全校的な取り組みとして研究指定校化するのはやはり勘弁してほしい

 教職員はそんな学校で働きたいと思うのだろうか?
これを止めるだけで随分働き方改革になると思う。そう、とある研究指定校の実践を見ていて思った。それをICT関連だったのだが指導助言の大学教員の論点もどうなんだろうと思った。
 「とにかくやってみよう。これがチャレンジだ。」そうとしか解釈できない話だった。もちろん自分が知っている知識を披瀝してお前知らないだろうマウントを取りながら話を進めるという常道が本筋であったんですが・・・ルソー研究を例にとって、とにかく専門領域を考慮せず総がかりで研究を「やってみる」ことの大切さを説明していました。根本に能力や技能の話があると思うんですがそれは完全無視です。教育の営みというのは何にも増して結果重視。綿毛方式の効果を考慮しているのかもしれませんが、学校組織の改変というのはさほど簡単な話でもありません。それは授業の研究対象がICTに偏っているなら尚更です。これまで私は何度もこうした広がりの壁にぶつかってきました。GIGA以前の30年間の情報教育の普及に関わった経験からです。
 さればこそ

 せっかく一人一台があるんだから、「とにかくやってみる。」

 この掛け声がいかに空虚なものかをそろそろ理解すべきだと思います。されどこの考えを大きく否定する気はない。これまで私も使ってきたし。一人一台を活用するしか道がないだろうということもわからなくもない。
 しかしこの考えが教職員に浸透することがないことは痛いほど実感している。それはおそらく第2期になっても変わらない。いかにデータからICT活用の高い学校は学力が高いなどという結果を導き出してもそれを鵜呑みにするほど、国民のそして教職員の情報リテラシーは低くはないということです。
 そもそもなかなか学力とICT利用の相関に言及しにくくなってきたのか、その研究指定校では学力学習状況調査のアンケートでICTを活用しているかどうかの調査結果が非常に高いという結果を持ち出していました。そりゃ使えば使っている感覚が高くなるに決まっているでしょう。問題は有限な授業時間の中で、それによって何を捨ててきているかということです。
 それを明らかにして正直に語らなければ合意が得られにくいと思います。それを隠蔽したままICTだけの効能を語るのは怪しさが漂うからです。どうあっても。
 しかも援護射撃として教育先進国と思われているノルウェーなどでタブレットからノート回帰の動きが見られるというような話も出てきているようです。未確認情報ですが・・・。目が悪くなる、識字能力に影響がある、モラルの問題や学習外使用のこと、スキル獲得や指導上の課題などなど30年前からICTに関わるある種の攻撃はパターン化しています。

 これまでも何度も述べてきましたが、GIGAは普及してほしいけれど教職員に普及させることが難しいんだよということを前提に研究を進める必要があるということです。山ほどいる情報教育関係の研究者は、いつ見てもここに飽きてしまっているように見えます。同じ攻撃をされて辟易とする気持ちはわからないでもない。しかしここに正対しない限りは多分今以上の広がりはありません。大学教員や学校管理職、もしくは転職して起業人になりたいICT得意な人間がやっている実践頼みでは現実味に欠けます。それは教育ではなく、職業訓練だからです。
 そんなもんが元で、特に初等教育において広がるわけがない。その取り組み自体が異次元の出来事だからです。そもそもそんな実践に対して憧れが生まれるわけがありません。ICTが使える、いわゆるスキルの高い子どもを作ることはそう難しいことではない。それなら私にもできます。しかしそれが教職員への広がりにはつながらないことは私が一番よくわかっている。

 その疑問を投げかけました。今日の授業GIGAを使う必要があったのか?案の定またか?という顔をされました。違う趣旨の返答が始まったのであわてて訂正。というかそもそもこんな研究指定校に来るような人間がそんな質問するかよということくらい理解してほしい。しかし後でその理由に思い至って反省します。
 今日の授業でGIGAの効果的な使用はきちんと考慮したのか?これは広がりにとっては重要な視点です。突っ込みどころは他にもいくつかあったんです。書き込むだけにアプリを三種類使っていたこととか、45分間ずーっとタブレットと向き合い詰めだったこととか、妙にルールが行き届きすぎていて自由度が低いこととか。ただそれは運用次第でなんとでもなることです。私個人的には解決できます。
 ただこの問うた課題はICT活用の本筋です。いつまでも「やってみよー」「やることに意味がある」「やっているうちに身に付く」では弱いです。というか意味がない。そのうちノート回帰論に負けてしまうからです。それはゲーム文化、スマホ社会、特別支援教育などの関係性が強く作用していると考えます。それと大学教員の間にシビアさに欠ける実践への励ましがあります。褒めてさえいれば現場は実践を続けてくれるというのは大きな勘違いです。彼ら彼女らは教育における嘘褒めの逆効果について理解していない。良いとも思ってないことを褒め続けてもいずれバレてしまうということです。それに気づいたとき人間はその先生を精神的に捨て去ります。そもそも教員には大学教員アレルギーの強い人間がいます。私もその一種かもしれません。自分ではちがうと思っているのですが。

