秘された神・月読尊の役割⑥ ~月に託した縄文の願い~
月読尊は天照大神・スサノオ尊といった縄文期の3貴神の一人。しかし天照神や、スサノオに比べ、月読尊は神話の世界でもほとんど登場しません。
天照大神、スサノオ尊をご祭神とする神社は全国にそれぞれ1万以上ありますが、月読命をご祭神とする神社はたった85社しかないそうです。
月読尊は縄文の高度な文明を伝える存在でした。今回は『月神』である月読尊が担っていた役割がテーマです。
【神聖なお月さま・月読尊の役割】
+❶縄文期『農耕』神だった月読尊
太古の昔、お月さまは神聖なものでした。当時、満足に明かりが無い時代、農作業の際に月明かりが大きく役立っていました。月が全く出ない夜は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が出現する恐ろしい闇の世界。月は夜空で最も大きく輝く星だったことから、次第に信仰の対象になっていきます。
月の満ち欠けを暦代わりにして農耕を営んでいた縄文人にとって、月は信仰の対象であり、月に寄せる想いは深いものがありました。
植物の成長には太陽の光が大きな役割を果たします。しかし農業や畑作では、植物の成長に、月の満ち欠けが大きな影響を与えたため、月の動きが重要視されました。そのためか、古代人は月を見ながら農業を営んでいたと言います。例えば『種をまくなら満月、苗を植えるなら新月』と・・。
今から数千年以上前、またカレンダーがない時代、月のリズム(周期)を数え、誰もが使えるように分かりやすくしたものが『暦』。海外では太陰暦と知られていますが、日本では月読暦と呼ばれていました。
月のリズム(巡り)をベースにつくられた「暦」を担い、人々に正しく伝える知識を持っていたのが月読尊。縄文期、月読尊は農耕神であり、「月読暦」という時間の神でした。
+❷陰陽師のルーツ?時間を司り、死と再生の水神・月読尊
月は満月、新月、三日月など、規則的に満ち欠けを繰り返します。欠けては再び満ちる月は『再生』を現し、若返りの力をもっているとされます。
月明かりの消えた新月は、古代人にとって『死』であり、逆に月の光が冴えわたる満月は『成就』や『豊穣』を意味しました。
やがて人々は、豊かな実りの象徴として満月を鑑賞し、お供えものをして、収穫の感謝や祈りを捧げる『お月見』の風習を楽しむようになります。今でも十五夜の名月に、月見団子やススキといったお供えものをする習慣は縄文が始まりです。
月の満ち欠けを数えたことから、月読尊は計算や知識の神となり、天文学を司ることとなりました。一説では、寒川神社のご祭神は月読尊ですが、それは寒川神社が天文学を継承し、古くは陰陽師との関わりがあったから。
江戸幕府が倒れ、明治維新が始まったことで、スピリチャル界に激震が走ります。明治政府により、日本各地の陰陽師はその活躍を禁止され、陰陽師という職業は失われていきました。そんな中、寒川神社は、災いを取り除き福を授ける『八方除け』をアピールし、崇敬を集めていきます。
寒川神社のご神徳が『八方除け』となっていったのは、寒川神社が古くから、天文学や陰陽師との関わりがあったことが由来のようです。
奈良時代以降、権力者たちが月読尊を『秘された神』とした後、月読尊の役割だった『天文学』は、安倍氏や賀茂氏といった陰陽師に受け継がれます。はるか昔の月読尊は、陰陽師のルーツに近いものでした。
また月と天候は密接な関係があります。大地に降った雨は、川から海に注がれ、その後、海水は蒸発します。そして雲を集め、雷を響かせ、再び陸地に雨を降らせます。植物には太陽が必要ですが、雨がなければ育ちません。
この雨が降るサイクルを司るのが月。月が「水・雨・植物」を制御していることを、古代人は知っていました。月読尊は農耕神であると同時に、「理(ことわり)」の神でもありました。
+❸夜を護り、心身の健康を司る神・月読尊
