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未来志向の陣地戦と迎合主義の陥穽:『アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~』について

※本記事はアニメ映画『アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~』のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

 大人になるってどういうことだろう。
 そんな陳腐ながらも途方もない問いに、「アイドル戦国時代」以降の「アイドルアニメ」が応答するのはたいへん難しいことだ。アイドルアニメは、現実におけるアイドルユニットの林立を背景として、アイドル同士の鍔迫り合いや切磋琢磨を活写する方向に発展を遂げ、結果的に分節(articulation)を前提とした横断的連帯(horizontal solidarity)の美しさを描き出すジャンルとなった。アイドルが雨後の筍のように現れては消えていく「アイドル戦国時代」において、アイドルに求められるのは混沌とした環境に淘汰されない強烈な個性である。一人のアイドルが個性を備えて、他のアイドルから画然と区別されて理解される状態にいたることを、分節の成立という。一人一人のアイドルは分節を構成するかぎりで相互に対等であり、原理的には縦一文字型の関係(vertical relation)を嫌う。アイドルは垂直的というよりは水平的であることを志向し、友情やライバル関係といった言葉で指示される横断的連帯を形成して、アイドル業界というフォーラムを埋め尽くしていく。こうした構造ゆえに、アイドルアニメは擬似的ではあれ、ブルータルな意思決定を排除したデモクラティックな空間に目を開かせる可能性を秘めている。アイドルアニメにおいて、権威主義的な「生徒会」や「エリート」、あるいは「大手事務所」が主人公を牽引役とする草の根の横断的連帯に対置されることは少なくない。この亀裂はデモクラシーの感覚とでも呼べるものを近似的に理解させる一助となる。アイドルアニメは日本におけるデモクラシーの不在を補綴するようなカテゴリーとして機能しうる。
 しかし、アイドルは自己実現やエンパワーメントの輝きを放つという光の側面を有すると同時に、ファン(「フアン」と書くべきなのかもしれないが、本稿では読みやすさを重視した表記を採用する)から未熟さ、すなわち永遠の未完成を欲望され消費されるという陰の側面も有している。だからこそ、アイドルアニメはアイドルを統御するプロデューサーやマネージャーといった夾雑物の混入を完全に防ぐことはできず、そうした特権的な地位は『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』(第1期は2020年、第2期は2022年。以下、『ニジガク』と略記)にいたって、高咲侑というある種の究極形に結実した。侑は悩み多きスクールアイドルを束ね教導するグルとして君臨し、同好会の面々はインターハイ的な大会(ラブライブ!)から切り離されて、目標の達成を度外視したクローズドな原理――ありのままの姿を肯定し、「やりたいこと」に邁進する決意のみをもって瞬間的に救済は遂げられるという考え方――に引きずり込まれていく。侑の登場によって、アイドルアニメは不可逆的に脱臼させられたと言っても過言ではない。『ニジガク』が外界との接点を欠いた「閉鎖空間」にたゆたう少女たちを描き、大きな商業的成功を収めたという事実は、デモクラティックな価値観の旗色が悪いことを如実に表していた。このような情勢のもとでは、本稿の冒頭で掲げた「大人になるってどういうことだろう」という問いが顧みられることは難しい。何となれば、アイドルの一挙手一投足に凝縮された一瞬の輝きや煌めきを尊ぶ態度は、アイドルの自律や抵抗を忌避する刹那的な姿勢の裏返しでもあり、そこにはアイドルの成長を「箱庭」のなかに押しとどめようとする仄暗い支配欲と庇護欲が胚胎しているからだ。アイドルはファンを「裏切らない」かぎりでアイドルでいられるが、その「裏切り」とやらが何を指すのかは誰にもわからない。現実のアイドル稼業は不透明な不文律に依存した疑似恋愛商売に片足を突っ込んでおり、それゆえに刃傷沙汰やストーカー事件と隣合わせである。大抵のアイドルアニメはこうした陰の側面を隠蔽するか、あるいは光の側面を強調するか、いずれかの手法によって支持を集めている。後者の代表例として名高い作品こそ、『アイカツ!』(2012~2016年)である。
