研究授業が実際校内において何をうみだすかという予想
まだ終わっていない研究授業において何がうみだされるだろうという予想です。
そして考察です。
これはあまり見ないタイプの思考であることに気がつきました。反省することはあるけどそれは事後の事実を使って考えることです。意識無意識を考えなくても、結果的な後出しジャンケンであることを認める人間というのは基本的にはいませんので。
とりあえず事前として思いつくことを書き留めておきます。不安な予想が外れるのは喜ばしいことですし、それにも意味があると思います。事前に言語化しておけばという意味で。
指導案から察するに対話を探求する授業です。
基本的に国語として「読みの正解」を提示することはしない。そういうタイプの授業です。このタイプの研究授業というのは異論反論で溢れて物議を醸します。いわゆる良いか悪いか?好きか嫌いか?の話に終始するということです。
また、(出発点・中継点・目的地というようなイメージで)規定することに対して着目する筋というのも存在します。これはおそらく中学高校の教員がよくやる「国語教育」理解だと私は解釈しています。もちろん一括りにするわけにはいかないけれどもそういう傾向が強いのはないかという意味です。国語には正解がないのにそれをさも正解であるように書いた「正解本」という名の本があるのですが、それをそのまんまやることを正義とする教員というのが存在します。まさか中高の教員にそうしたことをする教員はそういないと思います。それは良い意味でも悪い意味でも。それは小学校教員の特権(?)だからです。そりゃ5種類も6種類も授業しなきゃいけないというのはそういうことです。しかも教師になった初日にそれをいきなりしなきゃいけないというのもかなり過酷な話です。そうした教育は大学では全く行われていない。しかも採用試験でもそうした部分はあまり見られていないのに。そうした傾向のまま退職まで突っ走るしかない教員というのは小学校には存在します。それが良いとか悪いとかいうのは子どもにはあまり関係がありません。小学校段階でどういう「方法」の国語教育を施したから「国語的な知識」が上下するかということにはエビデンスのある証明はほとんどないからです。それは一般的にどういう国語教育するかというより、その学習集団や個人にどうフィットするかという話の方が重要だからです。公文的な学習が合う学習集団や個人というのも存在するわけで、そこに対して(たとえば)筑波式や京女式(附属学校の研究エッセンス)の国語教育の真髄を叩き込んでも全く意味はないのです。学習効果は最低になると思います。しかしそのエッセンスを小学校教育も取り入れようとする勉強熱心(皮肉です)な筋もどの学校にもいます。そうした教員は中高の教員がやりがちなテクニカルな独自(おそらく国語教育に注力した結果到達した境地ともいうべき個人的経験)な読みの技法の一部分を固定的な地点として採用していることが多い。これは好きか嫌いか並みに国語教育の研究授業では現れる論点だと思っています。
それますがこの間、学校教員だけが集まる研究会に参加した教員と話をしていて教えてもらったのですが、とある不祥事まみれの教育委員会の指導主事が指導助言者としてコメントした時の話だそうです。内容はよく把握していないのだけれどもそのコメント自体を聞いた時こりゃダメだと思いました。その学習で考えられている主題が学習指導要領に書いてあるかないかの話を最初にやってしまったそうなんです。それを最初に言うセンスの無さにも辟易としますけれども、それ以前に学習指導要領の解釈を授業研究に持ち出しちゃダメでしょと言うのはもはや不文律だと思うからです。個人的な感想ですけど。それはそもそも指摘する点ではない。さらに個人の文章解釈レベルのもんを他者にぶつけるなんておよそ大人の議論の作法として相応しくない。マウント取りたい子どもがやるようなもんです。建設的議論をする気がない。
この話と同じようにその一般化した(ような)国語教育の読みのテクニカルな規定点の存在というのがそんなに意味のあるものなのかどうかは私にとっては非常に疑問なんです。確かにテクニカルに読めば目的地に到達する可能性は高まるし、より多くの人間が到達するようになると思います。しかしその読みというのはテストの正答、ひいては大学合格というのにつながっているだけの代物です。
ここで批判しているのはそういう指導をする人たちではなくそれを重視している文科省なのですけれど。(おそらく文科省はそんなことを言っていないといいうだろうし、文科省を擁護する大学教員も伝言ゲームと言って擁護するだろうけれども。本当にそれを否定するなら全国学テを廃止してPISAに参加しないという示し方があるはずです。)
非常に単純に言えば、その読み方を習得することで本当に世界に伍するような論文が書けて、研究発表ができるのか?ものすごく疑問だということです。それは中高の教員の読解力や大学教員の研究力を見ていてもよくわかります。この規定についてはまたいずれ。ちなみに私は国語教育にそう興味もなければ知識もないです。ただ(日本の)国語教育が一番やりにくいだけの話です。
