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「時間」とはなにか? 現代物理学ときどきスピノザ(前編)
時間とは何か? 誰も私に問わなければ、私はそれを知っている。誰かそれを問う者に説明しようとすれば、私は知らないのである。
まずはただのイメージ遊びとして。砂時計というものがある。砂時計は中央のくびれた容器の中に微細な砂を入れ、上側から下側への砂の移動によって経過時間を計る器具である。起源は古代エジプト、古代ギリシャ、ローマとも中国ともいわれているが定かではない。砂時計は縦に置くと砂粒が流れ、下側の容器に砂がたまっていくのであるが、この砂粒の流れが時間の経過を表象する。この砂時計を横に置いてみるとどうなるか。砂粒は固定され、流れることはない。時間は止まり、砂時計の形は無限=∞になる。つまり、永遠の時間となる――もちろん、これはたんなるイメージ遊びだ。
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古来よりさまざまな文化、宗教、哲学などにおいて語られてきた時間――時間は、いまだ明確な答えがない人類にとってのビッグ・クエスチョンである。近代社会におけるわれわれは、一般的に時間というものを直線的に捉えているのだが、この時間観は必ずしも人類史上一様ではない。
古代ユダヤ教やキリスト教といったヘブライズムにおいては、時間は有限であり始まりと終わりのある「線分的な時間」として捉えられれていた。古代ギリシャとオリエントのヘレニズム文化においては、「円環的な時間」が考えられていた。また原始社会においては、時間は繰り返し現れる「反復的な時間」として捉えられていたようだ(『時間の比較社会学』真木悠介)。
日本人の場合、仏教の影響もあり、「円周上を無限に循環する時間」、「無限の直線上を一定の方向に移動する時間」といったような無限の時間の概念があるとされる(『日本文化における時間と空間』加藤周一)。
上記の時間観は、時間をどう捉えていたかという、共同体や社会における意識形態である。時間とはそもそも何か。時間は実在するものとしてあるのか。人間の意識の中においてしか存在しないものなのか。
この問題、物理学者においてさえコンセンサスのとれた答えはない。コンセンサスがとれていないどころか、どのような理論をとるかによっても大きく異なってしまうのである。
たとえば最近は、イタリアの物理学者カルロ・ロヴェッリによって『時間は存在しない』ことが唱えられ、世界的なベストセラーとなっている。著者は「ループ量子重力理論」の立場において、時間が無時間であることを主張する。
現代のわれわれの時間観において、支配的なものは「直線的な時間」、すなわちニュートン力学における「絶対時間」ではないだろうか。絶対時間とは、何にも影響されず、いつでもどこでも一様に流れる時間である。現代科学の出発点ともいえるアイザック・ニュートンにおいて、絶対空間と絶対時間が提唱されたのは1687年のことである。
ニュートンは、一秒はどこで測っても一秒であるという、私たちの日常的な経験から考えられる時間の概念を明らかにした。ニュートンはこの絶対空間・絶対時間の仮定のもと、力学の包括的な体系を構築し、以後、ニュートン力学による世界観は科学のみならず、哲学を含むあらゆる思想の人間に影響を与える(参照:『空間は実在するか』橋元淳一郎)。
20世紀に入り、アインシュタインの登場により、相対性理論が唱えられ、ニュートン力学によって築かれていた「常識」が根本から覆されることになる。1905年にアインシュタインが発表した『特殊相対性理論』において、「1秒や1メートルの長さは、立場や状況によって変わる」という驚くべき理論が提唱された。アインシュタインの相対性理論では、時間や空間は絶対的なものではなく、観測者や状況によって変化するというものである。特殊相対生理論は重力の影響下にない時空間を想定したものであった。重力の影響をふまえたものが『一般相対性理論』である。
アインシュタインの一般相対性理論においては、重力を強く受ける場所ほど時間がゆっくりと流れることが知られている。このことを実証するために、東京大学と理化学研究所がスカイツリーの展望台と地上の標高差を利用して、一般相対性理論による時の流れの違いを検証することに成功したのだという。
