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この現実こそが神である、スピノザが見ていた世界とは

 スピノザはライプニッツに、自身の哲学を説明するうえで、次のようなことを述べたという。

「世間一般の哲学は被造物(神が創造したもの)から始め、デカルトは精神から、私は神から始める」

 なぜ、スピノザは「神」から、自身の哲学を始めるのか。実際に、彼の哲学体系を示した代表的著作『エチカ』は、「神について」の説明から始まる。スピノザの神の定義は、私自身が初めてスピノザに触れた時、もっとも痺れた言葉でもある。

神とは、絶対無限の存在者、いいかえれば、そのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体のことである。(定義六)

『エチカ』第一部神についてより

Per Deum intelligo ens absolute infinitium, hocest, substantiam constantem infinitis attributis, quorum unumquodque æternam, & infinitam essentiam exprimit.(DEFINITIONES Ⅵ.)

『ETHICA』Pars Prima DE DEO

 この定義の中で、すでに哲学的な専門用語がいくつか出てきてしまう。「神」や「無限」「永遠」はまだしも、「実体」「属性」「本質」。このあたりは、アリストテレスや中世スコラ哲学から続く、哲学における重要な概念なわけだが、いったんこのあたりは、議論が入り組んでしまうので、詳細な説明は省かせてもらう。

 なぜ入り組んでしまうのかというと、スピノザにおけるこれら概念の使い方は、それまでのものと異なる独自の定義を行っているので、この相違、差異自体が、スピノザ研究における一つのテーマになっているほどだからである。

 スピノザの「神」は、永遠や無限といった壮大な概念とつながるもので、この神=実体である、というところまで大づかみしておき、先に行く。

 スピノザの神の定理のいくつかを見てみる。

絶対無限の実体は分割されない(定理十三)

神以外にはいかなる実体も存在しえないし、また考えることもできない(定理十四)

存在するものはすべて神のうちにある。そしていかなるものも神なしには存在しえないし、また考えることもできない(定理十五)

『エチカ』第一部神についてより

 スピノザのいう神は、通常使われている意味での神ではない。神即ち自然というテーゼが有名なように、スピノザの神とは、われわれを取り巻く「自然」の意である。この「自然」というのも、もしかしたら現代のわれわれにはわかりづらいかもしれない。自然ときいて、われわれはこの惑星の大自然、生命の営みである自然界、というようなものをイメージするかもしれない。スピノザの自然は、もちろんそのような意味も含んでいるのだが、それだけのイメージでは収まりきらないものがある。

 スピノザ研究の泰斗である上野修氏は、この『エチカ』の中において出てくる「神」、「実体」を、「現実」に置き換えて読むことを提唱している(『哲学史入門Ⅱ』NHK出版)。

 試しに先の定理の「神」と「実体」を、「現実」に置換してみよう。

絶対無限の現実は分割されない

現実
以外にはいかなる現実も存在しえないし、また考えることもできない

存在するものはすべて現実のうちにある。そしていかなるものも現実なしには存在しえないし、また考えることもできない

 スピノザはもちろん「現実」という言葉は一切使っていない。しかし上野修氏は、長年のスピノザ研究を経て、スピノザは紛れもなく「現実」のことを言っているのだと確証しているので、この読み替えは、上野氏による恣意的な操作ではない。

「現実」に置き換えるだけで、『エチカ』第一部の「神」の定義が、一体何を言っているのか、わかり易くなってくるのではないだろうか。

「神」と「実体」を「現実」に置き換えたうえで、他の定理も見てみよう。

一つの現実が他の現実から産出されることはありえない(定理六)

現実の本性は存在することである(定理七)

すべての現実は必然的に無限である(定理八)

現実、すなわちそのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成りたつ現実は、必然的に存在する(定理十一)

現実の本性の必然性から、無限に多くのものが、無限に多くの仕方で生じてこなければならない。

現実は、あらゆるものの内在的原因であって、超越的な原因ではない。(定理十八)

 現実は、他の現実から作られることはない、ただ一つの現実、この現実である。現実の本質は存在することにある。現実は、必然的に無限であり、永遠や無限を表現する無限に多くの「属性」から成り立っている。この現実から、無限に多くのものが、無限に多くの仕方で、生まれてくる。

「属性」というのは、事物が持っている本来的な性質をさす。スピノザにおいては「知性が実体に関してその本質を構成するものとして認識するもののことである(定義四)」と定義されるが、この属性、現実においては無限にあるが、人間の場合二種類しかない。

「延長」と「思惟」がそれであるが、平たく言うと、「物体(身体)」と、「精神」がそれにあたる。人間の属性もあるのだから、猫の属性、植物の属性、石の属性というのもある。

