縄文エリー

争いを好まなかった縄文人に興味を持つ。古代史と聖地巡りが好き。ちなみに、いのしし年生まれのいて座。そのため直進型で、いのししの子供のうり坊のようにまっすぐ進んでは壁にぶちあたり、コテンと転がり・。でも最近は周囲を見て動くようになりました。人生っていろんなことがある。ツイてます。

縄文エリー

争いを好まなかった縄文人に興味を持つ。古代史と聖地巡りが好き。ちなみに、いのしし年生まれのいて座。そのため直進型で、いのししの子供のうり坊のようにまっすぐ進んでは壁にぶちあたり、コテンと転がり・。でも最近は周囲を見て動くようになりました。人生っていろんなことがある。ツイてます。

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  • 争いを好まなかった縄文人。神代から続く日本人血脈の謎

    縄文は一万5千年前にさかのぼる、最古の文明ですがあまり知られていません。争いを好まなかった縄文人。そんな縄文に魅かれ、古代の謎や日本人のルーツに迫ります。

  • 封印された氏族の謎 ~八咫烏、出雲族、飛騨族、秦氏ほか~

    古代。活躍した八咫烏(賀茂氏)、出雲族、飛騨族の謎について。これら氏族の謎を紐解いていけば、縄文がなぜ滅亡したのか?その理由が見えてくるのかもしれません。ヘブライについても書いています。

  • 縄文シャーマニズム

    縄文時代から続いたやシャーマニズムや自然信仰は時代を経て忘れられたり、変わっていったものがあります。争いを好まなかった縄文人のスピリチャル性や、神道の源流、シャーマニズについて書いていきたいです。

  • 奈良から平安初期に滅亡した古代(縄文?)王国の謎

    日本はコンビニより古墳がたくさんある国。女王(女性首長)の古墳も多かったのですが、5世紀に入ると突然、女王の古墳が失くなります。さらに同時期、出雲族と同族である飛騨王国も滅亡。さらに奈良から平安時代の初期にかけて、いまだ各地にあった古代系王国が、次々にヤマト王権に滅ぼされます。しかし古代の王国の滅亡は、新しい時代の幕開けでした。5世紀から8世紀に滅亡した、古代王国の謎に迫ります。

  • 縄文探訪記~神社仏閣、聖地、日本ピラミッドなど~

    縄文&古代の謎に迫りながら、縄文ゆかりの場所を訪ねる旅。訪れる場所は、神社仏閣、聖地、古代からの縄文ゆかりの場所。そして、日本ピラミッドと呼ばれる、きれいな三角形の山の霊山のハイキングなど。縄文づくしの旅をつづっていきます。

最近の記事

浅草神社と土師氏の関わりは観音から⑬ ~十一面観音の秘密~

明治維新を主導したのは、薩摩藩と長州藩。薩摩藩、長州藩ともに、その始祖は秦氏出自であり、明治維新は秦氏系によって行われました。長州藩主である毛利家の始祖は、秦氏系の土師氏。そして京都に平安京を造営した桓武天皇は、生母が朝鮮半島の百済王族出身でした。 桓武天皇は(母方の)同族だった土師氏を含め、渡来した人々を大切にし、多くの渡来氏族が桓武帝に仕え、平安京で活躍しました。 土師氏の末裔である毛利家が率いた長州藩(山口県)は、明治維新を主導。長州藩出身の藩士たちは、江戸幕府滅亡

    • 秦氏は波多氏から始まった⑬ ~島津家と富士山王朝~ 

      明治維新を主導したのは長州藩と、薩摩藩。 この二つの藩の始祖は、どちらも秦氏の末裔説があります。 長州藩こと毛利藩は、平安期、日本に渡来した秦氏系(土師氏)の末裔。 島津家の始祖・島津忠久は、秦の始皇帝の末裔で『秦氏』出身。 今回は、秦氏の起源である波多氏。そして島津藩との関わりです。 ・秦氏は波多からはじまった。 秦氏ははじめ、波多(ハタ)でした。秦氏は、秦国の滅亡後、日本に渡来。秦氏は日本にもたらしたのは、養蚕、機織の技術。 秦氏は絹織物を朝廷に献上し、重宝されます。

      • 幕末最強組織・薩摩藩は秦氏系?⑫ ~天皇家と島津家~ 

        前回、「長州藩は毛利藩で、毛利の始祖は秦氏だった」と書きました。 明治維新を主導したのは主に長州藩と薩摩藩(薩長連合)。 そして薩摩の藩主・島津家も秦氏説がありました。 薩摩藩の軍事力は群を抜いています。 1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた『関ヶ原の戦い』で、徳川家康率いる「東軍」と、石田三成率いる「西軍」が死闘を繰り広げました。島津家はこの合戦で「西軍」に加勢。 西軍の敗戦が濃くなった際、島津家は、徳川家康の眼の前を正面突破。 赤鬼と恐れられた井伊直政や

