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スピノザが書いていたかもしれない、幻のテクストたち

 スピノザは短命だった(1632‐1677)ということもあり、残した著作もごくわずかである。ライプニッツにおいては、本場ドイツでのアカデミー版全集では全133巻!を予定しており、既刊はようやく68巻まできているとのことで、全集の完結は2055年というのだから、まるでガウディのような世紀単位でのプロジェクトである。ハイデガーもドイツでは全103巻。ただしハイデガーはテクストというよりは、講演記録がほとんどとのことなので比較の参考にならないかもしれない。

 アリストテレス、カント、ヘーゲル、ニーチェなどは、日本のものでもそれぞれ20巻近くある。それに比べればスピノザはラテン語の全集であるゲプハルト版で全4巻、現在日本で刊行中の岩波書店の全集も全6巻なので、その「少なさ」は一目瞭然である。逆にいえば、それにも関わらず、ライプニッツやカント、ヘーゲルやハイデガーに劣らず研究が今なお盛んというのはすごいことのような気もする。加えてドゥルーズやアルチュセール、ネグリらによってスピノザはある種神格化されており、現代に至っては、西洋哲学史の巨星、あるいはその異質性を示す形容詞である「彗星」として、一気にメジャーな存在へと押し上げれている。

 スピノザの全著作は以下の通りである。

『デカルトの哲学原理』
『形而上学的思想』
『神学政治論』
『エチカ』
『知性改善論』(未完)
『政治論』(未完)
『ヘブライ語文法綱要』(未完)
『神、そして人間とその幸福についての短論文』
『往復書簡集』

 このうちスピノザ生前に発表されたものは、『デカルトの哲学原理』、『形而上学的思想』、『神学政治論』のみで、『エチカ』以下の著作は死後に『遺稿集』として編まれ、世に出たものである。かつ未完の著作も多い。『遺稿集』刊行後に新たに発見されたものもある。

 上記のような事情から、スピノザの著作は、いつくらいにどの順番で書かれたものなのか、年代が特定されていないものが多い。研究は進んでいるが、確たる裏付けがないため、推測にとどまっているのである。

 そのような状況もあって、かつてはスピノザの著作とみなされ、全集ゲプハルト版にも収録されていたにも関わらず、その後の研究が進んだことによりスピノザ本人の著作ではないことがわかり、「除外」されてしまった幻のテクストというものがある。

 それが、虹、光学についての論考『虹の代数学的計算』(以下・虹論文) と、機会[kans]、一種の確率の問題を扱った『偶然の計算』である。この二作品はきわめて小さな論分で、「科学的論考」と称され、スピノザの自然科学論として分類されてきた。

 いずれも19世紀になって発見されたものである。そしてそれがスピノザのものであると信じられてきた。『虹論文』はそれ自体では興味深いものであると、スピノザ研究者のピエール=フランソワ・モロー氏は言う(『スピノザ入門』文庫クセジュ)。なぜならそれは、当時オランダにおける最先端の学問、デカルト的屈折光学の資料になっているからである。

虹という現象は聖書においては神とノアの契約を象徴する奇跡であるが、この論考には、そのような現象をもあくまでも自然現象として説明しようとする意志がはっきりと現れている。これは確かにスピノザが『神学・政治論』で強調した説明法である。しかし、そのような主張をしたのはスピノザ唯一人というわけではない。最近の研究によって、この論考が彼の筆によるものではありえないことがわかっている。

『スピノザ入門』ピエール=フランソワ・モロー(文庫クセジュ)

 これら二つの小論は、スピノザの死後、それも19世紀になって発見されたのだが、スピノザのものであると信じ込まれた根拠はなかったわけではない。実際にスピノザの『往復書簡』において、確率について論じられたもの(書簡38)、光学に関して論じられたもの(書簡39)が存在するからである。さらにスピノザは同時代の科学者、ホイヘンスと交流があったとされ、ホイヘンスは数学問題のひとつである確率論についての研究を行っており、ホイヘンスが研究をしていた時期とスピノザが上記の書簡を出していた時期が重なるのだ。

 また、スピノザの『往復書簡』では、科学者のボイルと議論をしたり、書簡のみならず『エチカ』や『デカルトの哲学原理』『短論文』などでも物体論を展開していることから、物理学や数学にもある程度入れ込んでいたことがわかっている。そのようなこともあり、この二つの論文は、発見されたのちに、スピノザのものだと主張されてきたのだと思われるが、その背景は以下のようなものであったという。

二論文は、十九世紀の半ばにアムステルダムの書籍商ムッラー Frederik Mullerがファン・フローテン Johannes van Volten に持ち込み・・・スピノザの失われていた著作としてはじめて認知したものであって、その後、それらの論文の著作がほんとうにスピノザなのかということについては十分な議論がなされないまま、ファン・フローテンとラント編の、そして、ゲープハルト編の『スピノザ全集』のなかに、おそらくはスピノザの著作であろうという推測だけにもとづいて収録された。そしてゲープハルトの『全集』のほぼ半世紀をへた一九七〇年代の後半、ペトリ M.J.Petory が当時の屈折光学や確率論のなかにこの二論文をあらためて位置づけた報告を行い、それらの論文の著作がスピノザであることをあらためて主張したことから・・・オランダの権威あるスピノザ著作集の一巻 Spinoza Korte Geschriften 1982 に収録されることになった。