 神を現実に置き換えて読むことを提唱した上野修氏の言葉を参照しよう。

そういう目で読み直すと、『エチカ』のあの幾何学的な体系はすべてこれ、なぜ事物の現実がこんなふうに存在しているのかということの恐ろしいほどに明晰な説明になっていることがわかる。われわれは知っている。現実はこれしかない。唯一である。どこまで行ってもそこは現実で、だれもその外には出られない。そしてすべてはその中にある。スピノザが「神ないし自然」とか「絶対的に無限な実体」とか言っているのはこの現実のことだと考えると腑に落ちる。じっさい、『エチカ』の神は唯一で、無限で、外がない。すべてあるものはそこにある。スピノザはそういうものを厳密な幾何学的証明で構成しようとしている。

『スピノザ考』上野修(青土社)より

「絶対無限の実体は分割されない」の定義を思い出そう。スピノザはこの実体=現実を、分割不可能な唯一のものと考えていた。数や量、大きさ、時間という尺度は、人間にとっての区分でしかない。

 実際には、世界の存在はすべて地続きである。流れる川をイメージしてみよう。この川を、「川」として名付け、認識し、他のものと区別するのは、あくまで人間の基準である。流れる川は、山と地続きであり、大地を走るようにして流れる。この川の水が、仮にすべて蒸発するのだとしたら、人間にとっての「川」という概念は消えてなくなるが、蒸発した水は、形を変えて気体となり水蒸気になる。

 現実においては、事物の変化だけがあり、世界のうちの川という「部分」がぽっこり消失したり、大地が分割されてしまったり、ということではない。事物と事物の「変化」だけがある。

 この地続きの事物の存在、事物の変化そのものをスピノザは実体の「様態」と名付けていた。神である実体は無限なので、様態も無限である。これを「無限様態」という。

実体は、たとえば延長(3Dのひろがり)という属性で見ると、「無限の仕方で変化しながらもつねに同一にとどまる全宇宙の姿」という無限様態を取る。今そこで丸まっている猫Aは変化しつつあるこの「全宇宙の姿」の一部である
※強調引用者

『スピノザ考』上野修(青土社)より

 われわれは、この現実の無限様態の只中にいる。今私がこうしてnoteで記事を書いている間、妻はリビングでテレビを見ていて、娘は洗面台で歯磨きをしていて、マンションの隣の住人は韓国に出張に行っていて、その飛行機は日本海の上空を飛んでいて、その飛行機の乗客と、乗客の家族はそれぞれの場所で・・と、同時間において無限に連鎖している。

 出来事だけではない。自分を囲んでいる環境一つとっても、それこそ描写できないくらいに、無限の情報で溢れている。私の周囲にはPCがあり、飲みかけのコーヒーがあり、書きなぐったノートがあり、埃をかぶった積みあげれた本があり、扇風機があり・・・

 現実という広がり、刻一刻と変化する今、そのたった今、この世界で産出されているあらゆる出来事が、あらゆる事象が、唯一の現実、神という実体なのである。

 スピノザがこのようにして、神の内においては、無限に多くのものが無限に多くの仕方で算出されると考えた理由は、スピノザが数学的に持っていた無限の認識からくるものである。

 一例をあげると、円の内部には、無限のサイズと形状の長方形を作ることができる。円の内部の任意の二点を結ぶ対角線を持つ長方形を考えると、対角線の長さが固定される一方で、その幅や高さを様々な形にすることが可能である。また、円の内部に収まる任意の小さな長方形を無限に分割することもできるため、理論的には無限に多くの長方形が存在し得る。

 全体の無限性と等しい無限性が部分に宿るという認識である。世界は極小に無限が宿っている。これが世界そのものにも当てはまるとスピノザが考えるのは当然であった。この無限の観念は、外延的な無限に対して内包的無限である。このような認識は、哲学者のそれではなく数学である。

 これと同じように、われわれ様態は、変化する無限の存在として、今ここに、現れているのである。しかし、スピノザが射程に入れていたのは、現に存在するものだけのことだけではなかった。

猫は神の比類なき今の中にいる。では、今存在しない猫たちはどうなるのか。もう存在しない猫。スピノザはそうした「存在しない個物」たちの本質も、現に存在している事物の本質と同様、神の属性の中に「含まれて」存在すると言う。といっても無時間的に存在するのではない・・・・今存在している個物はもちろんのこと、存在していない個物もまた、その本質は神の属性に見えない仕方で含まれて存在している。神は現実に存在するのだから、存在しない個物だって本質が神の属性に含まれているという仕方で、やはり今この現実に存在している・・・・・猫Aは存在しているときも、また存在しないで属性に含まれているだけのときも、現実の中で猫Aであることをやめない。そのやめなさは、いつも今であることを無限にやめない「現実」の必然性によってでなければどうして理解できよう。

