教育現場における認識の違いを考える

 教育現場において話が噛み合わないことはよくあることである。それは致し方ないのだが、まずは「ズレ」ることがあることに対する共通の認識は持っておいた方が良い。ズレていることに気づかずに対話を続けることはとても生産性が低くなってしまうからです。

 もちろんこれまでも言ってきたように生産性の高低だけが対話の意味ではない。しかし「結論を求める会議」であるのか、「理解を深めるための対話」なのかが話し始める前に合意しておくことはとても重要であると思う。それは議論が煮詰まり始めてからやっと登場して「今話しているのは事実なのか?想いなのか?」と仲裁に入っている悦にいる訳知り顔の人間に共通する手遅れ感を見ていつも思うことだからである。話し合いがここまできてしまった場合はもはや結論に至るのではなく、お互いを理解する対話に移行する方が良いのだが、(管理職を目指すような)ちょっと考えの足りない人間は事此処に至ってもまだ自分の一言で結論が決定できると思ってしまうのだろう。
 さりとて事前に決めたとしても、成員全員が守れるとも限らないし守るとも限らないわけであるのだけれども。

 そうした経緯を辿ることは致し方ない前提で、そうであっても労働の中でコミュニケーションを断ち切ることが不可能な種類の労働のことをコミュニケーション労働という分類をしたのは神戸大の二宮厚美さんだったと記憶しているが残念ながらこの概念はほとんど一般化することはなかった。
 そういう意味で何かを生産するわけでも販売するわけでもない教育・保育にまつわる仕事はコミュニケーション労働の最たるものということになるわけです。そしてその中でも学校教育現場の労働というのはその全般を俯瞰すればコミュニケーション労働の中でも認識のズレを埋めることを社会的な職責として内包しているのではないかと思います。
 ネーミングセンスの著しく欠如している人間としてこうした労働形態をどう名づけるべきか迷いますが、差し当たって「成員の認識のズレを埋める努力をしなければならない労働」としておきたいと思います。長いよ。英語でカッコよく言えばフィルイン ザ ギャップ労働ということになるのかな?それでも長いけど。
 少なくともそうした認識の違いを少しでも埋めていかないことには、学級経営も学校経営もうまくいかないということについて感覚的に一定のご理解が得られるのではないかと思います。中の人であれば。
 しかしこのことをきちんと言語化してわかりやすく説明されているものに出逢ったことがない気がするのです。そういえば私もしたことがない。クレーマーとは何かを考えるときに少しそういう行き違いについて触れることはあってもそれだけに着目して説明したことはないように記憶しています。(最近この記憶は頓に当てにならないのですが・・・)
 ということでまずは私の考える学校現場の認識の違いの種類を少し詳しく書いてみるようにしてみます。

成員による認識の違い

 これは明確な区分として認識が違うことを指しています。
 学校は教職員、子ども、保護者、学校管理職、地域の役職持ち、教育委員会という成員がその位置によって認識を異をすることを理解しておかなければならないということになります。
 これは実はそんなに当たり前の理解ではなくて、中には教職員であっても子どもの認識は自分と全く同じ認識になっていると思っている人もいるんです。あまり年齢や経験に関係なく。
 私のように赤くて丸いりんごを見ていても、それをりんごと認識している自分すらも疑う人間からすればにわかには信じ難いことです。保護者と話しているうちにだんだんと気づいていくのかもしれません。あれっ、その事実に対してそういった認識をするんですねという違和感を抱くということはこれまで数限りなくありました。そもそも話が通じ合っていると考えていた保護者でもいきなりそういうことがあるので途中からあまり深入りして信頼しすぎないようにするようにしてました。
 これはもちろん担任と子どもでもズレていることもよくあります。それを教科担任として受け止めなければならないこともありました。なかなか面倒でしたけど、今の私のクラスでも起こっているでしょうね。それが悪いということではない。ズレていることに気が付かずに配慮しない場合とズレていると思いながらそれでも自分の指導を続ける場合では、その教育の営みにおける覚悟が全く違ってきます。少なくとも勢いだけで突っ走ってしまったということは避けられるハズです。しっかり準備をして最悪のことを想定して実践していれば失敗した時の対処も変わってきます。
 そうではないクラスの後始末を何度かしたことがありますが、誰のせいでもないのに解決がこんなに難しいのはなぜなんだろう?ということに回帰します。後から考えてもズレているという前提の設定が重要だと感じる瞬間です。

 これは教職員と管理職、管理職と教育委員会でもフツーにあります。そもそも同じ認識であるという発想自体がファンタジーすぎるということです。たまに完全に学校管理職に騙されている教員を見ることがあります。学校管理職と保護者の間でもズレているのを見ると保護者のバイアスにデキる教職員を見るキラキラが映っていることがあって辟易とします。まぁそれで学校が円滑に回ればそれでいいかと諦めるんですが、基本的に管理職の側に混ざって特別感を求める保護者というのは私はあまり好みません。これも認識のズレが生み出す弊害の一種だと思います。

