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賭けと念力 念じることは未来につながる 「念力」を哲学する その4
月が空にはりついてら 銀紙の星が揺れてら
誰もがポケットの中に 孤独を隠し持っている
あまりにも突然に昨日は砕けていく
それならば今ここで 僕ら何かを始めよう
*
私はこれまで「念じることは力になる」すなわち「念力」についていくつかの記事を書いてきた。自己暗示としての念力、言葉が行動を規定するという意味での念力、神頼みや祈りとしての念力、集合的な思念としての法の精神や貨幣信仰、心身問題としての念力など、通常考えられているような超能力的なものとしての「念力=psychokinesis」からは離れて、さまざまな捉え方を試みてきた(関連記事参照)。
もうひとつ、人間の思念と行動を考えるうえで、まさにこれこそが思念と行動の一致ともいうべきものがあることに気がついた。それは、「賭け」である。賭けは、祈りにも近いものであるが、祈ると同時に行動を起こしている。もしくは行動につなげるために意思決定をする。金を賭ける、人生を賭けるなどがそれだ。ただしこの「賭け」という言葉、他にも「懸け」という書き方があって、使い分けとしては前者は賭け事、金品を賭けるなど[ばくち]のことを言い、後者は賞金を懸ける、人生を懸ける、望みを懸けるなど[託す]、[願う]、[勝者に与える]という意味で使うらしい(『毎日ことば』より)。
ただ「人生を賭ける」とも書く。むしろこちらの使い方の方が一般的ではないだろうか。実際に国語辞典にも掲載されている。懸けるの方は懸賞という言葉もあるように、賞金を懸けるとかの方がイメージが強いので、この記事ではあえて「賭け」の方を使用する。従来の言葉の定義を捉えなおすことが本記事の趣旨でもあるからだ。
一般的に「賭け」の定義と要素は次のようなものになるだろう。
「賭け(bet, gamble)」とは、不確実な未来の結果に対して、何らかのリスク(資産・名誉・時間・労力など)を負って勝負をする行為を指します。以下のような特徴があります。
賭けの定義と要素
1. 不確実性(Uncertainty)
未来の結果が確定しておらず、どうなるかわからない。
2. リスクの負担(Risk-taking)
成功すれば利益を得られるが、失敗すれば損失がある。
3. 意思決定(Decision-making)
ある選択をすることで、結果に対して責任を負う。
4. 期待と可能性(Expectation & Probability)
勝算を考えながら決断するが、結果は必ずしも思い通りにならない。
「不確実な未来の結果に対して」とあるように、賭けとは、未来における何らかの結果を得るために、今現在の状況からとりうる行動の選択をするということになろう。未来は見通すことができないものである、ということが前提である。仮に人間が未来を予測できてしまうのであれば、賭けという概念は発生しないであろう。すべての出来事の結果はわかっているわけだから、最適な行動を選択していけばよいだけとなる。そこに迷いはない。
しかし、未来は何らかの形で必ずそこに現れる。一つの現実に収束する。もしすべての未来が見通せる、それこそラプラスの悪魔のような全知全能の存在者(※)があるならば、その存在者が見通している経験と、人間の経験のギャップこそが、賭けという概念を発生させるのではないだろうか。人間もまた、ラプラスの悪魔のように全知全能であればどれだけよいだろうか。誰しもが結果をすぐに求めたがるものである。良い結果だけが欲しいに決まっている。だが、現実はそうはいかない。人間はどこまでいっても未来は見通せない。何かに賭けるという思いは、人間という主体の認識の不確かさ、不安定さ、非十全な認識からくるものである。
(※)ここは決定論的といわれるスピノザの神に喩えたいところだが、厳密には違うと思っている。それについては後述したいと思う。
人間において未来とは予期、予測として捉える他ないものである。予言者のような存在もいるにはいるが、その確からしさは置いておいたとしても、予言自体があくまで予測という範囲を出ないであろう。未来をシミュレーションするというのもあるがそれも同じである。これらはどんなに明晰で精巧であったとしても、「ある条件下の可能性」を計算しているだけであり、未来そのものを見ているのではなく、可能性としての世界、未来の「モデル」を見出しているにすぎない。予期、予測といったものは、人間の「表象」の域をでないのだ。これは過去についても同じことがいえるだろう。「現在(いま)」だけが現実としてそこにあるだけである。
未来は表象においてしか考えることのできないゆえ、人は賭けるのである。のちに見ていくように、人は常に何かを賭ける中で生きる他ないのだともいえる。賭けをたんに確率論的なギャンブルとしてではなく、人間の本質的な行動様式として捉えたいのである。
ここで私のいう「念力」の概念を絡めて、この不確定な未来に向けて賭けるということについて考えてみたい。念力とは、念じることが具体的な力になることと捉える。だが、その念が力になることは、たんに念じる=思うだけではだめなのだ。そこには、思うことと、具現化されていることとの一致が必要である。