 筆者のアイドルアニメ論にとって、『アイカツ!』は一種の理想形であり続けてきた。『アイカツ!』は未就学児や小学校低学年の児童を主要なターゲットに据え、彼ら/彼女らに対して憧れや希望を抱かせる直截なつくりをしているが、それは『アイカツ!』が子供騙しの作品であったということを意味してはいない。『アイカツ!』の直截さは、分節を前提とした横断的連帯の美しさを謳い上げる強度にかかわっている。星宮いちごはレジェンドアイドルの娘だが、遺伝や才能といった理由だけでトップアイドルに上り詰めたわけではない。いちごは系譜の観念と師資相承の原理の結節点であり、神崎美月から星宮いちごへ、星宮いちごから大空あかりへという「手から手へ」の途切れることなき継承の中間点にも位置している。そして、いちごは霧矢あおい、紫吹蘭、有栖川おとめ、藤堂ユリカ、北大路さくら、一ノ瀬かえで等々の連帯の延長に組み込まれている(同様にあかりも氷上スミレ、新条ひなき、紅林珠璃、黒沢凛、天羽まどか等々と横並びの連帯を形成する)。すなわち、アイドルの横断的連帯によって敷き詰められた特別な空間――アイドル養成の名門校であるスターライト学園――がアイドル一人一人を飛躍させるカタパルトとなっている。この重要性はいくら強調しても強調しすぎることはない。スターライト学園は自生的な秩序ではないかもしれないが、各々のアイドルが各々のステージで輝くことをよしとする「各人に各人のものを」(suum cuique)の精神によって、デモクラティックな空間を擬似的に垣間見させる舞台として機能している。やがて、視聴者のいちごに対する憧れはアイドルそのものに対する幼児的な憧れをこえて、いちごを取り巻く環境に対する深い憧憬に及ぶことだろう。そのとき、『アイカツ!』の屈託なき直截さは、視聴者の克己心を力強く鼓舞するはずだ。
 だが、『アイカツ!』の放送開始から10年以上が経過したいま、筆者は『アイカツ!』を理想形とするアイドルアニメ論を見直す必要に迫られている。それも、こともあろうに「私が愛したアイカツ」から引導を渡されようとしている。本稿で取り上げるのは、2023年1月20日に劇場公開されたアニメ映画『アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~』(以下、『未来へのSTARWAY』と略記)である。『未来へのSTARWAY』はいちご世代のスターライト学園からの卒業とその後日譚を描いた作品だが、内容的には『アイカツ!』のグランドフィナーレを飾ったとは言いがたく、『アイカツ!』の事実上の終焉を自ら宣告したに等しい。『未来へのSTARWAY』で描かれるのは“10th STORY”、すなわちスターライト学園を卒業し、22歳になったいちごたちの姿だ。“10th STORY”というタイトルは、実時間でも『アイカツ!』の放送開始から10年、劇中時間でもいちごたちのスターライト学園中等部入学から10年が過ぎたことを示している。成人を迎えたいちごたちは晩酌だってできるし、免許を取得して自動車を運転することだってできる。成年に達すれば、未成年者の頃に比べて、できる行為の幅は大きく広がる。しかし、法律上成人を迎えることと「大人」になることは完全にイコールではない。『未来へのSTARWAY』は大人になることの哀切を、アイドルアニメの枠内で目一杯伝えている。それは結果的にスターライト学園、もとい『アイカツ!』との訣別を含意している。
 『未来へのSTARWAY』の分析にあたって、注目すべき点は二つある。第一に、スターライト学園からの卒業に際して、アイドルユニットの解体が示唆されていることが挙げられる。アイドルユニットとは言葉のとおり「一」なる単位(unit)であり、メンバーとは独立に包括的人格を有するアイドル複合体である。ユニットの名前は組合の名前とは異なる意味を持っている。ユニットの名前は単なる「看板」ではない。ユニットは組合とは異なり、あたかも亡霊(phantom)のように仮想的な人格として立ち上がる(本論からは逸れるが、メンバーの脱退・加入・交代が激しい痛みを伴うのはこのためである)。ソレイユ、トライスター、ぽわぽわプリリン、ルミナスといったユニットの内部では分節の融解が生じるため、ユニットを構成するメンバーは一種のアイデンティティ・クライシスにさらされる。それを乗り越えて、ユニットの内部で高次の連帯が取り結ばれたとき、複数のユニット間で新たに分節が成立するのだ。『アイカツ!』をはじめとするアイドルアニメにおいて、ユニットの結成が一つの山場をなすのは、このようなユニットの性質に負うところが大きい。ところが、『未来へのSTARWAY』は『アイカツ!』の一つの鍵でもあったユニットに切れ目を入れるという所業に出た。スターライト学園の卒業ライブをもって、ソレイユはいったん活動に区切りをつける。いちごはソロアイドルとして活動を継続、あおいはアメリカの大学に進学、蘭はモデル活動に加えて芝居にも挑戦――といったように、かつてのメンバーは卒業後別々の道を歩み始める。結成までにわりあい時間と労力を要し、現在は安定的な分節をなすにいたっているユニットのすべてが解体されたのかどうかは断言できない。しかし、スターライト学園の卒業証書を持ったアイドルたちが学園の門から各々別々の方向へ歩いていくシーンは、彼女たちが分節を構成するソロアイドルへ戻ったことを示唆している。
