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映しと移しと写しの世界、すなわち現し(うつし)の世界

 前回の記事で私は、旅先の沖縄での体験で抱いた違和感、私たちは情報や記号だけに取り囲まれた疑似的な世界を、ゲームの主人公のように行き来しているだけなのではないか、コロナ以降、個と個のつながりはそれぞれがそれぞれの世界に閉じこもっており、情報で充足された自己完結的な身体を生きているだけなのではないか、そしてそのような行動や思考パターンを規定しているのが、SNSをはじめとしたさまざまな情報メディアによるものではないか、ということを書いてみた。

 じつはこのような指摘は、まったく目新しいものではない。私が学生だった1990年は、まさにポストモダン思想の潮流の只中にあり、たとえばジャン・ボードリヤールのような哲学者によって「シミュラークルとシミュレーション」の世界についてが唱えられていて、世界は「オリジナルなきコピー」に満ちており、仮象的なものが現実と反転した世界を「シミュラークル」と名付けたのであった。ボードリヤールはそのようなコピー文化、虚構の世界の象徴として「ディズニーランド」を挙げている。

 もはや世界に、オリジナルと呼べるようなものはなく、コピーされたものだけがさらにまたコピーを繰り返し、拡張されていくのみである。そしてSNS時代に入っては、モノや商品といったもののコピーだけでなく、感情のコピーまでもが行われるようになり、それらは「顔」の見えない匿名的なもの、無名的なものによって増殖していくのである。そう、私たちの存在そのものもまた、もはやコピー的な何かでしかないのかもしれないのだ。

 しかしそのような世界をたんに表層的である、記号的である、と批判をしてみたところで、われわれを取り巻く現実は変わることはない。このようなシミュラークルとシミュレーションによって彩られた現実は、AIやVRのようなテクノロジーの浸透とともにますます加速していくものと考えられる。

 これらオリジナル(本質的なもの)が見失われてしまった表層的、表面的な世界は、われわれの自我を無名化させ、他者との関係においても、本音は隠され、建前だけでのコミュニケーションがなされ、やがて自己をも見失い、消失しかねない危機をもたらすであろう。

 本質的なものが分裂し引き離されてしまった世界においては、私たちの自己を行き場のない閉塞感へと誘う。そのような来たるべきディストピアへの入り口として語られがちなのが、この現代における「表面」的な世界だが、そのような虚構とも見紛うような現実から、別の虚構へと逃避するのではなく、そのような「コピー」という概念を、もっと積極的に捉え、この「現実」において自我を回復すべきという試みもあっていいはずである。

 このことについては、『21世紀の自然哲学へ』に所有されてる、水橋雄介氏による論文、「光明のバロック」が参照になる。

 ここまで私が述べてきたことについては、この水橋祐介氏の論文に依拠しながら記述してきたのだが、ご本人の言葉を引用しよう。

一言で言えば、「表面」とは資本主義的・SNS的カオスである。「プラトニズムの転倒」の行きつく先はイーロン・マスクであり、「いいね」と「映え」が席巻する空間である。そこでは思想のコピー、風景のコピーが繰り返され、それがオリジナルであるかのように主張される。だからこそ、もはや「最も深いもの、それはイーロン・マスクである」と言うべきかもしれない。

「光明のバロック」より

 この世界における私の経験は、誰か(他者)の経験を模倣し、反復しているだけなのかもしれない。私が沖縄で感じた、風景の「既視感」や、「情報」を食べているという感覚は、まさにSNS社会に毒されている証なのかもしれない。

 そうなると、もはや他者のコピーのコピーのコピーでしかなかったりする私という存在は、誰とでも交換可能な、オリジナル性なき存在なのだろうか、とも考えたくなってしまう。

 水橋祐介氏は、このような自己と他者の関係について、哲学者である坂部恵氏の論考を引用し、次のように述べる。

「私と他者の間に見られる可逆性と不可逆性の共存」は「入れ替え可能なものでありながら、しかし同時にまた、両者の間には、あらためて説くまでもなく、厳とした不可逆性が存在する」(※『坂部恵集5』からの引用)。

「私」と「他者」は入れかわることはできない。「私」は「私」のままであり、「他者」は「他者」のままである。だが、「私」に「他者」は映り込み、「他者」は「私」に映りこむ。

「光明のバロック」より

 私と他者は、身体的な代替は不可能である。だが、坂部恵氏が『仮面の解釈学』において説いていたのは「仮面と素顔の区別、素顔こそが実在であって仮面は仮のものだという日常的な論理は・・一つの先入観以上のものではない」ということであった。

 つまり、ここまで述べてきたような、本質的なものと仮想的なものを区別するもの、それ自体が私たちの先入観ではないだろうか、という指摘がここにはある。「仮面と素顔の区別、人と動物の区別、さらには人と神々・魔神の区別さえも絶対的なものではなく、根本的には相互に交換可能なものにほかならない」と坂部恵氏は説く。これはアニミズム的な世界観を想起させる。

 水橋祐介氏は、この自己と他者の代替不可能性ではなく、交換性においてこそをむしろ、この交換可能なコピー社会における自我の回復につながるものとして強調する。

 たとえば、現実と仮想的なものについての区別は、古代の日本においてもなかったのだという。たとえば、「現実」と「夢」について。

『万葉集』には「夢を見る」という表現は見当たらない。全て「夢に見る」である。夢は、見る人のうつつの世界を超えた客観的な現象であり、世界であり、一個の存在であった。従って、うつつの世界と同様に夢においても恋人は通ってくる・・・・万葉の時代も、夢はうつつの代償としての夢ではない。夢は、夢見る者にとってうつつと同じ重さを持つのである。(※「『源氏物語』の夢と方法」(川本真貴)からの引用)

