【音楽史】「西洋音楽と黒人音楽の融合」って一体どういうこと? 民族舞踏を起点に綴りなおす、クラシックとポピュラーの関係
ポピュラー音楽にはジャズ、ブルース、ラテン音楽などさまざまなジャンルがありますが、その発生過程について必ず「西洋音楽と黒人音楽の融合」という説明がなされます。
しかし、そのような言葉で説明されたところで、歴史的事実として文字上の意味はわかっても、音として実際に理解している方は非常に少ないのではないでしょうか?
こんにち主流の「ポピュラー音楽史」の内容は実質「ロック史」となってしまっており、1950年代の「ロックンロールの誕生」以降ロックのサブジャンルについては数年単位のムーブメントまでやたらと詳細に語られるのに、ジャズやラテン、ミュージカル、ブラックミュージックなどのロック外にある豊富な分野や1950年代以前の流行音楽については、かなり乱暴にまとめられてあやふやにぼやかされてしまっているという現状があります。
ロックンロールより前は省略可能な「前史」で、ロック史こそが重要な「本史」なのだ、という限定された視点に誘導されてしまっているのです。
そもそもクラシック史もポピュラー史も「過去のもの = 粗雑で単純」「新しいもの = 高度で複雑」と一方向に定め、「単純なものから複雑なものへ」というシンプルな進歩史観的ストーリーで語ろうとする傾向が非常に強く、その流れに当てはまらない分野や系譜は隠されてしまい見えづらくなっています。
今回特に注目する19世紀後半~20世紀前半は、クラシック音楽の全盛期でもありながら、ポピュラー音楽の成長期でもありました。ヨーロッパのブルジョワ市民のあいだで支持されていたクラシック的な社交ダンスや流行音楽が、植民地・帝国主義によって全世界的に波及し、こんにちのポピュラー音楽の源流になったといえるのです。
しかし、この時期クラシック界では、【ワーグナー → ドビュッシー → シェーンベルク】という「ハーモニーや音楽理論の極端な複雑化」の方向性が正義だとされる風潮が強まっていて、「下等な大衆音楽と高級な芸術音楽は決定的に異なる」というドイツ人由来のエリート的な差別史観が正史として定着していくことになります。そのため、クラシック音楽から直接ポピュラーにつながる系譜が隠されてしまいました。
一方で、現状のロック中心的なポピュラー音楽史としては、「ロック前史」として黒人奴隷による労働歌からブルースやカントリーミュージックなどの「土臭いルーツ・ミュージック」だけが注目され、それが"ホンモノ"であると評価しようとする傾向が非常に強く、黒人奴隷を労働使役・差別支配していた側である"白人サイド"の音楽の流れは現在では敵視され、隠されてしまっています。
このような、「クラシックサイド」からも「ルーツミュージックサイド」からも見放されてしまったのが、19世紀後半~20世紀前半の「ポピュラー音楽」だといえるのです。
しかし、この時期の"正史"とされているクラシック音楽も、アメリカンルーツミュージックも、双方がむしろアンダーグラウンドなものであり、双方から敵視され「俗物」「商業音楽」といったレッテルの貼られたポピュラー音楽のほうこそが、当時の人々に1番普及していた音楽だったといえるのではないでしょうか?
その「善悪」の評価はひとまず置いておいて、まずはその系譜をきちんと認識することが大切だと僕は考えます。そして、そうすることでクラシック史とポピュラー史をごく自然に接続することができるはずなのです。
これまで過去の記事で、包括的にクラシック音楽史とポピュラー音楽史を接続する試みをやってきましたが、それらも引用しながら、今回は改めて「クラシックからポピュラー音楽への変遷」に焦点を当ててまとめてみたいと思います。
今回は、オペラやオペレッタ、ワルツやポルカといったクラシック音楽から、ラテン音楽やジャズ史を通過してロックンロールの誕生までをひとつなぎにすることを目標にします。それではまいります。
◉17~18世紀
まずはクラシック史の段階から確認していきたいと思います。今回は通常のドイツ的な「学問クラシック」の系譜を中心に置くのではなく、あくまでも娯楽的な側面や実用音楽的な面を重視して追っていきます。
まずはバロック音楽からスタートしてみましょう。
ルネサンス末期、イタリアでギリシャ悲劇の復興運動が起こされ、オペラが誕生します。最古のオペラは1597年のものだと言われてますが楽譜は消失しており、現存しているもので最古の作品は1600年の作品とされます。通常、クラシック史の直接の「始点」とされるバロック音楽のはじまりは、このオペラの誕生からとなります。
