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 今学校教育において「主体的な学び」という言葉がキーワードになっています。従来型の「他者からやらされる勉強」ではなく、学びたい、知識を得たい、できるようになりたいという学習者自身の意欲を根源とするべきであるという考え方です。しかし私は、この「主体的」という言葉には別の意味も内含されていると考えている。それはつまり「自分で考えること」。生成AIなど急速な技術革新の中で様々な社会の変化が迫っている現代。技術に支配されないためには、「一人の人間としての思考」というものが必要になってくるように思うのです。

『「哲学では飯は食えない」は過去のこと 海外の先進企業はなぜ哲学者を雇い始めたのか?』という記事を見つけました。

 記事の中では「哲学すること」の重要性を企業が再認識している現状を紹介。企業として利益をあげるためには、従来の枠組みにとらわれず、新たな企業的価値を想像することが求められていると書かれています。

 思えば、哲学することとはつまり思考をすること。人間の思考にまつわる全てのことに普遍性はなく、だからこそ進化を続けてきました。教育的価値観もまた、人間の思想によって生み出された普遍性のない産物であり、だからこそ、これからの教育を考える上で、教員が「哲学する」ことで、より良い教育の姿を模索する力が求められていると言えるでしょう。

 対して、西洋哲学における「倫理(学)」はそうした意味での倫理も含みますが、むしろ、「自分(たち)は何をよしとするのか」「なぜそう考えるのか」について筋道を立てて追究していく知的な営為です。誰かの教えを無批判に受け入れる道徳訓やガイドラインとは異なり、自ら規範を打ち立て、それに自ら応答していくものなのです。(中略)重要なポイントは、今日、「自分(たち)は何をよしとするのか」「なぜそう考えるのか」について哲学的に考える必要性がさまざまな場面で生じてきているということです。

 という日本初の「哲学コンサルティング会社」を設立した吉田幸司氏の言葉が記事の中で紹介されています。

 教育が変わるこの時だからこそ、私たちは教育を哲学する必要があるのです。

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