【授業】”きれいな授業”を目指してはいけない
日々の授業、1時間1時間を頑張って教えている先生がいます。導入、展開、まとめ、きれいに整ったわかりやすい授業をしています。
もちろんこれはいいことなのですが、「1時間」という枠に囚われすぎて、"最終目標"を見失ってはいないでしょうか。一番大切なのは、ぱっと見の”きれいさ”ではありません。
特に研究授業などのときには、この”きれいさ”を重視してしまいますよね。気持ちはよくわかります。でも、そこに引っ張られすぎてはいけません。
また、1時間毎の短期的な”わかりやすさ”ですらありません。もちろんわかりづらいよりわかりやすいほうがいいに決まっています。でも、”わかりやすいだけ”の授業では、あまり意味がありません。
最後の授業のときにどんな姿になっていてほしいか。その”最終目標”を達成するための「今日の1時間」になっていますか?
〈私の授業思想〉
授業で最も大切なのは、1年後、もしくは卒業のときに”最終目標”を達成していること。そして、最終目標達成への道のりの中に、「今日の1時間」が明確に位置付けられていることです。
「わかりやすさ」は、最終目標達成のための、1つの道具にすぎません。なので、時にはあえて分かりづらくして疑問をもたせるという授業だって考えられます。
最終目標を達成するためには、最終目標が明確でなければいけません。「明確にする」とは、言語化しておくということです。
そして「今日の1時間」を明確に位置づけるためには、最終目標に向かう中期目標(学年の目標、単元の目標)を設定し、その達成に向けた短期目標(本時の目標、めあて)を設定することが必要です。
最終目標は学習指導要領に基づく必要がありますが、私は教師が自分の言葉で表現することが大切だと思っています。
〈私の工夫〉
私の授業の最終目標は「『よりよい社会とはなにか、どうすればそれを創ることができるのか』という問いに、自分なりの答え(考え)を示せるようになる」ことです。
具体的には、中学3年次の最後の10時間で、この問いに答える「卒業論文」を書いてもらいます。
最後にこの課題をクリアできるようにするため、1年次にはディベートとそれに基づくレポートを何度も行い「AとB、どちらがよりよい社会か」という問いに答えられるようにします。
2年次には「この問題を解決して、よりよい社会にするにはどうするべきか」という問いに答えられるようにするため、プレゼン合戦とレポートを繰り返します。
3年次には「問題」を見つけるところから始めさせ、各単元で「〇〇(政治、経済等)の視点から、日本をより良くするためにはどうするべきか」という問いに答えるレポートを書いてもらいます。
3年間のレポートは、すべて卒業論文のと同じ形式(分量のみ少なくして)で書いてもらいます。
このように段階を踏むことで、1年時の最初には途方も無い課題に見えた最終目標の問いに、3年次の最後には答えられるようになっています。
また通常の1時間1時間の授業は、デイベートやプレゼン合戦、レポートに向けた材料集めと位置付けています。
そうするために、1年時最初の授業では3年間の最終目標と1年時の中間目標を、2年時最初の授業では2年時の中間目標を、3年時には最終目標を確認します。
また単元最初の時間には、ディベートやプレゼン合戦、レポートのテーマ(単元の目標)を伝えています。
〈まとめ〉
最終目標は、教科によって、先生によって違っていいと思います。授業をする先生の思いが強く入ったものがいいでしょう(もちろん公正公平なものでなくてはなりません)。
とにかく先生なりの”最終目標”をもつこと、そしてその達成のための道のりの中に1時間1時間の授業を明確に位置づけること。これが大切だと思います。
決して、1時間の”きれいさ”や短期的な”わかりやすさ”にとらわれてはいけません。