        • 明治維新を主導した長州藩は秦氏系⑪ ~フィクサー秦氏~

          前回の続きです。平安期の桓武天皇は母方が(秦氏系の)土師氏出身。 秦氏から経済・土木建築のバックアップを得て、桓武天皇は平安京を造営しました。優れた頭脳を持つ秦氏らは、役人として桓武天皇に仕え、平安京は発展していきます。やがて、桓武天皇は土師氏に二つの苗字を与え、日本に同化させます。それが「菅原」と、「大江」の姓。 桓武天皇が同族である土師氏に与えたのは、菅原(姓)と大江(姓)。 菅原氏からは(現在)学問の神さまとして信仰される菅原道真が登場。 大江姓からは、源頼朝の一番の

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        • 縄文シャーマニズム
          16本
        • 封印された氏族の謎 ~八咫烏、出雲族、飛騨族、秦氏ほか~
          24本
        • 争いを好まなかった縄文人。神代から続く日本人血脈の謎
          51本
        • 奈良から平安初期に滅亡した古代(縄文?)王国の謎
          11本
        • 縄文探訪記~神社仏閣、聖地、日本ピラミッドなど~
          8本

        記事

          秦氏の出自を消していく桓武天皇⑩ ~同化する秦氏たち~

          前回、桓武天皇の生母が朝鮮半島の百済出身で、秦氏系「土師」氏出身だと書きました。桓武天皇が京都に遷都したのも、母方の秦氏らが京都に多く住んでいたのも理由の一つだと言われています。平安京は、経済・技術の両面で秦氏がスポンサーとなって造営。事務能力に長けた沢山の秦氏が役人として桓武帝に仕え、平安京は発展していきました。 平安京造営から約10年後の790年。 (秦氏系)土師氏を母方に持つ桓武天皇は、まるで自らの出自を隠すかのように土師氏に別の姓(名前)を与え、朝廷から土師氏の影を

          秦氏の出自を消していく桓武天皇⑩ ~同化する秦氏たち~

          秦氏のバックアップを受けた桓武天皇⑨  ~平安京とヘブライ~

          フィクサー(黒幕)秦氏の続きです。 今回は平安京をつくった桓武天皇をヘブライ説から読み解きます。 桓武天皇の生母・高野新笠(たかのにいがさ)は朝鮮半島の百済王族出身。奈良時代、百済滅亡後、数万人の百済人が日本に亡命。天智天皇は、亡命してきた百済人をあたたかく迎えます。百済国内では通訳なしに日本語で会話できたと言われ、百済と日本と親密な間柄でした。 桓武天皇も即位後、「百済王等は朕が外戚なり」と発言しています。 Ⅰ 桓武天皇の母方はヘブライ系秦氏? 桓武天皇の生母の家系は

          秦氏のバックアップを受けた桓武天皇⑨  ~平安京とヘブライ~

          神武天皇はヘブライ出身?⑧ ~天孫降臨と秦氏~

          先日、神武天皇の3つの出自説で、ヘブライ説も書きました。 今回はさらにヘブライ説について掘り下げます。 約3000年前、南北ヘブライ王国の滅亡後、ヘブライ人は世界中に散ります。これが離散(ディアスポラ)。 離散した10支(部)族のうち、日本にやってきたのがユダ族。 ユダ(族)がなまって、ハタ・ハダ(秦)氏になったそうです。 諸説ありますが、神武天皇はヘブライのユダ族出身。ユダ族は王位継承権を持ちます。古事記では、神武天皇の名前は神倭伊波礼比古命 (カムヤマトイワレビコノミ

          神武天皇はヘブライ出身?⑧ ~天孫降臨と秦氏~

          神武天皇の3つの出自⑦ ~ヘブライと秦氏~

          はるか昔、日本やってきた秦氏。秦氏の出自は3つの説があります。その中で最も謎に満ちているのが、中近東からやってきた秦氏。彼らはヘブライ王国の末裔であり、失われた10支(部)族と呼ばれた人々でした。 日本では時代が大きく動く時、必ずといっていいほど、秦氏系の人物が出現し、動乱期に突入します。秦氏は縄文の封印とも関わっていました。 約2000年から日本のフィクサー(黒幕)として活躍した秦氏たち。 今回は、秦氏ゆかりとされる神武天皇の3つの出自説。 次回は秦氏と縁の深い桓武天皇の

          神武天皇の3つの出自⑦ ~ヘブライと秦氏~

          縄文のちょっと不思議な話 ~土偶編~

          縄文を調べていると、不思議な出来事に遭遇することがあります。今回は縄文史ではなく、私が体験した少し変わった縄文ゆかりの体験談です。 スピリチャルをほんのちょっと含みますので、苦手な方はどうか読まないでいただけますようお願いします。  ☆◆◇★ 少し前に土偶を購入しました。土偶をつくってくださったのは、東北出身のアーティスト。この方がつくった土偶は、2011年公開の『ルパンの奇岩城』に登場。ほかにも、アメリカの大統領や各国要人に贈られ、今もその(土偶の)一つはアメリカの元大

