界隈塾

宮台真司の界隈塾スタッフが運営。宮台先生が書かれた口上などを保存し発信していきます。

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最近の記事

界隈塾vol.5《特殊と普遍》口上

来たる11/17(日)の界隈塾 (ゲスト:近田春夫氏、テーマ:特殊と普遍-宮台真司と近田春夫のこれからのコト) の告知動画4分30秒です。テーマ(お題)は近田氏から戴きましたが、やや抽象的なので、僕が何をやろうとしているのかを語っています。 【特殊と普遍について】 ●特殊と一般 ⇔ 単独と普遍 ●一般とは「同時代の皆(広域)」 ⇔ 普遍とは「永劫回帰を見通す単独者」 ●近田氏がお題に込めた思いは? 【宮台歌謡曲セトリ*の昭和論について】 ●歌謡曲とは何だったか ⇔ J-P

    • 真鍋厚×宮台真司『人生は心の持ち方で変えられる?』に寄せて

      真鍋厚×宮台真司_人生は心の持ち方で変えられる?_出版記念10/31(木)19:00~ジュンク堂池袋店に、寄せます。広い意味で、生き方を変えるための個人的な枠組変更を「自己啓発」と呼ぶと、それが「社会の奴隷になること」を意味する可能性を、真鍋厚氏は危惧しておられます。僕の言い方だと、所詮は「ブラックな社会を温存するための週末のサウナ」として消費される可能性です。とりわけ「自己啓発」が商業化・産業化された1977年以来の50年弱の流れを見ることが、まず大切です。 1992年に

      • 中谷友香さんによる口上(第4回界隈塾)

        2024年10月6日 家出と恋愛に過剰に精を出していた私と出家と修行に過剰に精を出してきた彼ら。 幽体離脱が日常の「全くキラキラしない霊感少女時代」の私と「キラキラ神秘体験」を求めた彼ら。異なる場所で、異なる風景を見て来た私たち。 死刑囚・無期懲役囚、そして娑婆に戻って来た有期刑の者たち。 異なる体験を得た私たちだが、気がつけば20年間以上も対話を続けている。異なる道を歩んできた我々だが、案外、似た者同志なのかもしれない。 セクシャリティの違いや置かれた立場を超え、同

        • 中谷友香『幻想の√5』によせて

          19.04.11【宮台原稿】帯コメント案 中谷友香_幻想の√5: なぜ私はオウム受刑者の身元引受人になったのか 【長いバージョン】  本書は、オウム裁判や報道がないがしろにしてきた、「事柄の真相」ならぬ「心の深層」に、深く分け入る第一級資料だ。読者は誰もが、自分の心を重ね合わせ、勧善懲悪に収まらないモヤモヤを体験し、言いようのない混乱に向き合うだろう。  世の中では「自分と向き合うこと」「心の中にある悪を見つめること」「エゴを捨てること」は善き営みだとされてきた。だがポイン

          第4回界隈塾口上

          宗教と恋愛に怯えれば、あなたは永久に生きづらい ―他責化と他罰化に勤しむクズが湧き始めた訳― [長い口上] 宗教と恋愛は長く、人を生きづらさから救済する常設された「社会の外」だった。だが、ある時期を境に不健全な依存だと見做されて不安視されるようになる。その時期とは、オウム事件が明るみに なり、援交ブームが頂点を迎えた95年。翌96年から恋愛と宗教が「過剰」として回避され始めた。「過剰」の回避は他領域に拡大。政治の話題・性愛の話題・本当に好きなものの話題が忌避され、過剰を恐れ

          第4回界隈塾口上

          界隈塾出張番外編《なぜまちづくりは失敗するのか?》を振り返って

          【価値観から、よく分からないけど凄いへ】 唐十郎の追悼特集群に触れて落胆しました。何も分かっちゃいない。唐芝居の理解の鍵は「つまらなさ」。価値やイデオロギーを伝える新劇芝居へのアンチテーゼです。 どんなアンチテーゼか。正しかろうが間違いだろうが、規定可能なものは「つまらない=力を奪う」。規定不可能なものだけが「わくわくさせる=力が湧く」。 だから、言葉ではなく言外(身体)が重要。それゆえ、ヘーゲル(全体)でなく、バタイユ(過剰)やレヴィナス(無限)が重要。分かることより