月は太陽の陰に隠れて穏やかに夜を照らします。しかし夜は真っ暗で太陽の明かりがありません。漆黒の夜は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)といった、恐ろしい化物が出現する闇の世界。月読尊はそんな夜の静寂を守り、聖域の守護を務めていました。
月は人間の健康ともつながっています。満月の夜に生き物は産卵をする傾向があります。サンゴ、ウミガメ・昆虫は満月の夜に多く産卵(出産)します。人間も満月や新月に出産や死が多いそうです。
満月は、心身の氣が満たされ活性化する時期。逆に新月はため込んだものを手放すのに良いデトックス(解毒)期間。はるか昔、月読尊をまつることは、『人間の命』を宿した月への信仰でした。
〈月読尊が封印された理由とは?〉
古代の人たちにとって月は太陽と同じくらい大切でした。しかし古墳時代の長い戦乱で、月読尊が果たした役割は忘れ去られていきます。
決定的だったのは奈良時代の663年、白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れたこと。白村江の戦いは、日本・ 百済 (くだら) 連合軍と唐・ 新羅( しらぎ) 連合軍との戦い。日本は天智天皇のもと、唐・新羅軍に攻略された百済の救援のために軍を進めますが大敗し、百済は滅亡。 日本は朝鮮半島の足掛かりを失います。その後、朝鮮半島の百済王族は日本に亡命。平安初期の桓武天皇の生母は、百済王族です。
一説では、百済は孝元天皇の子孫が朝鮮半島に渡って建てた国。そのため、百済では日本語が話されていたそうです。
そして日本国内では戦勝国である、唐や新羅の影響力が増していきました。その頃に作られたのが古事記。古事記を編集した太安万侶は漢語に精通し、古事記は漢語でも作られたとあります。
戦いに勝った唐にとって、時間を司り、死と再生の神である月読尊の存在は認められるはずはなく、「月読暦」である日本の『暦』はなかったことにされます。渡来系勢力が影響力を増す中、作成された古事記では、月読尊を始めとした縄文の神々は封印されます。
その後、『暦』は、陰陽師の安倍氏や賀茂氏に受け継がれ、月読尊の名は歴史から消えていきました。
〈現代に受け継がれるお月見 ~月に託した縄文の願い(健康と幸せ)~〉
ラテン語で、月はルナ(LUNA)。英語でルナは”狂気”や”愚かな行い”を意味します。有名な狼男も満月の夜に出現するもの。海外で月はあまり良いイメージではないようです。
しかし縄文人は月を、人間の命を宿すものとして信仰の対象にしていました。十五夜である中秋の名月のお月見は、『五穀豊穣、病気平癒、諸願成就、海上安全〛を祈願します。人々は美しい月を愛でつつ、お供えしたお団子を食べることで、月のパワーをもらって、健康と幸せを願います。
お月見は、太陽が届かない月の夜も、争いを好まず『和』を好んだ縄文の名残り。月読尊や縄文の神々が消えた後も、月への信仰は生活に根づき、お月見という風習となって、時代を下って受け継がれていきます。
秘された神となった月読尊ですが、その直系の「月夜見(ツキヨミ)」王は歴代、富士山王朝の王を務め、それはヤマトタケルとの戦いに敗れるまで続きました。(その後の富士王朝の血脈は、次々回くらいに書く予定です。)
海外で月の夜は太陽の光の届かない世界であり、闇(やみ)の空間。闇は、シャドウ(影)や、ダークネス(邪悪)とされ、少しネガティブな感じです。しかし日本の闇は少し異なっていました。それはお月見に代表される日本の「和」の風習や、夜を神聖なものとしてとらえた縄文の精神観でした。
日本は海外と比べ安全な国。夜も場所によりますが一人で外出できます。それは先人のおかげですが、もしかしたらそれだけじゃなく、今も月読尊が日本を護っているからなのかもしれません。
〈参考文献・サイト〉
本だけでなく、実際に現地に行ったりして調べていますが、わからないことが多いです。だからこそ魅かれる縄文ミステリー!縄文の謎解きははじまったばかりです。(*ᴗˬᴗ)⁾⁾💕ペコリン