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私と世界のつながり方 ライプニッツのモナドロジーとは何か?

 私たちはみな、平等に消えていく。命あるもの、形あるもの、すべてのモノは消えていく。人間もまた、その宿命から逃れることはできない。宿命というよりは、必然である。どんなに金を稼ぎ富を築こうが、どんなに偉業を成し遂げ有名になろうが、どんなに権力を握ろうが、「この私」という情報の消滅、すなわち死だけは平等にやってくる。能力の差異、環境の差異、幸か不幸かの差異を問わず、みな、平等に滅していくのだ。それだけは紛れもない事実である。

 さながら、波の先端でポコポコと膨らんでは消え、消えてはまた膨らむといったような無数の泡のように、この地球という掌のその表層で、日々、生まれたり消えたりの戯れを繰り返している。泡でいられる時間というものは、この広大な宇宙の時間の中においては、釈迦のまばたきにも例えられるような刹那的なものである。泡である私たちは、もしかしたら、地上にいる限りにおいて人間にでもなったかのような夢を見させられているだけなのかもしれない(このイメージは『崖の上のポニョ』を想起させる)。

 この泡は、形あったとしてもあまりにも儚く、もろい。誰かに認識されなければ、その存在も誇示できないくらいに不安げで、頼りない。だが、この泡は無色透明かというと、そんなわけでもない。私たちの身体は、モノにぶつかれば、ぶつかった強度に応じて痛みを感じるし、傷ついたり、傷つけたり、破壊されたり、破壊することもありうる。私たちの身体には、赤くて暖かい血というものが通っているのである。

 泡のはずなのに、私たちはその身体を傷つければ、痛みを覚え、血を流し、もがき苦しむことになる。痛みを知ることで人は「暴力」が他者を脅かすものであることを知る。痛みを知り、痛みを避けることは、夢見る時間を少しでも先延ばしにしようという、種の生存本能がなす企てなのかもしれない。

 スピノザなら、この泡のような存在としての私たちの在り方を、神の無限なる力能と呼ぶことであろう。私たちは、神が表現する力能の無限なる反復の只中にある。そのうえで「個」とは、「この私」とは、他のモノとの差異においてのみ捉えられるゆえに、私たちは「差異と反復」としての存在である。だが、スピノザにはこの「個」といったものや「この私」へのこだわりは見られない。

 すべての生は、神そのものの表現であり、この世界で、私たちが生の喜びを見出すことは、すなわち、「神が神自身を愛する」という自己愛なのだとされる。その喜びは、神=自然という必然的な世界の中で、私たちが自らの内に見出すものである。誰かの命令でも、義務感でも使命感でもなく、宿命でもなく、私たちの知性が、理性が、感情が、おのずと必要とするものである。スピノザにとって確実なものとは、神=自然のみであり、われわれというモノとしての存在は、神の変状した姿に他ならない。

 デカルトはその逆で、確実なものは「この私」のみであった。世界がたとえ、誰かの悪知恵によって見せられている夢だとしても、私だけは疑いようなく存在する。この私だけは、私から逃れることも、他者に代わってもらうことも不可能である。それが、デカルトが見出した<現実>であり、「この私」が持つ単独性である。

 デカルトは精神から始め、スピノザは神から始めた。アプローチは違えど、デカルトとスピノザは、「確実性」をめぐっての問いを立て、その証明に挑んだ。だが、デカルトにおいては、思考は私の精神とぴったりと重なる。スピノザにおいては思考でさえも私の「外」にある。つまり人間の思考もまた、神のものであると考えていた。両者における決定的な違いはこのようなところにある。

 デカルトとスピノザに限らず、「この私」という個の存在と、私が受肉している世界との関係性は、古来から今日までずっと議論されてきた永遠の問いである。では、デカルトやスピノザからはやや遅れての時代を生きたライプニッツは、どうであろうか。

 ライプニッツは、スピノザと同じように、実体論、必然主義の立場に立つ。スピノザ哲学を恐れ、スピノザとの対決に挑んだと言われる(上野修)が、一方でスピノザよりもはるかに社交的で、野心的で、そして多才であった。その博識ぶりは、1000年に一人の天才とまで言われる。微積分の発明者であり、ニュートンとその先取権をめぐって争い、現在の微積分の記法はライプニッツのものが使用されている。