 第二に、ユニットの解体にも関連するが、スターライト学園の卒業後には遮蔽物のない荒野が広がっているという、吹きさらしの「社会」観が提示されていることは注目に値する。『未来へのSTARWAY』において、スターライト学園の外側に「社会」なんてものは存在しない(there is no such thing as society)。アイドルの横断的連帯によって敷き詰められた特別な空間は、モラトリアムの夢であったかのように雲散霧消し、もはやスターライト学園を卒業したアイドルたちに拠点と呼べるものは残されていない。いちごと蘭はルームシェアをして暮らしており、彼女たちの家にはユリカやかえでも集まって、ときおりホームパーティが催されてはいる。しかし、卒業後のルームシェアやホームパーティは吹きさらしの荒野で身を寄せ合う「共助」のアジール(asylum, sanctuary)にすぎない。彼女たちはホームパーティでお酒を片手に近況を語り合うが、そこで仕事の話はしない(ただし、仕事の話題を意図的に避けているとも断じがたい)。ユリカは赤ワインで泥酔して「大人にはいろいろある」のだと愚痴をこぼすが、大人になることで被る具体的な不利益については語らない。そもそも、ユリカやかえでが現在従事している活動も十分な尺をとって明示はされない。おとめにいたっては、22歳になった姿として画面上に登場することすらなく、伝聞によってタレント活動の継続がほのめかされるにとどまっている(小倉優子が「こりん星」を卒業したように、やがてはおとめも「らぶゆ~」とは言えなくなるという含意なのかと邪推してしまう)。そのため、大人になることの哀切については、視覚的に明示されたいちごと蘭の活動内容を例として推測するほかない。いちごは厖大なスタッフを擁するライブの総合演出に携わる重責を担い、蘭はモデルとして積み上げてきたキャリアを舞台上で壊す怖さと戦っている。もちろん、いちごや蘭は性格の悪い大人からいじめられているわけではないし、残酷でままならない現状の追認に意識的に加担しているわけでもない。しかし、彼女たちにとって大人になるという言葉は動物的な巣立ち、言い換えれば「自助」のニュアンスを強く帯びている。スターライト学園を卒業し、急に「一人前」として扱われるようになった彼女たちは、セーフティネットなき世間の荒波を掻き分けて、たくましく生きていくことを余儀なくされる。こうした吹きさらしの「社会」観は、いちごの弟・らいちの描写にも静かに反映されている。大学生となったらいちはウーバーイーツのようなケータリングサービスを事業として始めているが、ウーバーイーツの運営会社が配達員の「労働者」性を否定し、労働組合(ウーバーイーツユニオン)の団体交渉を拒否したことを思えば、イメージソース自体がきわめて新自由主義的な色彩を帯びたものであることは明白だ。だからこそ、『未来へのSTARWAY』は消極的な解決策としてアジールの建設を提示することで、自己責任論を後押しする意図はないというエクスキューズをつけざるをえないのである。

 とはいえ、『未来へのSTARWAY』は前向きの、未来志向の作品ではある。『未来へのSTARWAY』はいちごたちがスターライト学園に通っていた「あの頃」、すなわち『アイカツ!』を失われた理想郷として描きはしない。確かに、スターライト学園が日本のどこにあるかもわからない摩訶不思議な「おままごと」の空間だったことは否定できない。しかしながら、その「おままごと」の空間とてアイドル(ひいては視聴者)を閉じ込める永遠の繭であってはならない。『未来へのSTARWAY』は、あくまで現在を基準点として「あの頃」を振り返ることによって、「あの頃」が現在だった時点における全力の頑張りが現在に流れ込んでくるという歴史的かつ再帰的な思考を採用している。22歳のいちごたちは「あの頃」(直接的には卒業ライブ)の延長線上を生きており、「あの頃」の最大限の頑張りに支えられて、各々のステージで現在を精一杯生きている。