当時のクラシック音楽史上の構図を確認すると、17~18世紀のバロック期では、イタリアの文化人の間でオペラを中心として祝祭的な音楽が発達。フランスではルイ14世~16世に至るまで豪華絢爛な貴族文化が発達し、フランス式のオペラやバレエなどの宮廷音楽が嗜まれました。一方でドイツ地域は戦争によって荒廃し、文化的にも後進地域とされてしまっており、プロテスタント文化を基盤としたコラールなどの質実剛健な宗教音楽が鳴らされていました。
さて、この時期には既にヨーロッパ各地に民族舞踏というものが生まれて流行しています。西はスペインから東はポーランド以東まで、東西ヨーロッパの各地域から発祥し、フランスやイタリアの音楽にも取り入れられて流行した舞踏。そのジャンルは、アルマンド、ガヴォット、クーラント、サラバンド、シチリアーナ、シャコンヌ、タランテラ、パスピエ、パヴァーヌ、ポロネーズ、マズルカ、ミュゼット、メヌエット、スケルツォ、リゴードンなど枚挙にいとまがありません。
これらはそもそも中世以来から出現し、民間で行われた踊りが宮廷にも取り入れられ、さらにそれがふたたび民間でもてはやされるといった一種の循環作用で成立していました。つまり、クラシック音楽の作品にもごく自然に多く取り入れられて舞踏音楽として貴族社会を彩っていたのです。
これらのジャンル名がそのまま作品のタイトルとしても付けられて現在にも残っているため、舞踏のジャンル名ではなくクラシックの作品名として認識している方も多いかもしれませんね。
◉18世紀後半
オスマン帝国(トルコ)の軍楽隊はメフテルと呼ばれ、強烈なインパクトをヨーロッパに与え続けていました。
その影響もあり、ヨーロッパ各宮廷の軍楽隊が発展していき、吹奏楽へと繋がっていきます。さらに、クラシック作品としてもこのリズムを取り入れるのがブームとなりました。モーツァルトやベートーヴェンの「トルコ風行進曲」が有名ですね。
イギリスの植民地だったアメリカでは、独立戦争を経て1776年に独立します。「ヤンキードゥードゥル」などの愛国歌が人気となりました。
吹奏楽史的には、1783年「マサチューセッツ・バンド」と1798年「海兵隊バンド」が創設され、この2バンドを軸にアメリカ吹奏楽史が発展していきます。
またこの時期、スペインにはカスタネットやギターを用いたフラメンコ、ボレロ、パソドブレといった民衆音楽のジャンルが登場します。このようなスペイン音楽の発生は、このあとクラシック音楽とポピュラー音楽の両方に波及していきます。特にスペインはこの時期まで中南米諸国を植民地支配していたため、ラテン音楽の発生にも関係していくことになるのです。(※「ボレロ」といえば、現在最も有名な「ボレロ」はフランスのラヴェルが20世紀にこのリズムを使って作曲したクラシック作品であり、民衆音楽のボレロそのものとは少し異なります。)
◉19世紀前半
ヨーロッパ社会では18世紀末にフランス革命が起こり、19世紀初頭にかけてナポレオン戦争から大変革期へと突入していきます。音楽史状況としては特に、ベートーヴェンの登場からドイツ語圏の学問的・哲学的な「芸術音楽」というエリート意識が高まり、クラシック音楽史的には従来そちらが重視されますが、一方でパリやウィーンでの社交界での華やかな音楽や、娯楽的なイタリアオペラなど、そして民衆音楽も引き続き発生し、嗜まれていきました。
ナポレオン戦争後のパリの街には多くの貴族や新興ブルジョワジーらが住み、絶対王政の宮廷時代から続く華やかな文化を引き継いで、社交が行われていました。一瞬で社会が民主化したわけでは無く、一筋縄ではいかない動乱が続いていたため、貴族社会は断絶したわけではなく、むしろ「継続」したとの見方が近年主流になってきているそうです。王侯貴族の権威が解体された後も、階級意識は浸透しており、裕福な貴族や大資本家たちから支援を受けて音楽家が活動していました。各邸宅にて頻繁に開催されたパーティーは、「サロンコンサート」と呼ばれ、19世紀前半のフランス音楽が発展する重要な舞台となります。
このサロンコンサートで活躍したのが、ポーランドから上京して頭角を現したショパンです。繊細なピアノ曲で多くの貴族の女性を虜にしたのですが、その楽曲の要素には「マズルカ」「ポロネーズ」など、ポーランドの民族舞曲のリズムが取り入れられていました。
◆民族舞踊としてのポロネーズ
◆ショパンのポロネーズ
サロンコンサートでは他に、リストやパガニーニが超絶技巧の指テクを披露する名人芸的パフォーマンスで貴婦人たちを喜ばせ、ヴィルトゥオーソと呼ばれていました。
さらに、19世紀に入ってからウィーンなどのヨーロッパ社会で爆発的に流行した舞曲が、ワルツ(ウィンナ・ワルツ)です。国際的な場に初めてワルツが登場したのは1814年「会議は踊る、されど進まず」で有名なウィーン会議でのことで、これを機に世界中に広まっていったとされます。