 ライプニッツにとっての実体論は、『モナドロジー』によって代表されるものである。だが、ライプニッツのそれは、スピノザと重なるものがありつつも、やはり遠く隔たったものでもある。私はよく、ライプニッツとスピノザの関係性を、ドラゴンボールの神とピッコロ大魔王の関係に例えるのだが、二人の思想は、似ているようで似ていない、表裏一体のようでありつつも、それぞれが反発し合っているというようなものに思える。

 ライプニッツの神は、どこまでも「人間」のためにあった。スピノザの神が、悪魔的な思想として、しばらくの間封じ込められてしまった歴史的事実からも、スピノザの神は、神でありながらも「人間」を脅かす大魔王でもあったのだ。ライプニッツがスピノザ思想に抱いた危機とは、世界からの意味や目的のはく奪である。

 ライプニッツは最初こそ、当時その名をヨーロッパ中に轟かせていたスピノザの独特な思想に傾倒するのであるが、それはやがて、この奇怪な思想を封じ込めなければ人類は堕落するという使命感に変わり、直接会って対談するということまで実行している(『宮廷人と異端者~ライプニッツとスピノザ、そして近代における神~』M・スチュアート)。

「普遍数学」の構想からもわかるように、ライプニッツは人間のために、人類のために、という思いがあまりにも強い人でもあった。微積分の記法の発明は、まさに数学という学問を、人類が汎用的に、普遍的に真理に接近できることを目的としている。政治にも口を出していたライプニッツは、三十年戦争によって亀裂を生んでいたカトリックとプロテスタントの和解、教会統一というものまで企図していたのだというから驚きだ。結局それはかなわなかったのだが、彼は理念の人であり、調和と秩序の人であった。

 その思想は、彼の哲学、形而上学においても貫かれている。彼はスピノザと同じように世界の出来事は必然的に決まるという立場をとりながらも、その世界の決定については、神が最善の世界を選択するという自由意志、そして目的というものを認めている。と同時に、スピノザが人間の想像物にすぎないとする「偶然」や「可能世界」も否定しない。むしろ、そのような偶然や可能世界こそが、世界を構成するものだとみなしている。

可能的で偶然的なもの・・・・・・は、それぞれ個別に考察することもできるし、無数の可能的世界のそれぞれの全体性の中で互いに秩序づけられたものとして考察することもできる。 この無数の可能的世界の各々は神によって完全に知られているが、そのうち一つの世界だけが存在へと至るのである。実際、多くの世界が現実に存在していると想像することは無意味である。なぜなら、あらゆる場所あらゆる時間に存在する被造物を普遍的に包括することは、われわれにとっては一つの世界においてのみできることだからである。

『神の大義』(ライプニッツ)より

 この「可能世界」から神が最善の世界を選択しているのだという「世界最善選択説」は、ヴォルテールらによって批判されているように、今日においてはすこぶる評判が悪いのだが、脳科学者の茂木健一郎氏は、このライプニッツの考え方は、個人の実践的なものとして捉えるのであれば有益だと提唱している(『ライプニッツのねこのように生きる』茂木健一郎のYoutubeより)。

 要は、神がこの世界を選択していると捉えると、それではなぜ大震災や津波、戦争のような悲惨な出来事が人間に降りかかるのだ、それが神の最善か?となってしまうのだが、ネコが、与えられた環境の中で自分にとって居心地がよい寝場所を探すように、よりよく生きるために、さまざまな可能世界の中から自分にとってのベストな環境を選べ、その環境になじめという話なのだが、この解釈はどこかスピノザが混じっている。

 とはいえライプニッツが「可能世界」を導入した背景には、人間が生きる目的や意味といった「奥行き」を、世界に潜めるためにあった。スピノザ主義では目的や意味が見出せなくなってしまうとライプニッツは考えたのであり、それくらいライプニッツは、「人類」の救済、思想の建て直しを使命感としていたのだといえる。

 ライプニッツの「モナド」とは、デカルトやスピノザの唯一の実体に反して「個体的実体」の意である。『モナドロジー』のテクストから見ていこう。

一 これからお話しするモナドとは、複合体をつくっている、単一な実体のことである。単一とは、部分がないという意味である。

二 複合体がある以上、単一な実体はかならずある。複合体は単一体の集まり、つまり集合にほかならないからである。

三 さて、部分のないところには、ひろがりも、形もあるはずがない。分割することもできない。モナドは、自然における真のアトムである。一言でいえば、森羅万象の要素である。

