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映画『リンダはチキンがたべたい!』に息づく喜劇の伝統:可笑しさの正体について考える


はじめに

 月並な所感から書き出すことをご容赦いただきたい。2024年4月12日に日本で劇場公開されたフランス・イタリア合作のアニメーション映画『リンダはチキンがたべたい!』(原題はLinda veut du poulet!)にはとにかく圧倒された。本作は映画作家のキアラ・マルタ(Chiara Malta)とアニメーション作家のセバスティアン・ローデンバック(Sébastien Laudenbach)が共同で監督を務めたコメディ・アニメーションであり、2023年のアヌシー国際アニメーション映画祭で長編部門グランプリ(クリスタル賞)を獲得している。本作の特色は登場人物一人一人を別々の単色で塗り分けた表現に認められ、遠景に入り込む人々はまるで闇夜に浮かぶ色とりどりの提灯のように画面を彩り、観客の目を楽しませる。この大胆な記号的表現は同時に、「街頭の政治」を生み出す群衆の力を強烈に印象づける。後述するように、本作がコメディ・アニメーションであることは必然と言っても過言ではない。

 本作は郊外の団地――いつの時代、どの場所かは明示されていない――に暮らす8歳の女の子・リンダ(Linda)の記憶をめぐる物語だ。リンダは物心がつく前に父を亡くし、母のポレット(Paulette)と二人で暮らしていた。ある日、ポレットの大切にしていた指輪(夫の形見)がなくなり、ポレットは娘のリンダが盗んだものと決めつけて、リンダを責めてしまう。ポレットは罰としてリンダを厳格な姉(リンダの伯母)・アストリッド(Astrid)のもとに預けるが、その後、指輪は飼い猫のガッツァ(Gazza)が誤って飲み込んでいたことが発覚する。ポレットは無実が明らかになったリンダに謝罪し、償いになんでも言うことをきくと言う。リンダは記憶あるいは無意識の底に沈んでいた父との思い出、すなわち父がパプリカ・チキン(poulet aux poivrons)を作ってくれたことを思い出し、この特別な料理を埋め合わせにリクエストする。ポレットは料理が苦手ながらも娘のリクエストを受け容れ、夫のレシピノートを引っ張り出して、パプリカ・チキンを作ることを約束する。ところが、折しも国はゼネスト(grève générale)の真っ只中にあり、スーパーマーケットも精肉店も閉まっていて、パプリカ・チキンの材料は手に入らない。ポレットは娘との約束を果たすため、出来心で郊外の養鶏場から生きたニワトリを盗み出してしまう。しかし、パプリカ・チキンの材料を手に入れたはいいものの、ポレットはニワトリの絞め方など知らない。ポレットは姉のアストリッドを頼ろうとするがうまくいかず、警察の検問をきっかけにニワトリに逃げられてしまう。こうして、リンダとポレットはニワトリを追って通りがかりのトラックの荷台に紛れ込み、警察から追われることになる。物語はアストリッド、間抜けな新人警官・セルジュ(Serge)、羽毛アレルギーのトラック運転手・ジャン=ミシェル(Jean-Michel)をはじめとした面々を巻き込んで逸脱に逸脱を重ね、団地を騒乱の渦に叩き込んでいく。

 本稿では、本作の可笑しさの正体を明らかにするため、喜劇(comédie)の構造と効能に注目して、本作の筋書きに分析を加える。この分析によって、本作が喜劇の伝統に連なるものであること、そしてそれゆえに観客を自己点検へと挑発してやまないことが詳らかとなるだろう。

喜劇の構造と効能:木庭顕の講演会を踏まえて

 筆者は去る2024年3月10日、ギリシャ・ローマ研究者の木庭顕のZoom講演会「ローマ喜劇に見る市民社会のエートス形成:プラウトゥス『捕虜』の一解釈」に参加した。北海道大学法学研究科高等法政教育センターが主催したこの講演会(いわゆる市民講座)は、『リンダはチキンがたべたい!』の分析に際しても有用な示唆を与えるものであるため、ここで簡単に紹介を行う。