また、2拍子の軽やかなポルカやチャルダッシュなど、チェコ(ボヘミア)やハンガリーで発生した舞曲、そしてカドリーユという4組のカップルが四角形で踊るスクエアダンスも、ワルツとともに爆発的に流行しました。
19世紀前半、競い合うようにワルツ、ポルカ、カドリーユなどの作品を書いたのがヨハン・シュトラウスⅠ世とランナーの2人です。
このようなヨーロッパでの都市文化の流行音楽(ワルツ、ポルカ、マズルカ、カドリーユなど)が、中南米の都市へも伝わり、流行します。フラメンコなどのスペイン民衆音楽も伝わっており、そのような土着音楽や、さらにアフリカンの打楽器的なリズムと独自に融合し、このあとラテン音楽の発生へと繋がっていくことが、今回意識しておくべきポイントです。
◉19世紀後半
19世紀後半、パリやウィーンでは半世紀にわたってオペレッタが流行しました。オペレッタとは「小さいオペラ」の意味で、オペラをより庶民的に楽しめるようにした喜劇中心のエンターテインメントショーです。
オッフェンバックの「天国と地獄」、ヨハン・シュトラウスⅡ世の「こうもり」、スッペの「軽騎兵」、ビゼーらの作品が有名です。
現在ではこれらはクラシック作品として鑑賞されていますが、当時は、ワーグナーやブラームスといった"崇高で深淵"なドイツの「純音楽・芸術音楽」と比較して「軽音楽」と呼ばれていました。つまりオペレッタは、ドイツの「クラシック音楽」に対する「流行音楽」「ポピュラー音楽」という立ち位置だったのです。
実際、オペレッタの流行がどんどん各地に波及してヨーロッパ大陸から離れ、イギリスのサヴォイ・オペラやアメリカンオペレッタ~ミュージカルへと発展していく流れはクラシック史にはまったく記述されず、ここから本格的な「クラシックルーツのポピュラー音楽」の系譜のスタートとなります。
アメリカでは、イギリスから来米したギルモアによって軍楽用ではないコンサート用の吹奏楽バンドが発展させられていきました。1861年~1865年には、アメリカ南北戦争が勃発。戦争中、北軍・南軍の両方で、多くの民謡・愛国歌・賛歌が流行し、士気を高めました。ギルモアは北軍の軍楽隊を編成する仕事や、委員会の結成などで忙しく活躍しました。
また当時、ミンストレル・ショーという黒人差別的な舞台演芸が発展していき、そこでフォスターやヘンリー・クレイ・ワークが書いた作品がアメリカの民衆に伝播していき、アメリカ民謡として親しまれるようになっていたのです。さらに、大陸横断鉄道の建設も始まり、アイルランド系の移民が労働歌を歌うようにもなっていました。
こういった楽曲からは、しっかりとクラシックルーツでありながらも、当時のヨーロッパ大陸での(特にドイツでの)深遠で崇高な「芸術」という方向性ではなく、その後の「アメリカ音楽」「ポピュラー音楽」への萌芽を感じることができます。
その後、スーザの活躍によってアメリカのブラスバンドはさらに発展していきました。
19世紀後半にアメリカのマジョリティーの白人民衆に親しまれた「ルーツミュージックではない側の音楽」としては、「フォスターとスーザの時代」だったということができるでしょう。
もともとフォスターらがミンストレルズのために生んだ黒人の憂いや苦さも含んだ歌が、南北戦争頃に歌だけが独立して広まるにつれ、歌詞が変えられてアフリカン・アメリカン色が無くなることで、白人中心の国民唱歌へと吸収されていっていました。中流階級の自宅の居間で口ずさまれるような家庭向きの歌として、「パーラー・ソング」と呼ばれました。イングランド・スコットランド民謡からの影響もあると言われています。
ところで、ミンストレルショーの中で、景品のケーキを目指して競争させられる黒人たちのようすを茶化した「ケークウォーク」というダンスが流行っていましたが、その音楽としてマーチやポルカ風の軽快な2拍子の音楽にイギリス民謡系のフィドル音楽が黒人風のシンコペーションで組み合わさって表現されていました。
このような部分から、従来のクラシックでは見られない「ずれたリズム」が見られるようになります。
ケークウォークは、フランスのクラシック作曲家ドビュッシーも興味を示し、「ゴリウォーグのケークウォーク」という楽曲においてリズムが取り入れられています。
このようなヨーロッパのクラシック音楽でなくとも、アメリカ音楽としてピアノでも演奏されるようになり、左手ではマーチに起因する2拍子の伴奏を奏でながら、右手では独特のシンコペーションのリズムを多用するという演奏スタイルが、ずれた時間「ragged-time」略して「ラグタイム」というジャンルになったと言われています(諸説あり)。