アインシュタインにしろニュートンにしろ、時間と空間を前提としたモデルである。アインシュタインにおいては、時間と空間は不可分であり、一体のものであるとされ、時空と呼ばれる(四次元空間)。そして重力によってこの時空は伸び縮みするのだという。それならば時間というものは存在するのだろうと思いたくもなるが、アインシュタインの理論においても、実際にその時空が実在するものであるのかというと、どうもそうとは言い切れないようだ。
この四次元空間を前提としないと、「重力波」の存在もそうだが、もろもろの実験結果や理論との整合性がとれないため、「あたかも」存在するかのように扱われているということらしい(参照:『「時間」や「空間」はゴムのように伸び縮みしている…!「相対性理論」に隠された見事な「時空のからくり」』)。
時間も空間も無色透明なため、確かめられないのであるが、しかし何かが「変化」していることは間違いないのであろう。上記に紹介した『時間は存在しない』のカルロ・ロヴェッリによれば、これらは以下のような説明になる。
ニュートンやアインシュタインはそれぞれの方法で時間と空間が入り交じる「時空」を想定したが、量子論を取り入れたループ量子重力理論では、分割不可能な最小単位である「空間量子」が連続することで、まるで時間や空間といった一つなぎのものが存在するかのように「見えるだけ」としているのである。空間量子が空間を埋め尽くしているのではなく、空間量子それ自体が空間なのである。それらは時間の中に存在するのではなく、絶えず相互作用しあっていて、それこそがこの世界のあらゆる出来事を発生させている。『時間は、元来方向があるわけではなく一直線でもなく、さらにいえばアインシュタインが研究したなめらかで曲がった幾何学のなかで生じるわけでもない。量子は相互作用という振る舞いを通じて、その相互作用においてのみ、さらには相互作用の相手との関係に限って、姿を表す。』
カルロ・ロヴェッリは、「世界は空間量子によって形作られている」ことを説明することで、この世界に時間の存在は不要で、時間とは、人間がそのように錯覚、感覚しているからにすぎないのだという。では、この世界では一体何が変化を起こし、時間というものをわれわれに錯覚させるのかといえば、それはモノの変化、出来事であり、「物質」もまた、持続する出来事というわけだ。
その持続や変化を一方向的な時間のように人間が感覚するのは、エントロピーの法則がそのようなものであるからなのだという。時間の過去であるとか未来であるとかは、この熱力学的な法則から生じるものであり、宇宙そのものに本質的な時間は存在しないのだ。
驚くべきことに、紀元前四世紀の哲学者、アリストテレスもまた、『自然学』第4巻の冒頭で「過去は存在しない、未来は存在しない」と問題を提起していた。アリストテレスによれば、『時間』とは、「前と後ろにかかわる運動の数」なのである。われわれ人間は、時の流れを経験しているわけではなく、「太陽の位置が変わった」や「外見が老化した」という日常の「変化」をカウントし、それを「時間」の流れとして認識していると考えたのである(参照:『アリストテレス「時間は流れていない…」2500年前のつぶやきを、ついに最新科学が解明』)。
17世紀の天才哲学者、ライプニッツもまた、時間を「物体の変化の時点の順序」として考えていたようで、ライプニッツの立場はニュートンの「絶対主義」と異なり「関係主義」で捉えていたようだ。時間を「継続するものの秩序」と捉え、数学的な関係においては「観念的なもの」としてこれを把握していた(『ライプニッツの時間論』松田毅)。アリストテレス同様にライプニッツの考え方も、量子力学の捉え方との近さを感じる。
ところでわれわれは時間を何で定義しているかといえば、地球の自転の回数から1日の長さ、そこから秒の単位を導き出した。しかし自転では季節変動や経緯変動があるため、地球の公転に基づく定義に変更されたのである。そして現在は、「秒」の精度をあげるものとして、セシウム原子の固有の周期、原子に共鳴するマイクロ周波数の周期に基づく秒の定義が採用されているのである(参照:『秒の定義の変遷と秒の再定義について』)。