          界隈塾出張番外編《なぜまちづくりは失敗するのか?》を振り返って

          史的唯物論の「上部・下部構造二元論」と社会システム理論の「コミュニケーション一元論」

          2023年8月5日 文化主義という物言いはマルクス主義(に関わる論争)の残滓に過ぎない。経済的下部構造と文化的上部構造を分離、前者が後者を規定するのか(マルクス)、後者「も」前者を規定するのか(ウェーバー)、二十世紀半ばまで、とてつもなく長く議論された。そこではウェーバーの立場が「文化主義」と蔑称された。誤解し易いが、ウェーバーは下部構造と上部構造の双方向的な規定を主張していただけだ。 ウェーバー研究から始めた社会システム理論の創始者パーソンズも、AGIL図式で、経済的下

          史的唯物論の「上部・下部構造二元論」と社会システム理論の「コミュニケーション一元論」

          『呪怨 呪いの家』:「場所の呪い」を描くJホラーVer.2、あるいは「人間主義の非人間性=脱人間主義の人間性」

          20.08.23【宮台原稿】リアルサウンド映画部 【90年代に「場所の呪い」が出現】  7月からNetflixのドラマ『呪怨:呪いの家』(以下、『呪いの家』)が配信中だ。三宅唱監督のこの作品は冒頭にナレーションが入る。「『呪怨』は実際に起きた出来事を参考に作られた。それらの出来事はある一軒の家に端を発していることが分かった。だが、実際に起きた出来事は映画よりも遙かに恐ろしいものだった」。ここでの『呪怨』は2003年のオリジナル映画(またはビデオ版『呪怨』2000年)を指す

          『呪怨 呪いの家』:「場所の呪い」を描くJホラーVer.2、あるいは「人間主義の非人間性=脱人間主義の人間性」

          Dommune「死に損なった二人のコンテンツ大学」番外 探偵小説の「哲学」 社会学者・宮台真司

          【「微熱の街」を召還した「紅テント」の唐十郎】 今年5月、唐十郎の追悼特集群に触れて落胆しました。何も分かっちゃいない。唐芝居の理解の鍵は「つまらなさ」。価値やイデオロギーを伝える新劇芝居へのアンチテーゼです。 どんなアンチテーゼか。正しかろうが間違いだろうが、規定可能なものは「つまらない=力を奪う」。規定不可能なものだけが「わくわくさせる=力が湧く」。 だから、言葉ではなく言外(身体)が重要で、それゆえ、ヘーゲル(全体)ではなくバタイユやレヴィナス(無限)が重要、つま

          Dommune「死に損なった二人のコンテンツ大学」番外 探偵小説の「哲学」 社会学者・宮台真司

          死に損なった2人のコンテンツ大学(現実を夢のように生き、夢を現実のように生きる)~~第1回テーマ:「冷えた令和」から「微熱の昭和」へ

          第1回「前半」口上:歌謡曲の微熱 2020年冬から2022年夏までの2年半のコロナ禍。当初はリモートを嘆く声が専らだったが、リアル再開の頃にはリモートを望む声に反転した。反比例して、授業で歌謡曲を聴かせると「J-POPよりずっといい!」という学生が激増した。60年代後半のアメリカンポップスを聴かせても同じだった。どうしてなのか。 学生たちと討議して分かった。第1は「詩的言語」問題。16ビートにのせたJ-POPのリリックに比べ、8ビートにのせた昭和のリリックは情報量が半分。

          死に損なった2人のコンテンツ大学(現実を夢のように生き、夢を現実のように生きる)~~第1回テーマ:「冷えた令和」から「微熱の昭和」へ

          SUPERDOMMUNE第2回テーマ:「微熱の街」が消えたら「テンプレ」のBOTだらけに

          第2回「前半」口上:「微熱の昭和」が、「正しい令和」よりマシに感じる訳 前回は予定の半分しかできなかった。「微熱の昭和」をコンテンツから想像してほしくて、特 に阿久悠作詞の歌謡曲を聴いて貰った。そこに「願望→挫折→忘却→渇き→癒し」の構造を 見出せた。「癒し」は、「願望」を思い出し、願望を忘却しなかったらあり得た「もう一人の自 分」が隣りの世界線を並走する姿を、想像して、そこに飛び移る意欲を惹起する形だった。 「挫折」には「上京→不全→望郷→帰郷不全」という