 木庭はこの講演会のなかで、日本では喜劇がちっとも浸透せず、本格的な上演史もないことを嘆いていた。シェイクスピアの戯曲も半分は喜劇作品なのに、日本では悲劇作品ばかり上演されており、狂言も国民的文学として共有されていないありさまである。ヨーロッパではコメディアンは国民的英雄だが、日本では芸もないくせに「芸人」を名乗っている下劣な連中がはびこっている惨憺たる状況が広がっている。木庭が『誰のために法は生まれた』(朝日出版社、2018年)を上梓したときも、ギリシャ悲劇の分析に対してはよい感想をたくさんもらったのに、ローマ喜劇の分析に対しては誰も触れてこなかった。木庭はこのように述べて、木庭自身も含めて日本人には喜劇に対するセンスがないと結論づけた。

 それでは、喜劇に対するセンスを持ち合わせた人々が織りなす社会とはいったいどのようなものなのだろうか。言い方を変えれば、どのような社会的現実を基盤として喜劇は普及するのだろうか。木庭はローマの喜劇作家プラウトゥスの喜劇に集まる紀元前2世紀頃の観客の実相に迫っていく。この時期において、ローマは地中海一体を政治的・軍事的に支配しつつも、各地の都市国家の自律性を一定程度尊重していた。ローマの支配のもと、各地の都市国家内部の「政治」は空洞化していたが、市民たちは「政治」の味を知りつつも「政治」から解放されていることによって、国際的な「市民社会」という自由な連帯の新しい次元に突入することになった。すなわち、これらの都市国家はビジネスセンターとして機能しており、そこに集う世界市民が喜劇の観客となったわけである。

 ここでいう「政治」とは、個人の自由を実現するために明晰な言語使用による徹底的な議論で怪しい権力を解体していこうとする営みを指しており、「政治」を成り立たせる土壌を培うにあたっては演劇という装置が重要となる。演劇とは元来、公共空間から切り離された野外の舞台のうえで、現実の肉体を持った役者が役柄に即してもう一つ別の現実を作り出すものである。舞台上の現実は現実の現実をデフォルメしたものであるから、舞台上の現実を見ている観客は、結果的に現実の現実からも距離をとることになる。また、舞台上では様々な立場や意見を持った役柄のあいだで多様な批判が大乱戦を繰り広げており、決着はつかない。だからこそ、演劇は権威や理想、換言すれば現実の現実のための行動規範とはなりえず、観客は演劇を見終わった後、カフェなどでああでもないこうでもないと喧々諤々話し合い、そのなかで議論が生まれ、議論が厳密になっていくなかで、徐々に現実の現実(筆者があえて言い換えるなら「既成事実」)のくびきから解き放たれ、自由になっていく。

 次の段階として、「政治」なるものが成立しているという現実も批判の対象となる。この「政治」の堕落ないし腐敗に対する批判の機能を果たすのが悲劇(tragédie)という装置である(この点については、2022年3月に筆者が公開した『機動戦士Zガンダム』評を参照されたい)。悲劇は「政治」の成立という現実を批判の対象にすることによって、「政治」的決定が取りこぼす落伍者や少数者に連帯しようとするデモクラシーを構築する作用をなしたが、これに対して喜劇はさらに、デモクラシーの成立という現実を俎上に載せて批判を加える。筆者がパラフレーズするならば、悲劇が二階部分をなすのに対して、喜劇は三階部分をなしているということであり、おそらく階層が上がっていることが喜劇の効能をわかりにくくしている。なお、ローマ喜劇はギリシャ新喜劇の翻案である場合が多いが、ローマでは「政治」のうえにデモクラシーではなく法が積み上がっているので、「政治」+法という構造を舞台上で批判することにより、デモクラシー不在の状況を批判するという色彩も帯びる、と木庭は注意を促していた。

 ここで改めて、演劇の効能を確認しておこう。観客は様々な情念(passions)が入り乱れる舞台上の現実を見ることによって、特定の方向にのみ示される情念から距離をとって、どこからも自由になることができる。そうだとすれば、デモクラシーや法の堕落ないし腐敗――たとえば資産家の吝嗇、詐欺師に対する盲信、年甲斐もない若い女性への執着・横恋慕など――をデフォルメして舞台上の現実に変換・増幅する喜劇は、「市民社会」の暗い側面、特にカネと権力の行使が一歩引いて見てみればどれだけ滑稽で同時におぞましいものであるかを観客に理解させる効能を持っているということができる。木庭の言葉を借りれば、悲劇はアンティゴネーのような英雄的人物を作り出すが、喜劇は我々に近い弱さを抱えた人間を登場させるということである。それではいよいよ、前述したような喜劇の構造と効能を踏まえて、『リンダはチキンがたべたい!』を分析することにしよう。