 それましたが、大学教員と管理職は、とにかくやることの意義ばかり応えました。根性論丸出しです。嫌いじゃないんですが、それしか話せないんでしょう。その程度の知識と経験しかないということです。しかし授業者はもう少し丁寧に応えてくれました。感謝。
 そこで、はたと気が付いたわけです。この人たちは無理やりICTに「置き換える」ことを強要されているのではないか?それが先ほどの反省です。チームという言葉で隠蔽は隠蔽されていましたが。このチームという名の時間的・実践的・労働的な強要は今の学校において常套手段であります。居心地の悪さをゆるさないチームワークの強要はなかなか苛烈です。ここまで心理的安全性と同様に真逆の効果を示す効果を現場で示現する言葉というのは実はただの学校あるあるです。
 問題は置き換えるです。無理して置き換えている授業者を哀れに思いました。しかし問題は置き換えるです。大事なことなので二回言いました。
 セイマーモデルの悪弊です。これは使い方の誤解だということですが、この作りではそう使われても致し方ない。二重に置き換えを強要する要素を持っているからです。このモデルの悪いところは「置き換えることがICTの普及の第1歩」と捉えられかねない危険性を考慮していないところです。これは順序ロジックの弊害としては一般的なことだと思います。もう一つもそれに近いのですが「置き換えればもうすぐ次のステップに進める」という根拠のない論理立てを承認してしまうことにあります。勘違いも甚だしいのですが・・・。
 この学校は何年これを続けてもスキルをたくさん持ったデジタル的な形での学びらしきものができる子どもしか育成できないでしょう。私は少なくともそう思います。しかもそこに辿り着く前に教員と子どもの入れ替わりによってその置き換えすら打ち捨てられていくに違いありません。学校とはそういう場だからです。

 これは研究指定校システムの悪弊そのものです。都道府県単位でHPなどに掲載されている研究結果はどれもすぐに消えてしまうものばかりです。膨大な予算を使っているのに教員は誰も読みません。これに一人、二人分の人件費が費やされていると思うとクラクラします。こんな何の役にも立たないことに人を割いて、担任が足りないと言っている意味がわかりません。
 そして最悪なのはこうした舌先三寸で仕事したようなフリをしている研究指定校での中心的人間が高評価を受けて、教育委員会制度に採用されていくという人事評価制度としての見る目のなさと育成制度としての空虚さを遺憾無く発揮しているという点です。こうしたどーでもいいことを経験して得た糧でその後に教育委員会制度を運営していくんだから現場の邪魔をする教育委員会にしかならなくても致し方ないのか?

 可哀想なのはこんな研究指定校に在籍して管理職と担当教員が栄誉を受けるために授業をチームの名の下に強要される一般の教員たちです。
 本当にやめた方がいいです。研究指定校制度。

 それともう一つ。この研究会から。
 改めて「校内研修」というものの難しさを感じたというのが正直な感想です。これがこの学校の先生たちを幸せにしているのか?学校マネジメントとして適切なのか?大学教員のテキトーな口車に乗せられてすごいことやっているふうに騙されることから、教師としての成長を手渡せるのか?ということです。
 私が自分の学校の教員をみんな、幸せにしたい。それは楽という意味だけではなく達成感としても、人間的な成長としても、メンタル面でも、そしてその先の家族に向けても。子育て中だろうが、1人ものだろうが、シングルだろうが、なんだろうが、です。
 そういう校内研修が業務として、存在する学校がいい学校だと信じるからです。私は学校の主役は教職員だと思っています。教職員が元気なら自動的に子どもや保護者も元気になるからです。元気だというのは意欲的であるということです。子どもがいかに意欲的でも教職員が問題を抱えていては元気になれません。そうした意味での少しシビアなくらい元気な教職員を作るための校内研修というのを常に考えています。うまくいかないけれど。

 今回見たこのICT研修にはその観点は1ミリもありませんでした。苦手だろうが嫌だろうがもっと得意なやり方があろうが、そんなのお構いなしにとにかくやれ!その一言です。ICTの使用方法は一緒に考えてやる。お前らは俺の手柄の礎として華々しく散ってしまえ。少し過激に言えばそういう研修の建て付けではなかったか?そう思うわけです。

 新しくなくてもいいじゃない。見た目が悪くてもいいじゃない。苦手なことがあってもいいじゃない。効果が出なくてもいいじゃない。頑張っている姿を素直に認め合うことで満足するそういう学びの集団をまずは教師集団から作っていくことに価値を見出せない教育委員会制度はもういらない。毎度思うことですが、今回もその思いを強くした次第です。
 歯を食いしばって授業してくれた授業の方ありがとうございました。
 悪いの指導主事と学校管理職とそれらに憧れる研究(しか)担当(しない他の教員に命令するだけの)教員です。まあ一番の被害者は子どもなんですけど・・・


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