つまり、時間は何らかの「運動の数」を固定化し、それを時間の単位として置き換えているのであり、われわれが日常において捉えている時間とは「運動の数」の表象であり、相対性理論が導く時間のズレ、遅延といったものも、厳密には運動の遅延ということである。
実際に、上記のスカイツリーでの実験結果は、高低差のある場合に時間のズレがあることを証明したわけだが、時間を何で計測しているかというと、もっとも正確とされる精度の高い原子時計である。異なった場所による時間のズレは、原始の振動数の違いといえるわけである。
変化しているものは、時間という実体ではなく、「1秒と定義された振動数」なのであり、運動、出来事の変化に、ズレが生じているのだといえる。それゆえ、やはり相対性理論から、時間の実在が導かれるかというと、そうではないということがわかる。
ではやはり、時間とは量子力学やあるいはアリストテレスが示すように、実体のないもので、人間が感覚するものなのであろうか。たとえば、カントは、時間と空間をわれわれが感性においてアプリオリ(先験性、経験によらず私たちの内部に最初から備わっているもの)にもっている直感的形式だと捉えていた。平たくいうと、時間とは、私たちが外界を認識するためにすでに自らのうちに備えている「枠組み」であり、私たちの意識にしか存在しないものであるということだ。
ニュートンはなんのためらいもなく絶対時間、絶対空間のようなものを仮定したわけだが、カントはそれらは感性によるものとし、実在(物自体)とはしなかったことに深い洞察がある。
時間論で有名なフランスの哲学者、ベルクソンにおいても、時間はニュートンの量的時間に対し、質的時間、すなわち主観による時間と考えられている。意識の中に現れる感情や記憶がお互いに溶け合って流れていくような主観的な時間を、ベルクソンは「持続」と呼び、過去→現在→未来という一方向に、一定のスピードで進んでいくという客観的な時間の考え方を否定した。過去や未来が溶け合い、流れ込んでくるような、「私だけの時間」。つまり、主観的な時間を生きているのがベルクソンの主張である(参照『わかりやすく解説!ベルクソンの思想』)。
ちなみにベルクソンはアインシュタインと同時代人であり、「相対性理論」をめぐってのアインシュタインとベルクソンによる論争が有名である。
さて、ここでようやくわが哲学者スピノザの登場である。しかし、ここまででだいぶ「時間」を要してしまったので、スピノザの時間論についてはまた改めて後編にて詳細を述べたいと思う。ここではさらっと、概要的なものに触れておきたい。
スピノザにおいては二つの時間の考え方がある。ひとつは「永遠」において捉えられる時間軸であり、いまひとつは「持続」において捉えられる時間である。スピノザにおける時間は、永遠と持続という二つのアスペクトがある。それらは、異なる領域のものではなく、いずれも「現実存在」にかかわるものである。
あらかじめ言葉の定義を確認しておくと、「永遠」とは、神の本質とされ、存在そのもののことである(『エチカ』第一部定義八)。この場合の存在とは、永遠の定義から必然的に考えられる存在のことであり、神のことである。そして神とは「現実存在」そのものなのだが、私たち人間個物の存在とイコールではないことに注意されたい。このような永遠なる存在は、「持続や時間」によっては説明のできないものである。
では「持続」とは何かというと、私たち個物に与えられている定義であり、「存在の無際限な継続」を持続とよぶ(『エチカ』第二部定義五)。「無際限な」とは、無限ではないことを意味する。無限は神にかかわるが、無際限は有限なる存在にかかわる言葉であり、スピノザはこれらを明確に使い分けている。よって、この「持続」とは有限なる存在、私たち人間、有限とみなされる個物にかかわるものである。
ここで私が作成した、スピノザにおける神と世界の関係性をあらわした見取り図を示しておこうと思う。
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「永遠は実体の現実存在に固有の説明である。これに対し持続は様態の現実存在に固有の説明である」というのは、イツァーク・メラメドによる整理である。
次回、後編にてこの見取り図も参照しながら、スピノザの「永遠」と「持続」の時間の説明を試みる。そのうえで、ここまで紹介してきた現代物理学や哲学者らによる時間の考え方との類似や差異についてを素描してみたい。
つづく