さて、ここでいよいよ、ラテン音楽史について触れることになります。
スペインやポルトガルの植民地だった中南米諸国ですが、19世紀初頭には植民地からの独立を果たしました。しかしその後も、先述した通りヨーロッパの都市文化の音楽(ワルツ、ポルカ、マズルカなど)が流行していました。その影響下において、アフリカ音楽のリズムとの融合が進んでいくことにより、ラテン音楽が発達していきます。
まずは、キューバの首都・ハバナでハバネラという音楽が発生し、スペイン本国でも流行し、さらにスペイン経由でアルゼンチンにも伝えられ、1870年頃に流行していました。ハバネラは正確にはスペイン語読みで「アバネラ」と発音し、「ハバナの舞曲」のことを言います。ハバナの社交界から始まった優雅なダンス・リズムで、ヨーロッパから伝わった舞曲がハバナスタイルに形を変えて「ダンサ・アバネラ」となり、これがふたたびヨーロッパにも逆輸入されたのでした。
ちなみに、「ハバネラ」のリズムは、ビゼーのオペラ『カルメン』の中の一曲にも取り入れられて有名なクラシック作品として残っていますね。『カルメン』の初演は1875年なので、時期的にも一致しています。こういう部分からも、クラシックとポピュラーの接着点(分岐点)を見出すことができます。
このハバネラが高速化する形で発展し、アルゼンチンではさらにミロンガというジャンルが誕生します。ミロンガは19世紀後半のアルゼンチン音楽として流行しました。このリズムは、先ほど紹介したケークウォークのリズムにも類似しています。
ミロンガがさらに発展し、19世紀末にタンゴが誕生します。1900~20年代まで、「ダンスミュージック」として数多くのタンゴスタンダードが作られ、「グアルディア・ビエハ(古いタンゴ、古典曲)」と呼ばれています。(「ラ・クンパルシータ」など。)
さて、キューバでは19世紀後半、オリエンテ地方にて、土着の音楽やスペイン音楽、トローバ(吟遊詩人の歌)などが融合してソンというジャンルが誕生します。
「ソン」の特徴は「クラーベ」というリズムです。もともと西アフリカをルーツとする、鍬(くわ)を打ち付けて演奏されていた3連符のリズムが、カリブ海諸国で3連符でないものと合体し、「ルンバ・クラーベ」「ソン・クラーベ」が誕生しました。
これがのちにルンバやマンボなど、20世紀の多様なラテン・キューバン音楽に発展する、キューバの基幹音楽となります。以下の音楽を聴いていただくと、打楽器の要素が強く、その分現在のポピュラー音楽にぐっと近づいた気がしますが、旋律やハーモニーの面に耳を傾けると、クラシカルな側面を感じることもできるでしょう。
19世紀末には、スペインから伝わったコントラ・ダンサ(舞踊)が「ダンソン」として流行しました。ダンソンの要素やアフリカ音楽の要素を吸収しながら、「ソン」は発展していきました。ボンゴやギロなどの楽器が追加されていき、20世紀にはついにアメリカ全土へ広まっていきます。
中南米で唯一、スペイン語圏ではなくポルトガル語圏であるブラジルでは、ヨーロッパ系移民が持ち込んだ当時流行のポルカが基本となり、1870年頃にリオの酒場でショーロという器楽音楽が確立されます。スペイン語圏とは一線を画すブラジル音楽はこのあとサンバに発展していきます。ショーロは、ピシンギーニャによってクラシカルで近代的なハーモニーが当てられ、発展していきました。
このような黎明期のラテン音楽を聴いていただくと、意外にもクラシック音楽の要素も強く感じることができると思います。
今回記事の冒頭で示した、「西洋音楽と黒人のリズムの融合」というフレーズの意味するところはこのような部分に着目することで理解しやすくなると思います。
そして、ここでジャズの誕生にも触れることとします。ジャズ史は単独でも記事にしているのでさらに重複になりますが、改めてこの記事に併せて掲載してみることにします。
ジャズはアメリカ南部のニューオーリンズという街でうまれました。ニューオーリンズはスペインやフランスの領地だった歴史があったため、混血が進み「クレオール」と呼ばれていました。1803年、ナポレオンがルイジアナをアメリカに売却して以降はアメリカの法と奴隷制が施行されます。
1861~1865の南北戦争を経て奴隷解放となりますが、ここで「一滴でも黒人の血が混じっていれば黒人とみなす」という基準により、今まで恵まれた生活をしていたクレオールの人たちは一転して地位が転落してしまいます。黒人エリート階級は崩壊し、職を奪われたり生活基盤を失う者も多く出ました。こうした中で、音楽の教養のあるクレオール人は、黒人ブラスバンドの教師役を務めたり、キャバレーの演奏者となって日銭を稼いだりしました。こうして、アフリカ系の音楽や歌に、クレオールたちが身に着けた西洋音楽の要素が自然に溶け込んでいったと言われています。アメリカ全土ではフォスターのパーラー・ソングやスーザのマーチが大人気の時代です。