          SUPERDOMMUNE第2回テーマ:「微熱の街」が消えたら「テンプレ」のBOTだらけに

          映画「ここにいる、生きている」と、バタイユと吉本の全体性  体験デザイン研究所・風の谷 第1回7/18 19時 by宮台真司

          長谷川友美監督「ここにいる、生きている。」(近日公開)解説 テーマは、世界中の沿岸部で生じている海の砂漠化(磯焼け)だ。原因は海水温の急上昇。百年オーダーで対処できない。切口は、天然昆布の枯渇と高騰だ。我々の生活形式が既に変容を強いられている。気付いているのは漁師とグルメだけ。程なく誰もが気付くだろう。 問題は、原生自然の間接化だ。分業編成の複雑化を背景に、経済を市場に閉ざされたものだと—「交換」で完結すると—観念してしまった。だが270年前のケネーと70年前のバタイユと

          映画「ここにいる、生きている」と、バタイユと吉本の全体性  体験デザイン研究所・風の谷 第1回7/18 19時 by宮台真司

          体験デザイン研究所・風の谷第1回イベント「原生自然と人」7/18 19時~ ことカフェ(西荻窪)口上4「屋上に上がって同じ世界に入った者が手を携えて地上に降り立つ」 by宮台真司

          80年代半ばまでは、どんな団地も、校舎も、社屋も、伴がかかっていなくて、屋上に昇れた。屋上に昇ると、今と違って高層建物がなかったので、地平線まで見晴るかせて、ぼわーっとした街頭音を聴けた。そこに行けば、地上を生き辛い「同類」を見付けられた。 僕は、中学高校紛争後の学校が生きづらかったから、体育館の壁面にある非常階段をいちばん上階の踊り場まで昇り、弁当を食べたり、本を読んだりした。同じ場所に時折訪れるNと親友になって、一緒にアマチュア無線技士の免許を取り、そこで無線交信をした

          体験デザイン研究所・風の谷第1回イベント「原生自然と人」7/18 19時~ ことカフェ(西荻窪)口上4「屋上に上がって同じ世界に入った者が手を携えて地上に降り立つ」 by宮台真司

          体験デザイン研究所「風の谷」 第1回イベント 「原生自然と人」口上3「共同身体性がないと、仲間も恋人も家族もできない」 by宮台真司

          93年に東京都立大学に着任した途端に或る体育会系サークルの部長が研究室を訪れた。インターハイを目指した合宿が成り立たなくなった。協働的・共同的な達成を目標に出来なくなった。強化合宿に誘っても「フィットネスのために入ったので」などと断られるのだと。 このモードは今も変わらない。その20年前。73年に僕は麻布中学の空手部に居た。夏休みには志賀高原で合宿。冬休みと春休みは校内合宿した。雪降る中で砂場に水を張り、腰まで使って組手した。夜中にこむら返りする者も出たが、合宿終りには共同

          体験デザイン研究所「風の谷」 第1回イベント 「原生自然と人」口上3「共同身体性がないと、仲間も恋人も家族もできない」 by宮台真司

          体験デザイン研究所「風の谷」第1回イベント 「原生自然と人」口 上 2 「遠くは近くにある」 by阪田晃-

          幼ないころ、森を歩いていると、この森はいったどこまで続いているんだろう、それはもはや永遠のように感じられ、ワクワクと畏れが混在し、なにか深淵を見たような、不思議な感覚に襲われたことを覚えています。遠くに仲間の声が聞こえて、森に飲み込まれずに戻ることができました。 草木の香りや、太陽の輝き、風の音や月明かりの夜の音。父や母、兄弟がそこにいて、同じ世界を体験している。近所の子どもと-緒になって遊んだ記憶。おもしろいおじさんがいたり、やけに色っぽい女の人がいたり。そんな記憶が身体

          体験デザイン研究所「風の谷」第1回イベント 「原生自然と人」口 上 2 「遠くは近くにある」 by阪田晃-

          体験デザイン研究所「風の谷」 第1回イベント 「原生自然と人」口上1「恐いけど恐くない」 by阪田晃一

          今回は、復興支援ではなく、「原生自然と人」がテーマです。「原生自然」をとりあえず「手付かずの自然」とします。そんな場所を旅することを「遠征」と呼びます。今回のゲストの森本さんはいま仲間とカヤックで「手付かずの自然」を目撃できる知床の遠征に出掛けています。 というと、皆さんは「手付かずの自然」を消費対象として捉えて、消費はいいけど自然破壊しないで…という文脈に回収しがち。「原生自然」という場合、「万物の源である法外な贈与&剥奪」ならびに「我々が部分に過ぎないがゆえに規定できな

          体験デザイン研究所「風の谷」 第1回イベント 「原生自然と人」口上1「恐いけど恐くない」 by阪田晃一