遠回りしましたが、さて本題。
研究授業の事前予想と着目したいところ。
そうした意味で私が着目したいのはそうした規定ではなく、まず集団とマッチしているかということを参観したいなぁと思います。授業の成果と生徒指導としての子どもの力量形成が図られているかどうかです。
つぎにクラスとして合意がはかられている方が望ましいので子どもたちの中で授業内容と学習して獲得されようとする力のバランスがとれているか?ということです。視点としては子どもの側の感覚としてそれが実感されているかどうかを見たいと思います。
さらにその実践が学校の研究・研修の駆動力になるか?どうすればなるのか?ということです。
おそらくですが先ほど述べたような視点で議論されると思いますが、まずはズレていたとしても議論が起こるかどうかが大事です。そもそも議論にもならない研究授業というのはよくあります。研究指定校の授業発表の場合は文句を言われたくないので議論はしないというものの方が多い。つまり展覧会です。それでは全く意味がない。対話対話と言いながら対話しないのです。それは大学教員を含めた助言者の知識技能不足があるだけなのですが。
その上でその議論がより良いものを作っていくための材料になればなお良いということです。そうなれれば理想です。それは材料ができるだけでなくその話自体が構成員の「心に火を灯す」からです。私の嫌いな言葉です。それは結果論であって最初から狙うことはマインドコントロールか灯すハラスメントに過ぎないからです。それが生まれれば「広がり」になるんですけれども。
研究授業が全体の研究に対してどう「主体的に」つながっていくかというのは見どころです。とかく研究授業は品評会であり、教育技術のつまみ食いの場になりがちです。学校に評論家はいらないし、パクリ屋も必要ない。評論してから自分を変えていく、パクってそれをより良いものにしていくならまだしも(特に老害は)評論して終わり、パクって(うまくいかないからやめて)終わりということのオンパレードだからです。
最後に研究が形となるとはどういうことか?(校内)研修とはなにか?ということが明示もしくは顕在化されるか?ということを見たい。それは個人のマインドではなく(わざわざ)集まりをしてからの会として運営がどうなるかという話です。
というのも自分の理解不足や力量不足をさておいて、会の運営方法にだけ「悪」の根源を求めるというのはよくある構図だからです。全員の協力とうまくいかせようという欲求なくして会というのは形にならないと思います。それが校内研修という場で実現しないようでは、知識以前に学習集団として成立していないということになります。子どもに対しては抑圧して成立させているのかもしれませんが、大人の場合はそうもいかないということを
とりわけ会の運営に文句を言う人間が理解すべきなんだろうということです。
これらは研究授業事後の出来事も含めてそうした止揚がみられるかということでもあります。よくある「終わった終わった」にならないためにという意味です。
しかし予想としては教員とその集まりが止揚することはかなり難しいと思います。
さほど教員という人間の問題、そして教員を続けているうちに染み付いてしまうこと、というのは剥がしにくいということです。アンモニアが石化するように。
子どもの学びの面から見ても困難が多いと予想します。
子どもというのは、個別の欲求が強い。特に今はやりたくないに対して指導するという視点が小学校教員からスルッと抜け落ちている。それをいわないことが正しいみたいなことを堂々と書いているマニュアル本も存在しています。それを生徒指導上の、集団づくり上の、視点をしっかり踏まえてやりきるということは非常に困難です。保護者と子どもとの摩擦もいとわない勇気とそれをうまくすり抜ける人間性という非常にむちゃくちゃな力量を持ってなくてはならないからです。これは長く教師をやった人間には感覚的にわかる話です。長いものにはまかれるが、絞めるところは絞めるというのはバランス的に難しいということです。
この授業は取り組みとしてそうしたことをきちんと内包している難しい授業です。やりきることをクラス全員に強制しています。そうした昭和な授業が今どう子どもに作用するかは興味深いところです。良い悪いの話ではない。主体的ということはそういうことを含んでいる。対話的ということも同様。それを実践上やりきることがどういうことか文科省はもう少し理解した方が良い。
事前に考えたことはこんなもんです。それは中身がどうかとか文言がどうかという話ではないということがもしうちの学校の教員に理解できると研修も変わるんではないかということです。授業というのはメタな視点で「見て語る」方が良いのではないかと思う所以です。事後の反省は授業が終わってからゆっくりすることにします。