四 だからここには、分解の心配がない。まして、自然的に消滅してしまうなどということは、どう見てもありえない。

五 おなじ理由からいって、単一な実体は自然的に発生するわけがない。単一な実体は、部分の組合わせによってつくることができないからである。

六 そこでこう言える、モナドは、発生も終焉も、かならず一挙におこなわれる、つまり(神のおこなう)創造によってのみ生じ、絶滅によってのみ滅びる。ところが複合体では、どちらの場合にも、一部分ずつ、徐々におこなわれる。

『モナドロジー 形而上学叙説』ライプニッツ (中公クラシックス)

 スピノザの思想に慣れている私にとって、正直、ライプニッツの「モナド論」は、より難解である。スピノザにおいては、実体は唯一であり、その実体こそが神であった。だが、ライプニッツにとっての、単一実体とは、部分もなく分割もできない最小単位のものである。モナドという単一実体は神ではない。モナドは神によって産出されるものである(『モナドロジー』四七)

 その単一実体は同時に「他をはらみ、多を表現している状態、その流れがいわゆる表象である(『モナドロジー』十四)」とされる。かつ、その一なる実体は「変化できる無限の多を含んでいる」ため、この「多」が、個々の実体が変化する原動力にもなっている。

 そしてこの単一実体が集まり、複合体を構成するのである。しかし、誤解してはいけないのが、このモナドは、実在する物体、物質ではないということである。実体=個体=モナドと、物体=現象は、区別されるのである。厄介なのは、このモナドは定義上は「宇宙の生きた永続的な鏡」とあり、この単一実体は知覚と欲求を属性とする活動体で、ライプニッツはモナドを「魂」と呼ぶということをためらわない。

 この魂たるモナドと世界全体のあり方を、「表象」とライプニッツは呼んでいる。モナドが「鏡」であるというのは、まさにモナドが世界を映しこんでいるからである。

 モナドは、物質や人間の心、そして神にまでその力が及んでいる。「世界を構成する最小単位の力」と考えるとわかりやすいだろうか。『モナドロジー』(中公クラシックス)の訳者による注釈をのぞいてみよう。

モナドは精神的な意味の単一者であるから、それが集まって物体ができるとは考えられない。むしろモナドは物体の統一力であり、物体を物体たらしめている統一原理であると考えられる。複合体が単一体の集合であるとは、無限に分割される各物体が固有の統一原理にささえられているということである。※強調引用者

『モナドロジー 形而上学叙説』ライプニッツ (中公クラシックス)

 ライプニッツにおいては、「一における多」、「一における無限」という概念が重要であり、無限を内包するモナドによって世界は絶対的に統一されているのである。そしてそのモナドを産み出すのは、神であり、世界はあらかじめ計画された、デザインされたものとして、神によって「調和」されている。

 ライプニッツは微積分の発明者である。数学という高度に抽象化された領域において、極小の量を操作する規則を規定し、二次および高次の導関数の計算を可能とし、積の微分法則と連鎖律を規定した人間である。ライプニッツにとって、一なる「極小」が、普遍としての全体を表出するという関係性を、世界の構造にもみてとるのである。

 この発想は、科学的には、ライプニッツが「英国の王立協会のOldenburg(オルデンバーグ)や有名なイタリアの病理学者Malpigi(マルピーギ)と親交があり、英国ではRobert Hook(ロバートフック)、オランダではレーベンフックを訪れ、顕微鏡下にうごめく微生物のイメージに魅せられ、ここからモナドの着想を得た」のだとも考えられている。(参照:『ライプニッツのモナド論を現代的視点から読み直す』

 また、ライプニッツ研究者の酒井潔氏は、ライプニッツの思想の「源流」として、中世の神学者、ニコラウス・クザーヌスを挙げている。クザーヌスはジョルダーノ・ブルーノに先立つこと150年前、「中世的宇宙観を放棄し、宇宙の無限性を主張したという功績が帰せられる最初の人」とされている人だ。

<個が宇宙の縮限である>とは具体的にはどのような意味であろうか。クザーヌスは端的に次のように述べている。「どの被造物においても、宇宙(全)はその被造物そのもの(ipsa creatura)なのである。つまりどんな事物も、それにおいては宇宙は縮限された仕方で(contracte)その事物そのものであるという具合に、万物を受け入れている」。

クザーヌスは個を、世界を介しつつ(mediante universo)、神=全体者=一を展開する者(complicatio explicatio)とした。個はそれ全体がまさにindividuumとして多を内に統一し、世界を縮限するという積極的な役割を得るようになる。

