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スピノザ哲学で「悪」の問題は問えるのか? #1
スピノザ哲学には、ある急所があるといわれる。それは、スピノザ哲学においては、善悪の問題が問えない、あるいは人間の原罪や責任といったものが問えないのではないか? という点である。
よく知られているように、スピノザ哲学においては善悪という道徳的価値観は人間の尺度にすぎず、彼が捉える善悪とは、われわれの身体の活動力の度合い、喜びや悲しみといった感情の大小によって定められるものである。このような善悪の捉え方では、結局、「悪」という問題は、正義や道徳という絶対的な基準で測れるものではなく、相対的なものにすぎない、という議論に帰結しかねない。
また、この世界に偶然的な出来事や、人間の自由意志で選択されるものなどなく、すべての事象には原因があり、必然性を持って結果が産出されるというのがスピノザの示す神=自然の法則だが、そこに個人の自由意志が介在しないのであれば、個人の「責任」といったものはいかにして問えるのか。犯罪や悪といったものは、スピノザ哲学ではどう扱えるのだろうか。あるいは、そもそもが無理な話なのか、という問題も残る。
とりわけ第二次世界大戦時におけるナチスの台頭とファシズムが生んだアウシュヴィッツ以降にスピノザが生きていたとしたら、彼ははたして、『政治論』で書いていた人間行動についての一節、「自分は泣きもせず、笑いもせず嘆きもせずただ理解する」と同じ文句を言えただろうか?ということが、サミュエル・ジャンケレヴィッチによって問われている。
また、スピノザ研究者のロベール・ミズライも、ナチズムの後ではスピノザ哲学は同じものではありえなかっただろうと言っている。端的に言うと、アウシュビッツを経た現代、スピノザ哲学は有効性を持ちえるのか?という疑念である(参照:『批評空間2000Ⅱ-25』所有「討議・スピノザとフィジックなもの」)。
この疑念は、上記参照元である『批評空間』の討議として、哲学者の小泉義之氏が、スピノザ研究者である上野修氏に対して問うたものでもある。小泉氏の問いに対し、上野修氏はこう答えるのであった。
彼(スピノザ)の立場からしても、人間的個体の倫理的なものを、それとは本性上異なる国家という自然的個体の持っているシステム合理性みたいなものに連続してつなげてしまうような議論は、彼ははじめから認めない・・・われわれは倫理的な善悪という問題を、インぺリウム(統治)の善し悪しの問題とつなげてしまうのが普通だと思うけれど、それをスピノザはしない。つなげてはいけないんですよ。倫理と政治をわれわれはつなげよう、つなげようとして両者を混同していますが、それはしてはならない(上野修)。
※強調引用者
この上野氏の回答に対し、小泉氏は納得せず、以下のやり取りがなされる。
小泉「しかし、ファシズムを支えた民衆や大衆の力があるのは明らかです。スピノザのムルティチュード(群衆)の力能は、そういうものと無縁ではないでしょう」
上野「むろん、それ(ムルティチュード)はファシズムを生み出す力でもあるんですよ。しかし、繰り返しますが、「群衆の力能」とはあくまでも抽象的な人間集合がやってしまえることという意味であって、民衆とか大衆といったコノテーションは持っていない」
小泉「もちろんそうなんですが、ムルティチュードの力能というのはどういうものか、どのように善悪の問題を越えているのかを、具体的に指し示さないとわからない・・・ファシズムの善悪の問題を倫理的に考えてもしょうがないとしても、そのことを倫理的に弁じることを強いられる状況があるからには、倫理的に引き受ける必要があると思います」
上野氏は、アントニオ・ネグリがそうであったように、スピノザの群衆の力能という概念=「ムルティチュード」を、民衆や大衆といった「政治的主体」として捉えることには否定的である。むろんスピノザもまた、そのようなことは一言もいっていない。
小泉氏もまた、スピノザのいう群集の力能、ムルティチュードには、倫理的にも政治的にもなんの効果も意義もないということを認識している。認識しているが、ネグリのように、このムルティチュードに新しい政治主体のあり方といったような期待をかける研究者が多いため、おそらくわざと上野氏を誘導しているのだ。しかし上野氏は乗らない。