          縄文のちょっと不思議な話 ~土偶編~

          月読尊と大山津見命はヤタガラスだった?! ~富士山王朝番外編~

          以前、寒川神社のご祭神は月読尊だった!という記事を書きましたが、さらに調べたところ、月読尊と大山津見(オオヤマズミ)命、事代主は八咫烏だった!?という伝承が出てきました。 大山津見命は、日本総鎮守の神さま。八咫烏(ヤタガラス)は神武天皇が熊野を軍略した際、道案内した氏族。 月読尊は月神で、満月・三日月など・・、月の数の分、子孫がたくさんいるそうです。全国に、八王子という地名がありますが、これは月読尊の8人の王子が移り住んだことが地名の由来。 月読尊は別名『大山祗(オオヤマズ

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          秘された神・月読尊の役割⑥ ~月に託した縄文の願い~

          月読尊は天照大神・スサノオ尊といった縄文期の3貴神の一人。しかし天照神や、スサノオに比べ、月読尊は神話の世界でもほとんど登場しません。 天照大神、スサノオ尊をご祭神とする神社は全国にそれぞれ1万以上ありますが、月読命をご祭神とする神社はたった85社しかないそうです。 月読尊は縄文の高度な文明を伝える存在でした。今回は『月神』である月読尊が担っていた役割がテーマです。 【神聖なお月さま・月読尊の役割】+❶縄文期『農耕』神だった月読尊 太古の昔、お月さまは神聖なものでした。当

          秘された神・月読尊の役割⑥ ~月に託した縄文の願い~

          秘された神・月読尊⑤ ~12人の后と暦(こよみ)~

          先日の続きです。太古の昔、富士山麓に存在したとされる富士山王朝。富士王朝の王は、月読尊の直系と伝えられ、歴代の王は代々『月夜見(つきよみ)』の姓を名乗りました。月読尊は天照大神・スサノオ尊といった縄文期の3貴神の一人ですが、神話の世界でも、ほとんど登場しない謎の神。 「月読」という名前から、「月を読む」=「月(や太陽)など、星の運行に精通」した天文学の神さまだったようで、月を司る、または夜を統べる神として崇められ、かつては、月の運行に基づく太陰暦を用いられたことから、月の暦

          秘された神・月読尊⑤ ~12人の后と暦(こよみ)~

          月読尊の子孫は秦氏!?④ ~秦氏の3つの出自~ 

          先日の続きです。寒川神社のご祭神とされる月読尊。 縄文期の神々の中で、天照大神、月読尊、スサノオ尊の3兄弟は有名です。天照は「太陽」を、月読は「月」を、そしてスサノオを「海」を担当したと伝えられます。古事記や日本書記でも、天照大神やスサノオはたくさん登場しますが、月読尊はほとんと登場しない謎の神。 「月読」という名前から、「月を読む」=「月(や太陽)など、星の運行に精通」した天文学の神さまだったようで、月を司る、または夜を統べる神として崇められ、かつては、月の運行に基づく太

          月読尊の子孫は秦氏!?④ ~秦氏の3つの出自~ 

          寒川神社は富士王朝の封印だった?!③ ~太陽国の皇子と月王国の姫の婚姻~

          前回の続きです。全国唯一の八方除の守護神である寒川神社の前身は、数千年前に富士山麓にあった、富士王朝の神社。ですが平安初期、富士山噴火で損壊し、神社の存続が危ぶまれます。そこで噴火の被害が少なかった神奈川県高座郡に移り、寒川神社として姿を変え、現代に受け継がれました。 ・坂上田村将軍による富士王朝の封印と寒川神社 富士山麓の伝承では、平安初期、坂上田村麻呂将軍が、関東と東北地方を、ヤマト王権の領土にするため軍略にきましたが、静岡県あたりで偶然、富士山が大噴火。そこで将軍は

          寒川神社は富士王朝の封印だった?!③ ~太陽国の皇子と月王国の姫の婚姻~

          パワースポット・寒川神社と、謎多きご祭神② ~富士山王朝序編~

          先日の続きです。富士山王朝と寒川神社は密接な関わりがあります。 寒川神社は、神奈川県にある全国で唯一と称される八方除の神社。その霊験は素晴らしく、引っ越しや転職、開業など人生の節目にぜひ訪れたいパワースポット。転居先でトラブルが相次いだ際のご開運!神社として、(方位に起因する悪事災難を除くために)寒川神社でお祓いを受ける人も多く、寒川神社のご祈祷数は年間約30万件に及び、その数は日本一。 明治時代以前は、陰陽師とのつながりもあったようで、神社内には、方徳資料館があり、そこでは

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          古代、神奈川県の大山にやってきた徐福・秦氏① ~富士山王朝序章~

          最近、超古代、富士山のふもとにあったという、富士山文明について調べています。富士山のふもとに高天原(たかまがはら)という王国があり、今から約2300年前、秦(中国)からやってきた方士・徐福(じょふく)が、富士山麓にたどり着き、富士山王朝の一員となったという逸話があります。 徐福は秦の始皇帝から、不老長寿の薬を探し出すよう命令され、見つからなければ(秦に)帰ってきてはならない、と言われ、不老長寿の薬が見つからなかった徐福ら500人一行は、そのまま日本に帰化したそうです。 「方

          古代、神奈川県の大山にやってきた徐福・秦氏① ~富士山王朝序章~