「光明のバロック」より

 現代では、脳が生み出す仮想現実と捉えられている「夢」は、古代人においては「うつつ」(現実)と同じ意味を持っていた。「自分の見る夢と恋人の見る夢は異なるものでありながら、自らの意志は恋人の夢に映り込み、恋人の意志は自らの夢のなかに映り込む(水橋祐介)」。

 坂部恵氏も同じように、この自己と他者の「交換性」にこそ着目していたのだという。

 その坂部恵氏は、ひらがなの「うつし」という語に「映し」・「移し」・「写し」などの多義性を含ませることで、「表面」的な世界の閉塞感からの克服、回復を試みるのであった。

 古語で現実を意味する「うつつ」を「映し」と重ねつつ、坂部恵氏はそれを「現前」に読みかえる。

<うつつ>は、たんなる<現前>ではなく、そのうちにすでに、死と生、不在と存在の<移り>行きをはらんでおり、目に見えぬもの、かたちなきものが、目に見え、かたちあるものに<映る>という幽明あいわたる境をその成立の場所としている。そこに<移る>という契機がはらまれている以上、<うつつ>は、また、時間的に見れば、たんなる<現在>ではなく、すでにないものたちと、いまだないものたちと、来し方と行く末の設定と、時間の諸構成契機の分割・分節をそのうちに含むものである。(※『坂部恵全集3』からの引用)

「光明のバロック」より

 ここではもはや、過去・現在・未来という時間的区別も、現世とあの世という空間的区別も、存在と不在という区別もない。自己と他者の区別もない。このような相互に交換される、坂部恵的な「世界」への着目が、どのようにして自我の回復につながるのか、という点については、じつは現代の漫画や、道元などの仏教思想などによるさらなる肉付けがあり、水橋祐介氏はこの「うつつ」をドゥルーズ的な意味での「バロック」と読み替え積極的な意味を見出していくのだが、詳しくは本論文を読んで頂くのがよいかと思う。

 私が取り上げたいのは、この「うつつ」が、「映し」でもあり「移し」でもあり「写し」でもあるという坂部恵の着眼点である。

 この世界、少なくとも私たち人間にとっての世界は、自己の意志や他者の意志、自己の観念や他者の観念が「映り込んだ」表象的な世界である。その表象は私に映り込み、他者にも映り込む。それら表象(意味や記号)が取り巻く社会というものは、じつは夢と変わりがない、というのはスピノザが指摘していたことでもある。そのような表象知において世界を捉えるかぎりは、「目を開けたまま夢を見ている」ことと同じである。

 現代社会はまさにそのような表象知と表象知が重ねられた「意味」や「情報」に溢れ返った世界である。だが、われわれはその世界を、現実(うつつ)と呼ぼうが虚構(ゆめ)と呼ぼうが、その世界を「移り」ゆく住人である。

 私という存在は、もはや現代社会においては「写し」=コピーでしかないのかもしれない。しかし、よくよく考えてみれば、コピーに対して、オリジナルというものがそもそも人間にはあるのか、ということでもある。

 生まれたばかりの子どもは、親の「模倣」をする。スピノザは、その模倣こそが人間の本質でさえあるという。子どもはそのような模倣を通じて自己を形成していくのである。

子どもたちの身体は、たえずいわばやっと均衡を保っているようなものだから、だれかほかの者が笑ったり、あるいは泣いたりするのを見ているだけで、彼らもまた笑い、あるいは泣き出すのをわれわれは経験している。なおそのうえに彼らは、他の者がやっているのを見て、なんでもただちに模倣しようとする。結局他の人たちが楽しんでいることを想像して、そのように自分もなりたいと欲求する。

『エチカ』第三部定理三十二

 われわれは、生まれながらにして、誰かの「写し」において、自己を形成する。行動を真似し、言葉を写し、鏡に映った自分の姿を見て、他者を見ることで自分を写す(ミラー効果)。そのような「うつし」のプロセスを経て、社会的存在としての自己を認識していく。

 こう考えると、コピーにまみれたシミュラークルの世界というのは、なにも近代になって始まったわけではないといえるだろう。そもそも人間という生命自体が、他の生物のコピーの産物でもあり、まさしくDNAが複製することによって、遺伝情報を次世代へと「移し」ていくのである。

 そういった意味では、この世界=自然そのものが、コピーだらけの世界なのである。

 映しと移しと写しの世界、それがまさしく、現(うつつ)の世界であるということ。

 どの時代においても他者との軋轢はある。閉塞感はある。テクノロジーによって浸食された身体というのもある。人は苦しむ存在である。それでも、生きる存在でもある。

 ちなみに、万葉時代において、「うつつ」ではなく、「現し(うつし)」という言葉の方には次のような意味があるのだという。

①現実に目の前に見え、現れていること。
②正気であること。また嘘や偽りがなく本気であること

『万葉集神事語辞典』収録語一覧より

 言葉というものは、つくづく奥深いものだと唸らされる。ここには、人間の知恵と経験と思想が詰め込まれているのだ。

 現実が、オリジナルであれコピーであれ、正気であること。また、自分自身に嘘や偽りがなく本気であること

 これこそが、自我の回復のヒントといえるのではないだろうか。

 

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