立場による認識の違い

 同じ成員の区分であってもその中には立場の違いが存在します。ムラであったり、派閥であったりするわけです。同じ子どもでも男子と女子という逃れ難い立場が存在してしまうわけです。(私が年嵩の女性教師と決定的に合わないのもそうした立場なんでしょう。)これだけ教育の中で男の子とか女の子とかいっちゃダメなんだよと言っていても実際にはその考えに縛られてしまっている発言が口を突いて出るところに子どもらしさを感じます。
 同じ立場にいる平等な成員であると規定されていても、そこにはかなり流動的な感覚によって認識が異なっているということがあります。かなり似通った、そして文化としての側面を持っている場合が多いので経験則やアナロジーで対応できる面も多くあります。
 
 特に子どもをグループ分けして語ることに長けている教員という立場から言えば、やんちゃ・普通・内気などという単純な分け方を男女で行えば大体の認識の感覚やズレをクラスルーム内で予測することはできると思います。
 至極当たり前ですが、子どもの場合ある日突然これを変更することや変わっちゃうこともあってびっくりすることがあります。何日か前から変わっているのに気づかないままでいて対応を誤ることもあって、よく観察しておかなきゃダメだと反省させられることが今でもあります。その観察をきちんとしておけば良い方向に変わってくることも見えてくるので嬉しくなってしまうこともあります。
 しかしこれが子ども同士のトラブルになってしまう時はなかなか厄介です。認識の違いを一般論で諭すことは誤解を生む元になってしまうからです。そのグループにはそのグループなりのロジックや決まりがあってそれを一括りに否定することでは問題が根本的に解決しないことが多いからです。しかもこの認識のズレに保護者が絡んでくる場合にはさらにややこしくなってしまいます。子どもと保護者で認識がズレていることも間々あるからです。もちろんこちらとしてはどの認識であっても対応できるように話し合いをコントロールしていくのですがここで重要なことは認識そのものを否定することはやらないということです。
 認識を持つことが悪いのではなく、認識がズレたことで他者との間で問題が起こったということなのです。

感覚の違いによる認識の違い

 これは最早どう転ぶかわからないヤツです。つまりこれまでの認識は大体の類推はできていたけれど最終的に感覚や感情を認識の下敷きにされてしまうと話を進めるための基礎としての一定の共通ラインを作ることすら不可能になってしまいます。
 困ったことに職員会議でこれを振り回す教職員や管理職がいるんですよね。しかも基本的に教育委員会の通達はこればかりになっています。それがたとえ文科省通知の伝達であったとしてそこに都道府県や市区町村の思惑が加わってしまっているのでどこまでは正しい作文的な通達で何を読み間違っているか?何を理解し損なっているか?自分たちの思いの丈を勝手に付け加えているか?がよくわからないのです。これを真面目に受け止める現場もあれば忙しさにかまけて無視する現場もあるので今の所中立的に機能しているわけですが、これは100%まともに受け止めたら大変なことになります。
 もちろんこれは保護者や地域住民がクレーマーになる場合にもよく起こることです。

 この場合はズレてしまっていることが一目でわかる状態なので流石に教職員が気が付かないことはないと思うし、子どものトラブルに対してもその認識の仕方には問題があるんじゃないかという指導をすることはそう矛盾した行為にはなりにくいです。しかし絶対そうならないとも限らない。最近そういうクレーマー気質を備えた子どもというのも珍しくない。どこかの報道で「殴ってみろ」と煽られた教員が殴っちゃったというのを見たときは同情しかありませんでした。

こうしたズレ漫才に対応するために

 まずは教育現場というのは、みんなでズレてしまうもんだという開き直りにも似たマインドセットを持つことが重要だと思います。少なくともこうした合意ができて赦しのある学年集団というのはやはり強いです。あんまり強すぎると他学年を攻撃し始めるんで歓迎できませんけれども。
 その上でそのズレを丁寧に言語化する必要があると思います。そのズレを成員に丹念に説明して納得してもらうためには言語化は欠かせないからです。もし自分で言語化できない場合は誰かに話してうまく言語化してもらうのもいいと思います。しかし説明はやはり担任が行うのが良い。信頼感を持ってもらうためにも保護者に一番近しい人間が語りかける方がいいと思うからです。一度納得した人間というのは少し考えを改める傾向にあります。これを一度小学校で経験しておくことは保護者にとっても今後の子育ての障害物に対応しやすくなる財産になると思います。
 こうしてズレに対して理解と言語化を含めた対応をしておくことはその教師のこれからのコミュニケーション労働に従事する上でのズレを埋めるという手法による対応をしやすくすると思います。そうしたことに対するウデを持っておくことは仕事の中に余白と余裕を持たせることができるからです。

 書きながらコミュニケーション労働という懐かしい言葉を思い出しました。これを一歩進めて認識のズレを埋める労働として教育を押さえることはなかなか現代的な課題なのかもしれないなぁと思いながら論を進めてみました。書き足りないけど、いかがでしょうか?

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