『ライプニッツのモナド論とその射程』酒井潔(知泉書館)

 モナドは物体の統一力であり、物体を物体たらしめている統一原理であるが、生命体、そして人間の身体もまたモナドによって構成される。

六三 モナドに属して、そのモナドを自分のエンテレケイアや魂にしている物体は、エンテレケイアといっしょになって、生物と呼ばれるものを構成する。また魂といっしょになると、いわゆる動物を構成する。ところで、この生物や動物の体は、常に有機的である。どのモナドも、それぞれ宇宙を自分流に映しだしている鏡であり、かつ宇宙は、完全な秩序にしたがってととのえられているから、それを表現するものの側にも、秩序はかならずあるのである。つまり魂の表象や、したがってまた、魂が宇宙を表現するさいその手段になっている体のなかにも、秩序はかならずあるのである。

『モナドロジー 形而上学叙説』ライプニッツ (中公クラシックス)

 エンテレケイアとはアリストテレスの用語で、形相が質料と結びついて自己を実現、完成させてゆくものであり、ライプニッツはそこに力の本性を認めたのである。

 そして、ライプニッツのモナドは、私たち人間の「自我」にもおよぶ。およぶというよりは、モナド自体が主観を持つ精神的な意味での単一者であるから、私たちはみな、モナドを宿した個体ということになる。この身体を伴ったモナドの個体性は、そのままモナドの個体的性格であり、モナドは世界をそれぞれの仕方で表出し、他のモナドに影響を受けない、独立した、かつ自閉的な存在である。つまり、このモナドとしての身体は、他者と区別されうる「自我」であり、他の誰にも代替されない「この私」なのである。

 モナドにおける「一における多の表出」は、「知覚」と呼ばれ、ある知覚から別の知覚への推移を「欲求」と呼ぶ。「モナドの働きのその一部が主観と呼ばれるものに相当する(酒井潔)」。 また、ライプニッツはこの自我による「意識のともわない知覚」というものを、「極微知覚(極小表象)」と呼び、無意識の先駆けとなるような概念を導入している。

 ライプニッツは、じつはこのモナド=精神=物体を構成する力、とすることで、ここでも、心身の統一と調和を実現しようとしていたのではないか。デカルトのような心身二元論でもなく、スピノザのような心身並行論でもなく、心の存在を否定し、精神や魂を複雑な物理的実体から生まれる属性と考える唯物論でもなく、心と身体が統合された実体の可能性を追求しようとしたのが、この「モナドロジー」の構想なのだと考えることができる。

 そしてモナドを宿した身体は、モナドによって世界全体を映しこむことができるという意味で、この私と世界を、最初から予定調和的に「つないでいる」のである。

 ライプニッツの「モナドロジー」は、世界を眺める視点であると同時に、世界を構成する要素でもあるという二重性を備えている。古来よりずっと問い続けられてきた精神と物質の関係をめぐる問い、現代においては「私が世界を経験しているという事実を、私がその一部であるという事実とどのように整合させるか」という問題において、このモナドの概念が有効なのだと説くのは、哲学研究者のジミー・エイムズ氏である。

 ジミー氏は、『21世紀の自然哲学へ』(人文書院)において、永井均が延々と問い続けている「この私」という独在論的な問題と、この世界のつなぎこみを試みている(「ライプニッツのモナド論と現実の捩れた構造:自然哲学史論」)。

 ライプニッツのモナドへのこだわりは、「個」としてある「人間」へのこだわりではないだろうか。冒頭の泡のたとえに戻ると、スピノザは人間を、泡と同等とまでとはいわぬまでも、様態(神の表現)としては同じであり、力能や構成されるものにおいて差異があるにすぎないとみていたであろう。ましてや、人間精神の絶対性は認めようとしなかったであろう。

 しかしライプニッツにおいては、その泡としての人間が、秩序だったこの世界で、神が最善を選択するこの世界において、人間としての最大の夢を見ることができるようにという意味で、必死の「抵抗」を試みたのかもしれない。

 スピノザ研究者である上野修氏からの孫引きであるが、ジョルジュ・フリードマンという人が、『ライプニッツとスピノザ』というあまり知られていない本の中でこんなことを言っているという。

「ライプニッツは一生懸命、人間のことを考えた。スピノザはただ考えた」(第一版序文、上野修訳)

ニーチェ流にいえば「人間的な、あまりに人間的なライプニッツ」なんです。

『哲学史入門Ⅱ』(NHK出版新書)より

 

 

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