普段、私たちは、その認識においては行動と思念は一致しているとはいえない揺らぎの中を生きているといえる。スピノザ的な考えに置き換えれば、本来的には、身体と精神は常に並行している(並行論とは同じものではあるが異なる現れをみせるというもの)。しかしその対応関係は必ずしも人間が十分に認識できるものではない。身体はあらゆる外部環境の影響を受けており、その複合的な要因があわさった身体の観念こそが、同時に精神としても現れるからだ。
たとえば、「今すぐ立ち上がって走りたい」と思ったとしても、走れない時がある。これが、自分の思念(精神)と身体が一致していない状態である。走りたいとはぼんやり思っている。しかしその身体とは、じつは仕事で疲れていたり、寒い外に出て走ることに嫌気を感じていたり、見たいテレビがあるなどのさまざまな外部な要因が絡み合った身体であり、精神はそのとき、「走りたいと思っていても走れない」という状態なのであり、心身の対応関係自体は成立しているのだ。
俺は走りたいはずだ、と捉えている私の精神は、精神全体の一局面しか捉えていないのである。何が言いたいかというと、身体と精神に対応関係がないようにみえるのは、私たちの認識においてはそうだということであり、それこそが私たちの認識上の不一致=揺らぎである。私たちはこのような揺らぎの中にあるのであり、思うことと行動することが一致していることを容易に認識できない(スピノザがいう精神は意識だけでなく、感知できない無意識なども含む精神全体をさす)。
思うことと行動することが一致しないというとき、それは私の思う力が足りないとかではなく、何らかの要因により、行動に至るまでには十分な思いには至っていないのだ(だが、それでも自己は、私の思いはこんなに強いのにと誤認するだろう)。つまりスピノザの心身並行論をみるならば、そこに心身の間にズレはないはずなのに、人間の精神はこれを十分には認識できないため誤差が生じる。この誤差こそが思念と行動の揺らぎの状態と私が形容するものである。
私の考える念力は、思うことが力になるということである。この揺らぎの中においては、思うことがそのまま行動に結びつかないのだが、念力の概念を当てはめることはできるだろうか。
もう少し具体的なもので示そう。たとえば、私が「いつか転職したい」という思いをどこかで抱くとしよう。その転職したいという思いだけで日々が過ぎ、少しも行動に移していなのだとすれば、その転職したいという思いは、他の要因で阻まれており、行動に移すこともない、漠然とした思いでしかないであろう。私の思念と行動に一致はなく、揺らぎの状態のままである。これを「弱い念力」と言っておく。
しかし「転職したい」という思いが、「転職しよう」という行動と一致する時が出てくるとする。まさにこの一致の時が、私が何かに「賭ける」時なのではないだろうか。結果はどうなるかわからない。わからないのだが、転職しようと決めて、エージェントに相談したり、面接を受けたりという、具体的な行動に移行している。思念によって行動は規定されていく。そしてその結果、転職に成功すればまさに、自分の未来を作ったことになるのだが、転職に失敗したとしたらどうだろうか。
じつはこれもこれで、未来を作ったことになるであろう。もし「その時点」での成否だけを見るならば、転職できなかったことは自身の目的がかなわなかったことにはなるのだが、しかしそれは一局面でしかないかもしれない。そこで失敗したのちに、どこかの局面で転職ができれば、それは成功になるといえるのだし、仮に転職ができないまま過ごしたとしても、転職したいという思いによって行動に移した事実は変わらずあるわけで、転職など露ほどにも考えてなかった頃の自分とは、違う状態に置かれているはずなのである。そのままあきらめず、いつかの成功に向けてずっと動き続けるかもしれないし、あきらめて現状維持をよしとするかもしれない。しかしあきらめるのだとすれば、そこで転職しようという思念は潰え、違う思念にとってかわるだろう。
私の捉える念力は、結果につながる云々ではなく、それが成功だろうと失敗だろうと、思念によって突き動かされること、そのプロセスそのものをさす。これは「強い念力」である。その結果どうなるか。その結果をどう捉えるかは主観の問題である。これをたとえばパチンコに例えてもいい。パチンコで、勝て勝てと念じて、その局面での勝つか負けるかの結果だけにつなげようというのなら、それは超能力の方の念力である。私の考える念力はそうではない。
パチンコで勝負したいと思念したことで、その人はもうパチンコをすることに突き動かされている。パチンコが生活の中に入り込んでくる。このプロセスのすべてが念力によるものである。自身の経済力の中でパチンコ自体を楽しめているのであれば、これは強い念力の積極的な側面であろう。だが感情をコントロールできずに、自身の経済力を顧みずに依存する状態になってしまったとすれば、それは強い念力でも負の側面であろう(私はかつてそのような経験がある・・)。どの局面で、何をもって成否と捉えるかは主観の問題であり、事実として積み上げられるのは、金が増えるか、するかのいずれかであろう。ちょっとこれは例えが俗的にすぎたかもしれない。
賭けが、不確実な未来に対しての選択的行動であるならば、それは日常において溢れているであろう。その場合、弱い賭け、強い賭けというのもありそうだ。今日は家にいるか出かけるか、ラーメンを食べるかパスタを食べるかというのは、未来に向けての行動だとしてもそれは弱い賭けであろう。上述したような、転職であるとか、人生の転機になるような決意は、自身のライフワークにおいて大きなウェイトを占めるものであるゆえ、それは強い賭けといえそうだ。