ここには、やがて現在が「あの頃」として振り返りの対象となったとき、現在の頑張りは未来の時点における現在に流れ込むことだろうという含意がある。こうして過去と未来は現在に結び合わされ、「SHINING LINE*」とでも言うべき継承の連鎖として人間の歴史の一部となる。『未来へのSTARWAY』が感傷に溺れノスタルジーに耽ることをぎりぎりのところで回避し、いわば「アンチ青春」の側へ舵を切ったことには安心感と頼もしさを覚える。ユニットの解体を伴うこの幕引きは、筆者が『ラブライブ!スーパースター!!』第2期(2022年)に願ってやまなかった、澁谷かのんの留学によってLiella!リエラ が一時的に9人から8人になるという商売上ありえない展開を代替するものであり、アイドルアニメとしてのけじめをつけるものでもある。『未来へのSTARWAY』は、スターライト学園に仮託された擬似的なデモクラシーの成立も、所詮は「箱庭」のなかの児戯にすぎなかったという事実を視聴者、もとい筆者に突きつける。しかし、これは『アイカツ!』が馬鹿げた仮構であることを意味しない。『未来へのSTARWAY』が囁いているのは、そろそろ『アイカツ!』からの出口を探す時間だということなのである。
 大人になるってどういうことだろう。それは、視聴者一人一人もスターライト学園に「留年」するのではなく、「各人に各人のものを」の精神をもって、各人のステージでスターライト学園を「新設」することにほかならない。仮に視聴者自身が横断的連帯を紡げないとしても、それを紡ごうとする次世代を支援することはできる。畢竟、『アイカツ!』および『未来へのSTARWAY』を完走した(おそらく成人を迎えているであろう)視聴者に求められるのは、吹きさらしの荒野に耐えるいちごたちに共感して涙することではなく、織姫学園長やジョニー先生のようにアジールの建設に挑むことである。一言で言えば、スターライト学園とはプリズムであった。卒業生は一人一人別々の波長の色に分解されて、スターライト学園の外へと射出されていく。そして、彼女たちは「大人にはいろいろある」ことを経験する。そのとき初めて、彼女たちは織姫学園長やジョニー先生、各ブランドのデザイナー等々の大恩を知ることだろう。「あの頃」の横断的連帯の基盤をつくってくれていたのが大人たちであることを知ったとき、取るべき行動は何だろうか。それは彼らに続くことである。
 もちろん、アジールの建設はデモクラシーの根づいた「社会」を構築するという難題に正面から取り組むものではないから、陣地戦にすぎないという見方もあることだろう。だが、次善の策である陣地戦を行わずして、それこそ「未来へのSTARWAY」が拓かれることはない。この陣地戦の現場はアニメの外、現実である。そう、今度は視聴者が『アイカツ!』を卒業する番なのだ。『未来へのSTARWAY』のラストシーンでソレイユの再結成が示唆されているとしても、いちご・あおい・蘭が集結するのがスターライト学園の広場(forum)である以上、これは制作側のお慈悲ファンサービスとしか言いようがない。スターライト学園の外に横断的連帯の基礎をなすフォーラムがないのであれば、グランドフィナーレとは言いがたい。もはや次の一手はアニメの外で打つしかないのだ。筆者もそろそろ、日本におけるデモクラシーの不在を補綴するようなカテゴリーとして――『アイカツ!』を理想形として――アイドルアニメを論じることから離れなければなるまい。
 いや、そう言いつつ逡巡を隠せないのだが、『未来へのSTARWAY』は「アンチ青春」の作品であるからこそ、かえって『アイカツ!』をアクチュアルなまま延命させたとも言えるかもしれない。日本で「失われたン十年」が続くかぎり、新たな視聴者が『アイカツ!』を「再発見」する意義は悲しい哉失われないだろう――新たに『アイカツ!』を見始めた者が『未来へのSTARWAY』に到達するたびに、アジールの建設に挑むというアクチュアリティは喚起されうるのだから。しかし、また言を翻すようだが、『未来へのSTARWAY』は吹きさらしの「社会」観を提示しているため、視聴者を理不尽や不条理という名のつまらないリアリティへの屈服、すなわち迎合主義(conformism)へと傾かせる危険性も持っており、真正面から肯定するのはどうあっても難しい。いずれにせよ確かなのは、『アイカツ!』が画した一時代が終わりを告げたということだ。『アイカツ!』は10年をかけて『未来へのSTARWAY』という一つの暫定解に辿り着いた。まずは現時点の暫定解を全力で受け止めなければ、真の意味での未来が訪れることはない。

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