また、倫理的なものと政治的なものは区別しなければならないというのは、スピノザ自身がそうであったように、上野氏が一貫して主張し続けていることでもある。すなわち、政治的なものとは、国民がよりよく生きるにはどうすればよいかというシステム、オペレーションの問題であり、倫理とはもっぱら個人に関わる問題なのである。だからこそスピノザは主著『エチカ』においては、政治や国家の話にはほとんど触れていない。『エチカ』に接続されるもの、あるいはシームレスにつながるものとして、『政治論』が書かれるわけだ。
その際にスピノザは、国家や群衆もまた自然物であるという認識のうえ、人間が生きていくうえで必然的に求められる和合という形態=国家において、なお国民ひとりひとりがその中で自由であるといえるような状態はどのような状態かを問うのである。
スピノザにおいて、政治とは徹底して統治のためのオペレーションの問題である。この統治が円滑になされているのであれば、その形態は君主制であろうと貴族制(代表者の統治)であろうと、民主制であってもかまわないというのがスピノザの考えである。
彼は最初から民衆に対し、彼らが革命を起こしたり、理性的な統治を率先して行うような政治的主体になりうる、などとは期待していなかったし、むしろ人間個人がいかに感情に左右され、情動だけで行動してしまう生き物であるかを冷静に分析していた。
スピノザはファシズムのような政治体制下の時代を生きてはいないが、彼は同時代に起きたヤン・デ・ウィット虐殺事件にて、大衆の愚かさ、野蛮さ、残虐さを目の当たりにしている。しかしそれでも彼は「自分は泣きもせず、笑いもせず嘆きもせずただ理解する」ために、『政治論』を書いているのである。
人間は必然的に感情に隷従する。不幸な者には同情し幸運な者にはねたみを抱き、しかも憐みよりは復讐の方に傾きやすくできている。そのためにだれもが自分の意向どおりに他人が生きるよう、また自分が認めることは他人も認め、自分が認めないことは他人も認めないようにさせたがる・・・理性は感情を抑制し緩和するのに多くをなしうることを(『エチカ』で)示したが、同時に、理性の教える道が険しいことも見た。だらか、群集あるいは公の政務に忙殺される人間たちが理性の規範のみに従って生きるように仕向けられることは可能だと信じている人がいるなら、その人は詩人の描く黄金時代かお伽噺を夢見ているのである。
人は感情に隷従する。しかし、理性においてその受動的な状態から脱し、よりよく生きるという能動的な感情、すなわち理性を実行することもできる。そのような倫理的な態度は、個人の精神に関わるものである。『エチカ』はそのような個人のあり方についての書である。
だが、国家状態というのは、人間の集合体ではあるが、人間個人とは本性を異にするものである。その国家のあり方については、倫理ではなく、政治が担う領域なのである。政治の目的は、その集合した個々人が、いかによりよく生きられるかなのであり、その統治のあり方=オペレーションこそが政治理論の実践的な方法である。
倫理と政治の混同こそが、スピノザ以前の時代から人類史においてたびたび起きる争いの原因でもある。ヨーロッパは長らくキリスト教会権力が実質的に政治を支配していた。その結果、分断されたカトリックとプロテスタントによるヨーロッパ最大の宗教戦争が起こってしまったことは歴史の知るところである。
スピノザが生きた時代も、なお教会権力が顕在であった。その教会の思惑が政治を混乱させるとし、宗教が政治に介入したりすることを、スピノザは『神学政治論』において徹底的に批判し、政教分離を説いたのである。政教分離の原理はスピノザにおいて初めて理論立てて解明されたものである(『誰のために法は生まれた』木庭顕)。
したがって、スピノザがもしアウシュビッツ以降に生まれているのであれば、おそらく倫理と政治の問題を混同しないようにと説くであろう。むろんナチズムの問題は、人間の善悪という倫理的な問題を否応なしに突き付けてくる。しかし人間の善悪の問題で解けるものでないことは明らかだ。ナチズムの問題は、あらゆる時代のあらゆる人間において起きえてしまうであろうという普遍性を持っている。それは人間の本性に関わるものである。
だから、人間の理性という<理想>に期待をかけることはできない。人間が理性によって完全なものへ導かれるなどというのはむしろ妄想でしかない。期待してはいけない。人間の残虐さや狂気は起きる時には起きてしまう。どんなに理性的、道徳的とされている人間であっても、「大衆」として置かれているときにおいてのふるまいは、狼にもなりうるし羊にもなりうる(『悪について』エーリッヒ・フロム)、ということから解明していかなければならない、というのがスピノザの見立てである。
