の意に反することや機嫌を損ねるようなことをするのに異常な恐怖心を抱くようになった
もう、傷つけられるのは懲り懲りだった
自分がただ黙っていれば、それだけで相手の機嫌がたちまちよくなり場が収まるのなら、いくらでも自分の感情を殺すことができたし、それが正しいことなのだと、自分のすべきことなのだと長いあいだ勘違いをしていた

感情を殺しつづけた代償

「歪んだ処世術」を学んだのは社会人になってからと前述したが、遡れば学生時代から自分の感情を殺すことにたびたび触れてきた人生だったように思う
根拠は明確で、中学生頃から原因不明の不定愁訴(ふていしゅうそ:原因となる病気が見つからないのに、肩こり・目まいなど体の不調を訴えること)に襲われるようになったからである

中学では部活の先輩に目をつけられ、ダッシュ練習のタイムが遅いだけで「足が遅いんだよ!死ね!」と罵声を浴びせられた
高校の部活ではメンバー全員から集められた「私の悪いところ」を書いたメモを部内会議で読まされ、その場で泣き崩れて謝ることしかできなかった
社会人になっても言われのないことで「全部お前のせいだ」「今すぐ責任を取れ」「お前なんか死んでしまえ!」と感情をぶつけられることもあったし職場での喧嘩の仲裁に入ることも日常茶飯事だった

気づくと病院のまっしろな天井と蛍光灯がぼんやりと視界を包み、エタノールの香りが体の中に行き来しているという感覚をゆっくりと取り戻す、そんな状況を何度も経験した
血管が出にくい体質のため腕には何度も点滴注射を失敗された証拠として鈍く染みのように広がった青痣が残る
その頃は自分自身を痛めつけていることや、心も体も悲鳴をあげているということに気付けなかった
自分は何て気概のない人間なんだろうと思ったし、会社の上司からもそう責められてただ落ち込むしかなかった、ただ言われたこと以上の仕事をこなすことに邁進し、自分に失望しては、一生懸命日々を生きるしかなかった、そんな毎日を繰り返すことが人生というものなのだと思っていた

そしていつしか、会社に行くことも、食事をとることも、布団から起き上がることもできなくなってしまった
長い間先の見えない真っ暗なトンネルの中どこへも行けない、今自分が息をしているかしていないかも分からない、そんなうだつのあがらない生活を送ることになった

自分を表現することの恐怖

社会人になってからの10年間、休職していたのは1社目の1年間だけで、他は体調を崩しながらも様々な職を転々とした
自分から働くことを取り上げたら何もなくなってしまうと本気で信じていた、私にとって仕事は生きがいそのものだった

人の意見に合わせたり、人が言うことを黙って聞くことは、いつしか私にとって当たり前で、それほどストレスに感じなくなっていた
最初の会社で精神的にも肉体的にも絞られたお陰で、大抵のことは辛く感じなかったし、良い悪いではなく様々な経験ができることが何よりも嬉しかった

例えば上司や先輩の言うことが理屈が通っていない、会社の利益にならない、非生産的で感情的な命令だと思ったときはそれとなく別意見を提案することもあったが、「なぜ俺の言うことが聞けないんだ!」「だから女と仕事するのは嫌なんだ!」と感情を剥き出しにして大声で怒鳴る人、大人気ない態度をとる人というのはどの職場にも必ずいた
そういった相手には、言われたことが間違っている、正しくない、理屈が通っていない、感情論だ、横暴だ、と憤ることはあっても自分の持つすべての負の感情を飲みこんでニコニコとYesマンになることに努めた
その人にとって私が「感情の奴隷」になっていることはわかっていたが、場を収めるには立場の弱い私が折れたり意見をなかったことにしたり、最悪職場を退いたりする他なかった

