中谷友香『幻想の√5』によせて
19.04.11【宮台原稿】帯コメント案
中谷友香_幻想の√5: なぜ私はオウム受刑者の身元引受人になったのか
【長いバージョン】
本書は、オウム裁判や報道がないがしろにしてきた、「事柄の真相」ならぬ「心の深層」に、深く分け入る第一級資料だ。読者は誰もが、自分の心を重ね合わせ、勧善懲悪に収まらないモヤモヤを体験し、言いようのない混乱に向き合うだろう。
世の中では「自分と向き合うこと」「心の中にある悪を見つめること」「エゴを捨てること」は善き営みだとされてきた。だがポイントは、これら「善き営み」が、一定の条件下で「似非グルのために働く殺人マシン」を育て上げた事実である
その「一定の条件」はクリアに構造化された形で示されていないが、そのことで、逆に読者は自力での思考を迫られよう。思考を重ねると、「一定の条件」は、麻原彰晃や教団幹部ら「が」作り上げたものでもない事実が、浮かび上がってくる。
そこには不幸な偶然が重なっているが、心の働きに関する無知がなければ悲劇が起こらなかったことだけは、確信できる。オウム事件の悲劇にもかかわらず克服されていない「無知」を超克するには、本書を手掛りに、自力で考える必要がある。
*
僕の考えを言う。世界はそもそもどうなっているのかを存在論ontologyといい、存在論に向けた思考転換を存在論的転回と呼ぶ。そして、存在論を踏まえた思考や生き方を、昨今の哲学界隈はリアリズムrealism(実在論と訳されているが間違い)と呼んでいる。
僕は、損得オンリーの自発性voluntarinessと区別して、愛と正しさに向かう力を内発性inherenceと呼び、内発性を欠落を「感情の劣化」だとしてきた。だが皮肉なことに、本書に登場する死刑や無期刑になった人々は、今どきの平均的な人々よりも「感情の劣化」を被っていない。
本書は、リアリズムを欠いたままの内発性では大量殺人さえも犯しかねない、という厳然たる事実を突きつけているのである。ontology(世界はそもそもどうなっているのか)を踏まえない思考は、愛と正しさに満ち溢れていても、危険だということだ。
しかし、「世界はそもそもどうなっているのか」という全体性に関わるヴィジョンは、原理的に未規定性を免れられない。「これさえ踏まえれば大丈夫」というトークンが原理的にない以上、グルや真理への依存を回避して、自力で思考する他ないのだ。
このように言うだけでは、しかし「自力で思考したつもり」を排除できず、そこに何よりも大きな困難があると感じる。だが、正しい問いを立てることが、与えられた問いに答えるよりも大切である。本書があれば、私たちは正しい問いを立てることができる。
【中間バージョン】
裁判や報道がないがしろにしてきた、「事柄の真相」ならぬ「心の深層」に分け入る、第一級の資料だ。巷でいわれる洗脳も功名心もエゴもあったろう。だが本書は「善に向かおうとする心の働きと、心の働きに関する無知との組み合わせが、最も恐ろしい」という事実を突きつけてくる。そして僕たちは動転する。僕たちがこの無知を克服していないからである。
【短いバージョン】
裁判や報道がないがしろにしてきた、「事柄の真相」ならぬ「心の深層」に深く踏み込んだ、第一級の資料だ。読者は、問題を「わがこと化」して眩暈(めまい)を覚えるはずである。
【最短バージョン】
「事柄の真相」ならぬ「心の深層」に分け入った、唯一無二の資料である。