このように、「賭け」とは、私たちの現在形の行動において、いまはまだ顕在化していないけれども、潜在的なものを顕在化させようとするプロセスそのものといえる。弱い賭けであれ、強い賭けであれ、そこには「~したい」、「~しよう」という思念があり、行動がある。思念と行動が一致する瞬間、この賭けの状態になると私は述べた。思念と行動に一致が見られない場合、それは揺らぎの状態にあり、非十全な認識の中にある。非十全な認識とは、受動的な感情に支配されている状態である。「運動したい」でも「できない」という揺らぎは日常にあふれている。
転職したいなーとぼんやり思っていても行動に移せないとき、それは現状のままでいいやという受動的な感情の中にあるのである。そういった流されるままに生きるということを私は否定はしない。自身がそのような状態の時があったからだ。だが、一度念力がかかった状態になると、人はその目的の実現に向けて突き動かされるのである。そこには思念と行動の一致が必要である。どうなるかはわからないが、どうなってもよいし、その結果を受け止めるという賭けが必要である。
ここで、THE BLUE HEARTSの甲本ヒロトの言葉を引用しておきたい。賭けとは結果を求めることではなく、念力によって突き動かされるということそのものであることを示してくれる言葉であるからだ。正確ではないが、こんな趣旨であった。
「金持ちになりたいから、有名になりたいから音楽をやるというのなら、ミュージシャンになる必要はない。犯罪者にでもなればいい。その方がすぐに有名になれる。目的は音楽自体である。その意味で、俺はバンドを始めた時から、夢を叶えていたといえる。音楽をやることが夢だったのであり、プロになれたことはその結果でしかない」
賭けとは、未来をこうしたい、こうなっていたい、こう作りたいという思念による、具現化に向けた行動に他ならない。だが、それがどう作られていくのかは誰にもわからない。先ほども述べたように、何をもって成否とするかは主観の問題である。甲本ヒロトはバンドを組んだ時点で夢を叶えたと捉えているのである。この夢を叶えたというプロセスが続くのだとすれば、それほど幸せなことはないのではないだろうか。だが、継続も簡単ではない。継続には、依存=受動感情ではない、能動的な念力を要するのである。
こうしてみると、賭けることとは、未来を作ることである。それも明日どうなるかはわからない現在形の中で意思決定している何かである。私の考えでは、人間が未来は見通せないのは当然である。ここでスピノザに再度登場してもらうが、スピノザの神とて、未来を見通すことはないのである。それがラプラスの悪魔(全知全能)との決定的な差異だ。スピノザの神は、スピノザ研究者である上野修氏が説くように、「リアルタイムの永遠」=「現実」そのものが神というような神であり、そこには過去も未来もない。だから、神とて振り返ることも見通すこともないのである。
スピノザは決定論といっても、すべての世界の運命があらかじめ決まっているという「宿命論」ではない。「ラプラスの悪魔」では、誰が何をどう行おうにも、既にその先に起きる出来事は決まってしまっている、という「宿命論」を逃れられないが、スピノザの決定論は、あらゆるものは関係性の只中にあり、その関係性において瞬間、瞬間に出来事がそのつど産出されるということであり、その産出(結果)には何らかの原因があるという意味において必然である、ということである。
そのたった今産出されるもの、それが現実ということである。だから、スピノザの神は、すべての人間の「運命」をあらかじめ決定しない。握ってなどいない。運命を「変える」ことは、誰においてもできるものなのだ。変えた結果、変わる結果には何らかの理由がある。スピノザの必然主義とは、これである。「すべてが決まっている」のではない。「決まったことがすべて」なだけである。
それゆえに、こう言いかえることができるのだ。私たちは、この神とともに、未来を産出しているのだと。なぜなら、私たち(それは人間のみならずこの世界のあらゆる存在そのもの)が、神の現れに他ならないのだから。神の中で神と共に、現在進行形の賭けの中で、その次に作られる現在、すなわち未来を産出する現場に立ち会っているのだ。私たちの選択のすべてが、そうなのである。未来は不透明で未知なる領域ではあるが、この毎日の選択と、誰かと誰かの賭けにより、現実は無限に立ち現れてくる。
賭けに成功しようが失敗しようが、すべては必然的にただ一つの現実に収束していく。未来とは、賭けるという行動によって、今ここで生まれ得るものそのもであり、今この私たちの手で作られていくものである。すべてがあらかじめ決まっている「宿命的な未来」、これほどつまらないものはない。「今この瞬間の積み重ねとしての未来」があるからこそ、人間は何かを賭けることができるのだ。私はそう思う。だからこそ、甲本ヒロトらTHE BLUE HEARTSにならってこう歌うのだ。「それならば今ここで 僕ら何かを始めよう」と。
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