自分の感情や意見はきちんと持っていても、それを自分の意のままにコントロールしよう、押さえつけて言う通りに操作しようとする相手にはいつまでも勝てないままだった
正確に言うと勝ち負けの問題ではないのだが、いつまでも精神的に「いじめられっ子」のままだった
このままではいけないと分かっていた、でも職場など公の場で感情を剥き出しにするなど極端な例ばかりを目の当たりにしてきた私には、自分を表現すること自体が自分には不向きなのではないかと感じていたし、感情を出すことで誰かの感情を良い意味でも悪い意味でも揺らすことが怖くて仕方なかった

意思表示することは自分と相手を大切にすること

「相手が怒っているときは黙って話を聞く」
これが私の学んできた処世術であるが、だんだんそれが間違っていると気づき始めたのはここ数年の話である

「ヨウさんは何でずっと黙ってるの?」「言いたいこと言いなよ」
会社という組織から離れフリーランスとして働くようになった私は、いつしかプライベートでも自分の意見を言うことを控えるようになっていた

本当はこうしたい、こう思っている、どんなことをどんな風に感じて何を考えどんな風に結論を出しているのか
私が他人に対して知りたいと思っていることだ
これをそっくりそのまま、「ヨウさんの考えや思っていることを知りたい」と私に対して言ってくれる友人・知人が増えたのだ

確かにどんなに仲が良くても、相手に興味があっても、自分の思っていることは言葉で伝えない限り相手に理解されることは永遠にない
目的は理解されることにあるのではなく、伝えることにこそあるのだ
自分の思っていること、感じていることを相手に伝え、それをどう受け取るかは相手次第であるし、自分がコントロールできるところではない
だからと言って怖がっていては、それこそ相手に対して「自分の印象操作」をしていることになりかねない
黙っていること、意見を合わせることで、相手に「この人は良い人だ」と思わせたい、そんな深層心理が恐怖の裏にあったのではないかと推察する

自分の思っていることを素直に表現して、それを肯定的に捉えられても否定的にとられたとしても、それが自分という人間であるし、それが相手の感性でありそれが相手という人間なのだ
意思表示をすることで守られるのは自分の考えだけではなく、相手の感性や自分の考えを知りたいと思ってくれている姿勢を尊重することにもつながるのだ
自己開示することで相手を安心させることもできるし、自分という人間を知ってもらう大きな機会であり、それによって相手の本当の気持ちを引き出すことも可能だ、これこそが「真の対話」であると、私は人間関係を通じてようやく気づくことができたのだ

自他を区別した上で自己表現する

これまでで述べてきた通り、私は相手の顔色を伺い、意見を合わせることによって相手に気に入られようとしたり批判を買わないように努めてきた
しかしこれでは自分を大切にできていないだけでなく、他人のことも信用できていないことにつながる

「私がこう言ったら相手はどう思うだろうか?」
「きっとこんな風に思うのではないか?」
この視点はとても大事なことだ、しかし、
「おそらく相手はひどく気分を損ね怒り出すだろう」
ここまでいくと自他の区別がついていない、つまり相手の考え方を尊重できていない、理解しようとする姿勢がないことになってしまう

どこまで自己表現するか、自己開示をするかは人それぞれであるし、もちろん正解などない
自己表現が得意なひともいれば、苦手なひともいる
自己開示をして押しつけに感じる人もいれば、安心して仲良くなれる人もいるだろう

飲食店で注文を間違えられたらどうするか?
今の私なら、心の状態にもよるだろうが、すなおに「注文が間違っていますよ」と言えるだろう
相手がどう思うか、どのように感じるかは相手だけのものだ
私たち人間はそれを想像することはできても、それはあくまで自分の価値観のうえでのちっぽけな憶測でしかない

「相手が自分の考えを受け入れてくれるかどうか」が大事なのではない
「自分が思っていることや意見・感情を相手に伝えること」自体に意味があるのだ
そこから対話がはじまり、意見交換につながり、自己表現ができる喜びや相手の意見に触れられる楽しさにつながっていく

自己表現は、自己理解、相互理解の基盤であると私は思う

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