翻弄される大人たち:広場アゴラとしての団地と叛乱の産声

 一般に、笑いは暴力性を秘めている。ある人物やある事柄を笑いとばす、あるいは笑いものにするとき、それは差別やいじめと紙一重の差しかない。だからこそ、コメディアンや喜劇の作り手には高い倫理観と冷徹な現状分析能力が不可欠である。取り上げる対象は適切なのか、仮に適切だとして取り上げ方は不当ではないのか、可笑しいのは相手ではなく自分の認識ではないのか、自虐や自嘲をするにしても不用意に他人を貶めるものではないのかといった自問自答を繰り返すことなしに、批判的な笑いは生まれない。同時に、観客もまた、提供されたテーマは本当に笑いとばして問題ないものなのか、つい笑ってしまった自分の認識や感覚は大丈夫なのかといった不断の自己点検を強いられている。笑いの場では、作り手と受け手のあいだに抜き差しならない緊張感がある。自分の愚かさに気づいていない者は最も愚かであり、笑う/笑わせるという行為は知らず知らずのうちに自分の愚かさを露呈させるおそれのある危険な賭けである。さらに恐ろしいことに、この賭けからは降りることができない。なぜなら、特定のテーマに笑わなかったり、それどころか怒り出したりしても、自分のセンスのなさや愚かさを知らしめる結果に終わることもあるからである。したがって、『リンダはチキンがたべたい!』というコメディ・アニメーションを面白いと思うか不快に感じるか、また作中のどの点に面白さや不快感を見出したかによって、観客(あるいは評者)の倫理観と現状認識の精度は検証されうる。

 本作の可笑しさの淵源は、一見すると登場人物(特に大人たち)の人格がエキセントリックであることのように見える。しかし、リンダの母・ポレットが養鶏場からニワトリを盗み出してしまった背景に、娘に対する愛情とストライキによる閉店という事情が認められることは看過してはならない。ストライキを打つのは労働者の基本的権利だが、その当然の権利行使がドタバタの追跡劇の端緒となるという意味において、本作はデモクラシーや法/権利の確立――無内容な表現と受け取られることを恐れず言えば「市民社会」の存在――という現実を批判的に取り扱う喜劇の伝統に連なるものである。

 ここで早合点してはならない。本作はデモ行進やストライキといった抗議行動を腐しているわけではない。本作が最終的にきりきり舞いさせるのは警察および自分を強く抑圧した大人たちである。車のトランクから逃げ出したニワトリをリンダとポレットが追いかけ、挙動不審なポレットを警官が追いかけ、リンダとポレットが紛れ込んだトラックの運転手はポレットに一目惚れして彼女の力になろうと努め、ポレットの姉・アストリッドはトラブルメーカーの妹に対して癇癪を起こす。そして、本作のカラフルな登場人物たちは数珠繋ぎにリンダとポレットが暮らす団地に集結する。団地はニワトリを絞めてパプリカ・チキンを作るためのアリーナと化す。団地に暮らす子供たちは、鶏鳴に引きずり出されるようになんだなんだと広場に集まり、あの手この手でニワトリを捕まえようとする。その過程で家具は倒れ、車は揺らされ、樹木は子供たちの衣服や靴で埋まり、パプリカ・チキンの準備のために熱せられたオーブンは発火寸前となって、煙が広場に充満することになる。大人たちは刻々と変わる状況に翻弄され、疲弊し、失神する。駆けつけた警官や機動隊もスイカでサッカーを始めた子供たちによってやっつけられる。デモを規制し、時にはデモ参加者に暴行を加えて連行する警察権力が、「街頭の政治」さながらに広場を埋め尽くし、奔放に暴れるカラフルな子供たちにこかされる様子はたいへん小気味よい。本作の可笑しさは、デモ行進やストライキなどという自分勝手な行動は善良な市民に迷惑をかけるだという冷笑でもなければ、異常者たちが繰り広げる非常識な追いかけっこを安全地帯から眺める悪趣味で意地悪な嘲笑でもない。真に可笑しいのは、デモ行進やストライキの社会的意義など深くは理解しておらず、小学校の休みが増えたことを喜ぶ程度の子供たちのほうが群衆の力をダイレクトに体現しており、大人たちと比べてカネも権力もないにもかかわらず、自由闊達に個人として繋がり行動できるということだ。その反照として笑いとばされるのは、こうした子供たち――言うなれば「悪ガキ」ないし「クソガキ」――に苛立ち、言いようのない不快感を覚える真面目ぶった大人たちなのである。