論文「スピノザのものと考えられているがスピノザのものではないものについて」桜井直文 スピノザーナ13号2012年

 これによって、1980年代に、独訳、仏役、英訳があいついで刊行され、「新発見」された二論文はスピノザのものとして定着するかのようにみえたのだが、これに異を唱えるものがいたのだという。ド・フェットという人物らしいが、彼によって、二論文がスピノザのものではないということが明らかにされてしまったのだ。

 それについての詳細は省くが、たとえば『虹論文』に出てくる人物の名が、すでに故人であることを示す内容で言及されるのだが、その人物の没年は1685年で、スピノザの死後八年目にあたる。スピノザより後に死んだ人物に対して、スピノザが故人として言及しているのは明らかな矛盾である。

 他にも、この論文が日の目を見る機会は二回あり、その際にまだ存命だったスピノザを取り巻く人物、友人らが気づかなかったはずがないのだが、その形跡は少しもないことなどから、現在においては、ほぼ確実にこの二論文はスピノザのものではないということがわかっている。

 実際にこの二作品がスピノザのものでないにしても、私はそれはそれで興味がないわけではない。ゲプハルト版に収められてはいるので、ラテン語、オランダ語を学んだ際は読むことは一応可能ではある。語学をちゃんとやればの話だが(笑)。

 このように、今となっては幻となってしまったスピノザ作品があるのだが、ほかにもスピノザが構想していたものがある。それはスピノザが没する前の病身の時、スピノザは、『モーセ五書』つまり『旧約聖書』をオランダ語に翻訳することを企てていたのだ。

 結局、その訳稿は火に投じたとされている(『スピノザ入門』モロー)。スピノザは『神学・政治論』で聖書を論じており、『ヘブライ語文法綱要』も聖書の言語、ヘブライ語についての文法書であることから、彼の聖書への関心は高く、かつ、「聖書は識者に独占されるべきものではない」と考えていたため執筆の動機があったとされている。

 歴史に<if>はないが、スピノザがもし長く生きていたら、彼はその哲学体系である『エチカ』にたどり着いたのちに、何を書こうとしていたのか、ということには大きな興味がそそられる。國分功一郎氏は『エチカ』=倫理学と並んで『フュシカ』=物理学を著わしていたらどうなっていただろうかと想像をめぐらせている(『スピノザ―読む人の肖像』)。

『エチカ』の完成後に書かれたものとしては、いずれも死により未完となってしまったが、『政治論』と『ヘブライ語文法綱要』がある。『エチカ』が一気に真理に到達することを目的とした神の思考、神の観念の構築であったことを考えるならば、彼はその「神」という実体から演繹し、様態であるわれわれ人間という個物について、その具体と詳細を論じようとしていたように思える。

『エチカ』では「神」から演繹されるものとして、神=自然の法則にしたがうものとしての人間の身体と精神、感情論と倫理についてが論じられるのだが、『エチカ』第五部序文で、知性がどんなやり方・手段で完成されるかについて、あるいは身体の機能の理解については、論理学と医学が関係するがここでは取り扱わない、と述べていたことからも、スピノザによる論理学、医学という展開もありえたのかもしれない。

 スピノザは、『エチカ』完成ののちは、人間の実践的な領域として、宗教(信仰)=『神学・政治論』と、政治=『政治論』を取り扱った。そして、人間の思考における礎ともいうべき、言語を取り扱った=『ヘブライ語文法綱要』。

 スピノザはユダヤ教会の破門後、ファン=デン=エンデンのもとで世話になり、ラテン語を学び、かつ、その関心は医学、数学、自然学、機械学、天文学、化学、政治学に及んでいたという。特に医学においては、当時の医者が必要としていた医学書はほとんどもっていたのだという(『スピノザ』人と思想58、工藤喜作)。

 また、レーウェンフックやホイヘンスとも交流があり、かつ当時最先端の技術であったレンズ磨きに携わっていたスピノザが、レンズを通して視られる世界、生物学や光学、あるいは書簡でも話題にしている天文学についてを書いていてもおかしくなかったのだ。

 これらは今となってはむなしい想像でしかないが、スピノザ研究者のモローが言うように「スピノザのもろもろの著作は、一つの哲学体系が変容するというのはどういうことかを理解するための優れた事例となっている」ため、『エチカ』以前と、『エチカ』以後の「変容」への興味は尽きないのである。

 だが、その「変容」の軌跡を追えるものが、わずかに残された著作であったとしても、楽しみをそれだけに限定することはないのだ。われわれはスピノザ以後という形で、スピノザに触発され、スピノザを受容し、ときに激しい反発をするという形で変遷していったスピノザの系譜(非系譜も含めて)において、膨大に生成されたテクストたちの只中に没入していくことができるからだ。

 すなわち、カント、シェリング、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、フロイト、フッサール、ハイデガー、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ベルクソン、レヴィ=ストロース、デリダ、レヴィナス、ドゥルーズ、フーコー・・・といった哲学史そのものへの接続である。

 とはいえ、そのわずかに残されたスピノザのテクストをしっかり読むことだけでも、生涯をかける必要があるくらいなのも事実だ。

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