南北戦争の終戦を機に、南軍の音楽隊は次々に解散していき、それまで使われていた楽器が市場に大量に放出されることになります。安価で流通し始めた楽器を手にし、見よう見まねで覚えた黒人たちが、独自の音楽を奏でることになっていきました。クレオールは黒人たちにヨーロッパ音楽の橋渡しをした形となります。譜面通りに演奏する白人ミュージシャンと違い、黒人たちは耳と頭で覚えたものをフィーリングで演奏しました。ヨーロッパ系のマーチやカドリーユ、ワルツやポルカなどに、黒人音楽のフィーリングを加えたり、ラグタイムなどの要素も加味されていった黒人ブラスバンドが、ジャズの誕生となったのです。
スーザやフォスターなど、世の中全般が音楽を必要としていて、多くの楽団が必要とされていた時代、ニューオーリンズでの暑さは異常で、葬儀や埋葬時の演奏、酒場や売春宿での演奏、街頭での呼び込み演奏、冠婚葬祭のパレード演奏など、白人にとって好ましくない条件でも、奴隷経験のある黒人たちにとっては十分活動できました。ニューオーリンズ特有の文化として、埋葬が終わると「聖者の行進」のように陽気な音楽でパレードをしました。天国に召されることこそ、現世の苦しみから解放される唯一の道という奴隷時代からの意識の表れでもあり、お祭り好きのラテン系の風習でもあるといえます。このようなパレードはセカンド・ラインといいます。
従来、ニューオーリンズという街は「アメリカ南部」だと認識されていましたが、近年では「ラテンアメリカ圏の北部」と捉える見方も出現しています。そのように捉えることで、リズムの面で先程紹介したラテン・キューバン音楽との関連を見出すこともできるようになるのです。キューバとニューオーリンズは、メキシコ湾を挟んで対岸であり、実は音楽的な共通点や影響が深い音楽だといえそうです。
◉20世紀前半
ついに20世紀の音楽ですが、まずは引き続きラテン音楽の発展を述べたいと思います。
まずブラジルでは、ショーロから発展する形で1910年代ごろにサンバが誕生し、リオのカーニバルで演奏されるようになって定着し、パレードのヒット曲のほとんどがサンバになっていきました。特に「電話で」という曲が評判になり広まったとも言われています。サンバは1930年代に全盛期を迎え、普及していきました。
一方、キューバ音楽として定着・発展したソン/ダンソンですが、1920~30年代にその変形スタイルの社交ダンスが「ルンバ」というジャンル名でアメリカに入ってきます。(Songに混同されないよう、マーケティング上の理由により「ソン」ではなく「ルンバ」となったようです。)特に「南京豆売り」という曲が欧米で一大ヒットとなりました。
同じくカリブ海の島国であるトリニダード・トバゴではカリプソというジャンルが誕生しました。
「ラテン音楽」というと、皆さんは今までどのような音楽を想像していたでしょうか。この段階になると、リズムの面では完全にポピュラー音楽の段階になってしまったように聴こえますが、意外にもハーモニーやオーケストラの楽器の面で、クラシック史からの地続きの流れを実感していただけたかと思います。
さて、アメリカの話へと移っていきます。19世紀末、アメリカの舞台演芸は、ミンストレルショーからヴァラエティーシアターへと発展していました。従来の野卑なものに対して、本格派の歌手、コメディアン、曲芸師などを使った正統的で洗練されたショーを公演して成功、以後この種のものが主流となり、1890年から20世紀初頭にかけて全盛期を迎えます。エジソンが白熱電球を発明し、都市が一気に明るくなり、舞台照明も改善されていく中で、ニューヨークのマンハッタンには、劇場街ブロードウェイが建設されていきました。
19世紀末~20世紀初頭にかけて、ヨーロッパから数多くのオペレッタがブロードウェイへ輸入されます(「フロロドーラ」「メリー・ウィドウ」など)。
こうした輸入オペレッタと並行して、アメリカ・オリジナルの創作オペレッタも作られるようになっていき、それらを担ったのがヴィクター・ハーバート、ルドルフ・フリムル、シグムンド・ロンバーグの3大オペレッタ作曲家でした。3人ともヨーロッパ出身で、クラシック音楽の基礎を学んだあとアメリカに渡って大成しました。
19世紀末のヨーロッパ的なオペレッタは、20世紀に入るとアメリカらしいスピード感ある口語的な音楽劇へとシフトしていく傾向になります。ジョージ・M・コーハンが、歌って踊れる俳優として、さらに作詞・作曲・脚本・演出・興行師としても一人ですべてこなす才能として活躍しました。「ブロードウェイの父」と呼ばれ、タイムズ・スクエアに銅像が立っています。
