ただただ授業がうまいだけの教師と子どもを変える教師の違い
授業がうまいだけの教師は定式化した教え方をする若手と質的には違いがないと思います。
授業がうまいだけで十分スゴいのですがそこには子どもを変える力はない。ただの度合いの違いです。質的にはずいぶん低いということです。なぜだか授業(の見栄え)はうまいのに子どもは育っていない。そのクラスでは専科としても授業をしたいと思わないんです。
クラスルームとしてやさしくない、固定グルーピング、見せかけだけの助け合いをする、マウンティングする・・・つまりお行儀が良くないのです。それは附属学校にありがちの子ども像そのものです。言っちゃ悪いけれども。無理してお受験した子どもには、子どもとしての余白が少なくならざるを得ない。その判断をしたのは保護者に他なりません。本当に賢い子というのはいますが、作られた天才というのは地頭が良くないので無理している事が丸出しになってしまいます。それは行儀の悪さに出てしまいます。そんなに成績と相関するとも思えませんけど、公立小学校くらいでは結局真面目な人が賢くなっちゃうのは致し方ないので相関しているように見えてしまいます。
ことわっておきますが、授業がうまいだけの教師が(付属の子どもも同様に)悪いとは言っていない。そういう教員がいると学校経営はずいぶん助かる。(作られた天才も)ただしです。そういう教師のやり方が校内や若手に広がるのはとても困る。(そういう子どもを周りが真似するのも同じように困りものです。)教育的な連続性で平坦なものになりがちだからです。そうした平坦なところで育つ子どもというのはレジリエンスがしぼんでいきがちです。単純に言えば鍛えられていない。ソーシャルワークの悪い面のように外部の責任に、外部の責任へと、エンジョイベースボールのように、頑張らない正義を主張するだけでなんとかなると勘違いしてしまう主体を作っていくのです。
そうした人間は研究担当になりがちですが、頑張る方向性というのが決定的に優しくない。配慮が足りない。押し付けにしかなっていないことに気がつかない。そして決定的なのは、地頭が悪いこうした人間のロジックには理解不能な言葉が混じっている事が多い。
手塚治虫さんのブラックジャックにこれと似たような示唆に富んだお話があります。ある病院の院長選挙に二人の候補者が出ました。お金集めがうまい人とテレビや出版で有名な人です。
もはやどっかでよく聞く話ですが今の日本人はまだ50年前の手塚治虫さんの指摘した猿山のような滑稽さを修正すらできていないんです。明らかに。
その病院の近くでたまたまブラックジャックは、その病院に長くいるけど目立たない凄腕の医師に出会います。そして聞くんです。院長選挙に出ないのか?と。しかしその目立たない医師はこういうんです。そういうのはあの人達に任せておけばいいんです、と。心の底からそう言うんですよね。ルサンチマンってなんなんだろうと思います。家に帰ってあと奥さんにも院長を目指さないことを伝え「ちょっと淋しいわね」といわれるシーンがだいぶ(私と重なって)哀愁を誘います。
お察しの通りこのあと、二人の調子に乗った候補者は悪事がバレて撤退し、みんなが右往左往する中で、やっと周りの人間はその目立たない医者(本当にメダタナイという名前なんです。さすが手塚先生清々しいまでのベタだなぁ)の存在に気づくというオチです。
日本人の悪い美徳と言われがちな謙虚さというのは、きちんと評価されるべきだと思います。主体性が悪目立ちと同一視されることは実は学級経営を著しく難しくします。
というか悪目立ちと引っ込み思案が同じように評価されているというか、どの子も大事にされているのならそれはあまり問題にはなりません。そうした柔軟な対応ができる教員なら子どもを変える障害が極めて少ないからです。
例えば麹町中学校長の工藤さんが苫野一徳さんと対話した中で多数決を選択しないという話をしているのですが、これは多数決とも哲学とも関係のない話ではないかと思います。
多数決が論破することを指すというのは経験則でも正しいとは思えません。しかも哲学的には多数決がその命題に上がったということも聞いた事がありません。そして知識も経験も乏しい小学生を相手にする場合それが正しいか正しくないか以前に簡便でわかりやすく(たとえ厳密に言えば間違っているとしても)限定的な枠組みの中で枠組みの話をしてその場を収めるやり方をした方が良い事があるはずなんです。
この場合彼らのような教育的な選択をすることは必ずしもどのクラスにも合うとは限りません。そしてそうして子どもたちの間に残した「残骸」というのが翌年以降に悪い方向に作用(悪目立ち)する可能性も大いにあります。方法論として固定することと教育内容として固定することではその効果は全く別のこととして現れるからです。毎年担任のウデが右肩上がりに上がっていくことが保証されているのならそうした悪目立ちがあってもクリアできるぐらいの担任にとっての低い段差に過ぎないのですが、固定的な手法と固定的な感情でしか教授できない教師というのは半分近くはいるのではないかというのが個人的な感覚です。
教育というのは一年かぎりで終わる営みを指しません。教師にとってはそうであっても子どもと保護者にとってはたった一つの一生モノです。出会いというけれど出会うことが重要なのではなく、その1年間の中にどういう変化を経験できるかということが大事なんだと思います。
変わることを経験するためには他者の「変わっている加減」に触れて我が事として受けれていく手法もあるけれどそれより子ども自身が変わったしまった方がよりわかりやすく我がこととしやすい。それが子どもを変える事ができる、変わっていても対応できる空間をプロデュースできる、教員なのだろうということです。
これは校長や専科でない方が良い。それは空間を操る人間としての深さと近さの問題です。担任というのはその時間の量と質を兼ね備えやすいということになります。年齢や経験年数、属性に関係なく。
そしてこうした担任が多くいる学校というのは(そうした変化がうまくいっていないくても取り組む姿勢として存在していればたとえうまくいっていなくても)それだけで長期的に安定します。特に小学校は6年間という長丁場です。カルチャーとしてこうした変わることへの志向を持った集団性に傾くということがただ授業の上手い人を配することとは話が違うということです。単純に。
塾ではないのだから、学校教育は人格の完成を目指さなければならない。それは失敗の経験であったとしてもレジリエンスの獲得としては残るはずです。障害物を全てどけられて進む人生に価値があるのかということです。ただただ授業の上手い教師に出会うことは全く障害物のない学びを漫然と進むことになりかねない危険性があるのではないか?
そういう意味でこの両者の教師は対立関係にあるのではないかなと思うのです。必ずしも授業が下手な方がいいとは言わないけれど、内容よりも手段よりも生徒指導の視点を盛り込むことにバランスの一端を振った方が良いということです。
もちろん授業をするだけで子どもを変えられるならそんなに効率の良いことはないのですけれどもね・・・。