 本作は、ストライクのせいでパプリカ・チキンが作れないのは仕方ないとか、ストライキが終わるまで待てばよいといった方向に決して傾かない。パプリカ・チキンは今日作られなければならないのである。ポレットの奔走はそうした切迫感によって引き起こされている。ポレットは我々に近い弱さを抱えた人間だ。夫の死から立ち直れず、無邪気な娘に苛立ち、一方的な事実誤認によって娘を疑い責めてしまう、そんな人間だ。しかし、そんな人間でも約束のために、信頼のためになりふり構わず行動することはある。娘に対する深い愛情をうまく伝えられない不器用さは滑稽であると同時に憐れでもあるが、ポレットを心の底から軽蔑できる者などそういないはずだ。もし本心か強がりか知らないが、ポレットを笑いものにする者がいたら、そのような者こそ笑いとばしてしまえばよい。リンダに濡れ衣を着せてしまった償いを先延ばしにすれば、信頼の破綻という取り返しのつかない事態を招きかねない。この切迫感を伝えるジャンルとして、本作がコメディ・アニメーションを選択したのは必然であったと言っても過言ではない。娘との約束を守りたい一心で窃盗すら犯してしまうという少々思慮に欠ける母親の行動から始まった追跡劇が、団地を舞台とした「街頭の政治」と言うべき騒乱に発展し、母親の再婚を予感させる大団円に行き着くのはあまりに巧く仕組まれている。デモ行進やストライキを許容する「市民社会」は、デモ行進やストライキを最優先事項とするような凝り固まった考え方に支えられているのではなく、かえってデモ行進やストライキといった基本的な権利行使すらも飛び越えるような切迫した約束の履践への衝動ないし情念によって基礎づけられている――このことを感覚的に理解させる本作は、観客を圧倒し魅惑してやまない。

 本作の共同監督であるキアラ・マルタとセバスティアン・ローデンバックは、本作のフランス語版パンフレット(リンク先PDF注意)に掲載された制作意図メモ(note d’intention)のなかで、「その空間的配置からいって、団地は広場アゴラでもあり、その広場アゴラの只中では反乱が秩序の力に抗して産声をあげることができる」(De par sa configuration, la cité est également l’agora au sein de laquelle la rebellion peut s’exprimer contre les forces de l’ordre)と述べている。監督の制作意図を「正解」として作品を解釈する必要がないのは言うまでもないが、ここで両名が広場アゴラ(agora)という言葉遣いをしていることは重要と考えるため、引用することにした。実はフランス語のcitéという言葉には、「団地」という意味のほかに「都市国家」という意味も含まれている。したがって、両名が団地/集合住宅地(cité)を広場アゴラ(agora)に準えるとき、そこには古代ギリシャの都市国家ポリス(cité)において広場アゴラ(agora)こそが市民の集会や議論、換言すればデモクラシーの現場であったという意味が当然に含意されていると言わなければならない。かかる制作意図に鑑みても、本作を喜劇の伝統に連なるものと捉えるのは無理からぬことであろう。

おわりに

 前述の制作意図メモのなかには、次のような端的な一文がある。「『リンダはチキンがたべたい!』は、自由、叛乱、無秩序、さらには無統治状態に対する賛歌である」(Linda peut du poulet! est un hymne à la liberté, à la révolte, au désordre, voire à l’anarchie)。木庭が講演会で述べていたように、日本人には喜劇に対するセンスがないのだとすれば、本作を面白いと思えない、もっと言えば本作を見ていて腹が立つ日本の観客は少なくないように思う。本作は特定の社会問題を抉り出す「社会派」の映画でもなければ、人間の暗部を暴こうとするサスペンス映画でもない。本作はあくまで娯楽映画の一種としてのコメディ・アニメーションである。その意味で、本作は紛れもない喜劇として、日本の観客一人一人を試しているとも言える。筆者としてはできれば多くの観客に笑い転げてほしいと考えているが、仮にまったく笑えなかったとしても、笑えなかった自分のどこに問題があるのか、あるいは問題とは言わないまでも、自分がどのような固定観念を持ち、何に苛立っているのか、何を恐れているのか、実は何に憧れているのかといったことを点検する機会としては利用してほしいと思う。

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髙橋優
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