このころ、コミカルな音楽劇に対して「ミュージカル・コメディ」という言い方が登場したといいます。その後、コメディの枠組みに収まらないものは「ミュージカル・プレイ」と呼んだり、総称して「ミュージカル・シアター」という言い方も出現し、こんにちの「ミュージカル」の語源になったとされます(諸説あり)。この段階になると完全に、ヨーロッパの正統な「クラシック史」の仲間には入らない「ポピュラー音楽」としての側面が強くなった段階だといえます。
19世紀後半、ブルジョワ階級の一般家庭にピアノがだんだんと普及していっており、憧れ・ステータスとなっていました。ミンストレルショウの段階から、その上演曲や民衆のヒットソングは家庭で気軽に演奏できる形での「シート・ミュージック」として出版されており、世紀転換期になるとシートミュージックに特化した音楽出版社が数多く誕生します。劇場や娯楽施設で歌われる楽曲を「商品」として管理する新しい形態は、都市の音楽的需要にあわせて勃興した、まったく新しい産業でした。
はじめは各所に乱立していた音楽出版社ですが、次第に一つの地区に場所が集中するようになります。各出版社は自社の楽譜を売り込むため、ドアを開け放ち、朝から晩までピアノでプレゼンテーションをし続けていました。この激しい宣伝合戦は音の洪水を呼び、まるで鍋釜でも叩いているような賑やかな状態を揶揄して、この地域のことを人々は 「ティン・パン・アレー」と呼ぶようになります。いつしか、この地域で誕生するポピュラー音楽そのもののことが「ティン・パン・アレー」と呼ばれるようになりました。
多くの人々に受け入れやすいフォーマットが定まり、工場のように楽曲が大量生産されていく中で、現在までアメリカ国民に唄い継がれる親しみやすい「スタンダード曲」が産まれていった点が、同時代のヨーロッパのクラシック芸術と異なる、この時代のアメリカ大衆音楽の特徴です。
1910~20年代にかけて、のちに初期ミュージカル界も牽引することとなる、ティンパンアレーの五大作曲家が出揃います。
1927年 世界初の“ミュージカル” とされる「ショー・ボート」が上演され、この作品がミュージカル史における「金字塔」となります。
厳密には同時期のオペレッタ作品と区別するのは困難だとされますが、ここからが現代ミュージカル史のスタートとなりました。
このような華やかなポピュラー音楽のヒット曲には、オペレッタなどのヨーロッパのクラシック的な土台がありながらも、当時アメリカ南部から台頭してきた新しい黒人音楽の要素も取り入れられていました。
19世紀末~20世紀初頭、ジャズの発達する土壌となっていたのはニューオーリンズのストーリーヴィルという歓楽街・売春地区でした。ニューオーリンズ出身の白人ジャズ・バンド、「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(Original Dixieland Jass Band)」は、1917年に世界で初めてジャズのレコード音源を発表したバンドとして知られています。どうやら、それ以前にもニューオーリンズジャズ的な音源は存在していたようですが、当時まだJazzという語が無く、Jass House Music(売春小屋音楽、Jass=性交を意味するスラング)など言われていたり、ラグタイムやブルースなどと未分化だったり、という理由があり、1917年の初のジャズ音源の発売をもってジャズの正式な誕生と位置付ける考えが主流となっています。
その1917年に、アメリカの第一次世界大戦参戦に伴って風紀粛清の機運が高まり、突如ストーリーヴィルが閉鎖してしまいます。貿易港・軍港として栄えていたニューオーリンズにて水兵たちの風紀を統率する目的があったのです。これにより黒人音楽家たちは職場を失い、当てのない暮らしが始まってしまい、ニューオーリンズを離れてシカゴやカンザスシティ、ニューヨークへと移動していき、シカゴジャズやカンザスシティジャズなど、新たなジャズの段階へと進みました。
さて、奴隷時代の労働歌から発生したとされるブルースについても触れていきます。20世紀初頭、W.C.ハンディというミュージシャンが紹介したことで、全米に「ブルース」の語が広まっていきました。ハンディは「ブルースの父」と呼ばれていますが、実は彼の功績は黒人たちの土着の音楽を楽譜に起こして紹介したということなのです。
ハンディはクラシック音楽の訓練を受けたミュージシャンで、西洋音楽的視点からブルースを解析・体系化し、1910年以降ハンディ自身もブルースの作曲に専念します。「メンフィス・ブルース」「セントルイス・ブルース」など多数のヒット作を生み出しました。