『スピノザ考』上野修(青土社)より

 猫Aは存在しているときも、また存在しないで属性に含まれているだけのときも、現実の中で猫Aであることをやめない。

 このくだりは、かなり難解である。上野氏は、ここで、現に存在するものもしないものも含めて、それは神の属性においては、存在することをやめないということで、スピノザ哲学における「潜在性」についても触れている。

 この潜在性もまたいろいろと解釈を生んでしまいそうだが、私の短絡的な考え方でいくと、存在しない猫Aとは、「今」は存在しないが先ほどまで存在していた猫A、あるいは、これから存在するであろう猫Aのことではないか、と考えられる。存在が顕在化しているのは常に流れ続ける「今」だけだからだ。

 あるいは『存在論的中絶』の石川義一氏の議論も視野に入れなければならないかもしれない。すなわち、猫Aでも私でもよいが、今ある存在とは、生まれてこなかった無数の他者の存在があったからこそ成立しているのであり、いわば、この私やこの猫Aは、交換可能な存在でもあるということだ。

 私という存在は、生まれてこなかったあらゆる他者の存在のもとに成り立っている、という事実。無数の「属性に含まれているだけの存在」は、「今」ある存在を成立させている、「地続き」の潜在的存在なのだ、と考えることもできる。

 この地続きの「今」とは、現に存在しているものだけの意ではなく、存在する‐しない‐しようとしている−しようとしない−できる−できない、といった、存在におけるすべての「関係性」の生成が、地続きなのだということであり、その生成の過程において、たった今「形」をなしているものが、存在として現出しているというような状態を示しているのではないだろうか。

 私という存在は、今、人間という形をとって、出力されているだけであり、さっきまでの、「今より以前」の私はもう存在せず、なおかつ、「今より以後」の私が存在できなくなることは、当然ありうる・・。あるいは、私という存在は、生まれてくることはなかった他者の存在があったから、「この私」「今の私」として生まれてきた、たまたまの存在であるということ。

 スピノザに「たまたま」はないので、それも含めて必然ではあるのだが、このような、あらゆる存在、非存在、顕在、潜在も含めてのすべての属性が、無限様態という関係の産物の中にあり、その生成・変化の過程において、たった今現出しているもの、それが、現実(神)であるということではないか。

 ちょっとこのあたり、うまく説明ができているか、まったく自信がないのだが、その地続きの関係性、その生成・変化のすべてを、スピノザは無限であり、永遠である、と呼んでいるのだと思われる。

 このように、スピノザが見ていた世界とは、「私」という個人の主観が見渡しているような世界とはまるで異なっていることがわかる。実際に『エチカ』は、数学的、幾何学的な叙述となっていて、語り手としての「私」というものがでてこない。

 しばし、『エチカ』は、「私」が語っていないのだとしたら、一体誰が語っているのだろうか?とも言われているように(コジェーブ)、神が語っているとも、モノが語っているともつかぬ奇怪なテクストであることがわかる。

 スピノザが、自身の哲学を「神」から始めたのは、まさしくこの世界という現実がただ一つであり、そこにおいてしか、自然の現象も、われわれの活動も思考も倫理も道徳も善悪もない、ということを言うためであった。

 この現実内に起きる出来事や、起きない出来事も含めてすべての事象の説明は、現実という神から演繹されるのでなければならない。いや、それでしか真理はありえない、というのがスピノザの確証であり、『エチカ』はその神=現実についてを証明しようとしたのであった。

 この現実は、あらゆる存在そのものであり、われわれは、その現実という無限様態の一部である。そこに「私」という確固たる主体はない。それもまた様態の一部、あるいは「主体」というものは表象でしかないということをスピノザならいうであろう。

 だが・・・・・そうであったとしても、それでもやはり、今、現出している存在が「この私」「この猫A」であるという必然性は何によるものなのか、「あの私」「あの猫B」ではなく、「この私」である理由はなんなのか、その問いは残る。

 そのことを提起しているのが、デカルト主義、独我論の立場に立つ永井均氏である。永井氏は、スピノザの「この世界」はわかった。しかし、「この私」の問題と「この世界」の問題はまったく別である(『<魂>に対する態度』)、のだと言う。前者で後者を回収することはできない。すなわち、デカルトをスピノザに回収することは不可能なのだ、と。

 このあたりは、永井氏の問いかけに応じる形で、スピノザ研究者の上野氏も応答している(『<私>の哲学を哲学する』)ので、次回以降、そこに立ち入ってみたい。


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