そして大衆がなぜそのようになってしまうのか。それは感情にいともたやすく隷従してしまったり、他者の感情を模倣するという人間の本性がそうさせるだけではなく、やはりそのようなスイッチをオンにしてしまう政治=環境の危うさに原因があるのだ。そしてそれはオペレーション=法の問題でもある。だからこそ、この問題はカール・シュミットのような『憲法論』のような議論も参照しなければならない。
スピノザが人間の自発性に期待をかけず、オペレーションが重要である、という時、それはなにも、人間とは所詮こんなものだという諦めがあったわけではあるまい。そうではなく、人間の統治においては、悪い状態というものは必ず起き得てしまうという歴史認識のリアリズムに基づいているのだ。だからこそ彼は、政治論においては哲学者たちの言葉ではなく、やはりリアリストであったマキャベリを参照していたのである。
民衆の暴力や、権力の暴政は、完全に抑えることはできない。それが発生してしまうのは、統治というものが絶えず支配者と被支配者のパワーバランスの上に成り立っているからだ。この力関係の均衡が支配者に偏れば暴政になり、被支配者になれば暴動や抵抗といったものになる。このたえず緊張関係にある綱引き状態において、均衡を支えていたはずの糸が切れてしまうことはありえてしまう。ありえてしまうのだが、政治技術でリスクを減らすことはできる。スピノザはそう考える。
アウシュビッツ以後、哲学は可能なのか? という問題は当然、17世紀のスピノザ哲学だけで回答できるものでもない。また、哲学という学問だけに問われる問題にとどまらない。なので、このことについて議論する力は私にはないし、重すぎるテーマである。だが、無関心というわけにもいかない。なぜなら、現在のわれわれを取り巻く世界情勢においては、20世紀に噴出した人類の問題が形だけを変えて再び回帰しているからである。
そのような状況において、今日、もっぱら生の肯定の哲学としての評価を受けるスピノザ哲学は、人類が抱え持つ負の側面と対峙した時に、どのように読まれるべきかは、やはり考えておく必要があると思われる。
一つの見立てとして、これまで述べてきたような倫理と政治の切り分け、というスピノザの議論を示してきた。とはいえ、この「悪」という概念と対峙するとき、スピノザ哲学における最大の難問が、やはり姿を現してしまう。スピノザにとって、この世界そのものが神=自然ということだが、人間も含めたあらゆる個物はその神の中にありかつ神を表現する存在である。ということは、あらゆる悪も犯罪も狂気としかいえないようなものも、すべて神がなすこと、ということになる。
これは、ナチスのようなものでさえも、おぞましい凶悪犯罪でさえも神の現れだということに直結するわけだが、スピノザ哲学に従えばYESということになる。ただ、人は心情的に倫理的に、それらも含めて神なのかといわれ、はいそうですかと納得することなどできない。納得できないだろうが、それらの問題に倫理をつなげてはならない、というのがこれまで述べてきたことである。
実はスピノザに対してのこのような疑義、議論は彼の同時代からあり、神学者などから執拗に攻撃を受けていた。神がそのような悪なるものを意志するわけがないというのが彼らの言い分で、神学者にとっては、神と、それに対峙するものとしての悪の存在があるわけだが、スピノザにとって神に対峙するものなどない。神=世界は唯一つである。スピノザは、神学者たちのそれは人間の心理的なものを神に投影しているだけに過ぎないと斥けるわけである。
ではなぜ、神は、人間に悪をなすように仕向けたのか、すべての人間を理性的な存在として造らなかったのかという問いに対しては、スピノザは、神はすべてのものを産出するのに十分なほど包括的であった(『エチカ』第一部)と答えるのである。
ここでやはり本記事の表題と冒頭に戻ってしまうのだが、スピノザ哲学における「悪」の問題、あるいは人間の「責任」の問題は問えるのかということについては、なお確認しておきたいものとして残る。スピノザにおいては、「悪」はどのように考えれていたのか。あるいは、スピノザ哲学において、個人の「責任」といった問題は問えるのか否か。このあたりについては、次回以降、引き続き考えてみたい。
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