1920年にメイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」が発表されて人気となり、これが「世界初のブルース録音」と多くの文献に記録されています。
聴いていただくと、こんにち我々がイメージするようなギターをかき鳴らすような原始的ブルースではなく、ジャズ的ですよね。編成的に初期のジャズと非常に似たものであり、楽曲構成はティン・パン・アレー的であるといえます。このようなブルースのヒットは、ティン・パン・アレーのシートミュージックを通じて広まったのです。つまり、ハンディの広めた「ブルース」は、ヴォードビル音楽と同じように、都会的な洗練された音楽として拡大していったのです。「初期ジャズ」というのがブルースや黒人霊歌などの黒人音楽を演奏するための、演奏スタイルの一つだった、という言い方もできるほどです。初期ジャズの曲名に『~~ブルース』というタイトルが非常に多いのもこのためです。
20世紀初頭のアメリカのポピュラー音楽は、ティンパンアレーの楽譜出版を軸に、ヴォードビルやミュージカルの音楽、ブルース、ジャズがすべて渾然一体となって「都会の音楽」というイメージで広まった、と考えるのが一番妥当でしょう。
その後登場したベッシー・スミスは「ブルースの女帝」と呼ばれました。
19世紀終盤から演奏されていた「ラグタイム」も、若き頃のアーヴィング・バーリンが1911年に作曲した「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」という楽曲が大流行したことにより、全国的な市民権を得ていました。このように、ジャズやブルース、ラグタイムなどの黒人音楽の要素を取り入れてポップミュージックとして広めたのがティン・パン・アレーだったのでした。
さて、禁酒法時代の酒場で反映していきつつあったジャズは、上流階級にあった大半の白人の人々からしてみると、まだまだ“黒人の低俗でよくわからない音楽”という印象が拭えず、そっぽを向かれたままでした。それが突如、マジョリティである白人社会で市民権を得て人気沸騰することになります。そのきっかけは、ポール・ホワイトマン(1890~1967)のはたらきがありました。ホワイトマンは、耳を使った黒人の即興的な演奏スタイルを、クラシック的な譜面によるアンサンブルによって再び整理することでブラッシュアップしようとしていました。
1924年、彼はティンパンアレーの作曲家ジョージ・ガーシュウィンに「ジャズ風の交響曲を書いて欲しい」という依頼を強引に押し付けます。
ガーシュウィンはそれまで、ポップス的な作曲ばかりを独学で学んできていたため、本格的なクラシック交響曲の作曲技法の知識には乏しく、困ってしまいます。結局ピアノ2台を想定して作曲し、ホワイトマン楽団の編曲家を務めていたファーディ・グローフェにオーケストレーションしてもらう形で、『ラプソディー・イン・ブルー』をなんとか完成させました。
当日ガーシュウィン自らピアノを弾いて初演されたこの作品は、上流階級や知識人の多かった聴衆を一気に魅了し、大成功しました。衝撃的なクラリネットのイントロから始まり、従来のクラシックには使われないミュート・トランペットやサックスの大胆な使用など、ファーディ・グローフェによるオーケストレーションが成功の大きな一因でした。クラシックの楽壇はシンフォニック・ジャズとしてこの楽曲を受け入れ、西洋芸術音楽史の歴史に残ることとなりました。
クラシック音楽史だけを追っていると、ガーシュウィンは他のクラシック作曲家と同じ並びで登場し「クラシックにジャズの要素を取り込んだ」という方向の記述でしか表現されません。今でも多くのクラシック愛好家は一般的にガーシュウィンをクラシック作曲家としてとらえているでしょう。
しかし、実際のところはガーシュウィンは先にティンパンアレーの作家であり、ジャズの発達段階においてこのような背景・経緯があったということは、俯瞰でポピュラーとクラシックの両・音楽史を追っていく上では非常に重要な事実でしょう。実際ガーシュウィンは、他のティンパンアレー作曲家と同じく、現在も多くのジャズミュージシャンが演奏しているポピュラーのスタンダード曲として残っている曲を多数作っています。ガーシュウィンは、クラシック音楽史とポピュラー音楽史の両方に(余談的ではなく)「本編」としてしっかりとその名前が残る、唯一の例でしょう。
