真鍋厚×宮台真司『人生は心の持ち方で変えられる?』に寄せて
真鍋厚×宮台真司_人生は心の持ち方で変えられる?_出版記念10/31(木)19:00~ジュンク堂池袋店に、寄せます。広い意味で、生き方を変えるための個人的な枠組変更を「自己啓発」と呼ぶと、それが「社会の奴隷になること」を意味する可能性を、真鍋厚氏は危惧しておられます。僕の言い方だと、所詮は「ブラックな社会を温存するための週末のサウナ」として消費される可能性です。とりわけ「自己啓発」が商業化・産業化された1977年以来の50年弱の流れを見ることが、まず大切です。
1992年に、過激勧誘や精神錯乱事故への批判で、1978年からの個人が購買する「狭い意味での自己啓発=アウェアネストレーニング」から、企業が購買する「コーチング」への転換が始まり、2007年のリーマンショック(経済的未来の喪失)を機に、「盛る自己啓発」から「捨てる自己啓発(日本なら近藤麻理恵や断捨離、世界的にはSBNR)」への転換があった、という流れが大切です。流れは何を意味するか?
社会システム理論の生態学的思考からすれば、流れの全てはほぼ例外なく、「不全感の個人化」と「不適応問題の非政治化」を通した「社会システムを変えないで個人を適応させる動き」です。エリートの不全感に対応する新新宗教であれ、SBNR(無宗教型スピリチュアル)を含めたスピ系であれ、所詮はラベルを貼り替えただけの「社会の奴隷化装置」ということになります。それに気付くには、共同体的な歴史意識と、社会システム論を含む生態学的思考が要ります。
企業経営陣によるマインドフルネスやアドラー心理学の、仏教やアドラーを熟知する者が爆笑する「御都合主義的な導入」が問題を象徴します。1995年の『終わりなき日常を生きろ』にある通り、頓馬が口にするコミュニティとは異なる、交換ならぬ贈与(モース)・法ならぬ掟(ウェーバー)・ルールならぬ共通感覚(マキーバー)、をベースにした共同体からの疎外・による孤独・による不全感を、徹底的に個人化して体験枠組の変更を迫るのが「社会の奴隷化装置」です。
この「社会の奴隷化装置」からの離脱には、上の意味での、安全・便利・快適の利己主義を離れた、身体的・感情的な共同体体験を前提として言語的・理性的思考を展開するための、「育ちの良さ」が論理的に必要です。シュタイナー的臨界期概念に即せば、身体能力→感情能力→理性能力、という「積み上げ」です。それを実装することを明確に目標とするのが「森のようちえん」(本日から秩父で全国大会)を含む「体験デザイン研究所・風の谷」です。宮台×おおたとしまさ『子どもを森に帰せ』参照