「ラプソディー・イン・ブルー」の大成功によって、アメリカの白人たちに「ジャズ」がはじめて好意的に認知されることになったのでした。それ以降、ジャズは黒人のリズム感や楽器の奏法などが新しい魅力の音楽として急速に市民権を得ることとなります。ちょうど1920年から急発達したラジオによってもジャズ、ブルース、ミュージカル音楽は拡散し、新しい音楽文化の繁栄を後押ししました。
第一次大戦終結後の空前の好景気によって若者たちが新しい文化を謳歌し、最先端の流行音楽としてジャズダンス・ホールが盛んになり、享楽的な都市文化が発達、大量消費時代・マスメディアの時代の幕開けでもあったこの「ローリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)」の文化・世相を指して「ジャズ・エイジ」と呼ぶまでになったのでした。
世界初の長編トーキー映画「ジャズ・シンガー(1927)」もまた、ティン・パン・アレーのアーヴィング・バーリンが音楽を担当し、大成功しましたが、このような時代背景があったからだといえるでしょう。
30年代に入るとジャズはスウィングジャズの段階に入り、大編成のビッグバンドによる綿密な合奏で、ショー的要素とダンスミュージック的要素が強調されました。
デューク・エリントン、カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、グレン・ミラーといったバンドリーダーによる楽団の演奏が人気となりました。ジャズは大恐慌の暗黒の日々の中で、人々を鼓舞し、士気を高めるよすがとなっていきました。1940年頃には全米のチャートのトップのほとんどをビッグバンドジャズが占めるようにまでなっていました。
この時代、ビッグバンドに専属の女性歌手が続々と登場し、華を添えて脚光を浴びるようになりました。また、ティン・パン・アレーも引き続きブロードウェイ・ミュージカルやハリウッド映画に向けて音楽を量産し、その中からポップソングが多数ヒットしていきました。
◉戦後
1940年代に入ると、スウィングジャズは衰退していきました。ここで、ジャズ史ではジャズのサブジャンルとして次の段階に移るのですが、それは以前の記事で触れているのでそちらに任せるとして、ここでは多くの大衆にとっての「ポピュラー音楽史」として流れを追っていきたいと思います。
ジャズが市民権を得て以降、もともと渾然一体だったブルースは、ジャズから分離する形で黒人市場向けのレコードとして「レイス(人種)レコード」と呼ばれていました。このような市場が、スウィングジャズの衰退につれて再発見されることになります。「レイスレコード」という呼び名は改められ、これが「リズム・アンド・ブルース」となるのです。スウィングジャズが担っていたダンサブルな音楽は、小編成化してブルースフィーリングを強め、「リズム・アンド・ブルース」へ統合されていき、黒人大衆に人気になっていました。
ブルースやジャズの中でのピアノの演奏パターンのひとつとしてブギ(ブギウギ)というスタイルがありました。
このころ独自発展の道を歩み始めてしまったジャズは「即興演奏の競争」的な側面が強調されてしまいスウィング的な踊れるリズムから離れていってしまったのと反対に、「リズム・アンド・ブルース」では、より踊れるようにブギのリズムが強調されるようになりました。
「ブギ」はピアノ演奏の一形態から、スウィングにかわるポピュラーなリズムスタイルとしてより様々なジャンルの楽器演奏者、歌手に幅広い解釈をもって取り入れられていったのです。
このようなリズムアンドブルースのアーティストとしてはプロフェッサー・ロングヘアやルース・ブラウンが挙げられます。こういったスウィングジャズを小規模化したような、シティブルース的な流れを持つ、ブギのリズムが強調された音楽はジャンプ・ブルースとも呼ばれるようになり、リズム・アンド・ブルースという枠組みの中の主要ジャンルとして影響力を持つようになりました。そして、ギターの進化とともに徐々に大音量化し、サックスなどのホーンセクションも荒々しく派手になり、ドラムによるバックビートも強化されていきます。
こういったリズム・アンド・ブルースに、カントリーの要素が加わることでロックンロールの誕生となりました。
ロックンロールの誕生以降は、ロック史としてあらゆるポピュラー音楽史に詳細に記述されていますので、今回の記事はここでゴールとします。
クラシックから地続きとしての流れが、少しはわかりやすくなったでしょうか?
今回の記事であえて触れなかった分野も多々ありますが、過去の音楽史連載で詳細に触れているので、もし興味があればそちらも是非お読みください。
それでは、ありがとうございました。
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