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せめぎ合う甘美な感傷と鋭い悪意:『ロボット・ドリームズ』と『僕の妻は感情がない』の狭間で


はじめに

 Robot dreams――この二語は主客の逆転を引き起こすあいまいな語句である。ロボットを主語と見て、「ロボットが(主人を)夢に見る」という感傷的な解釈をとるか、それともロボットを夢の客体と見て、「ロボットという夢」すなわち「(主人が)ロボットを夢想する/夢見心地に眺める」という悪意ある解釈をとるか、二つの方向性はたえずせめぎ合っている。2024年11月8日に日本で劇場公開されたスペイン・フランス合作のアニメーション映画『ロボット・ドリームズ』は、このせめぎ合いの観点から理解されるべき作品である。

 本作はニューヨークのアパートで孤独に暮らすドッグ(イヌ)ロボットとの共同生活の顛末を描いている。ある晩、ドッグは寂しさを紛らすために“AMICA 2000”なる量産型ロボットを購入する。ドッグはロボットを伴ってニューヨークの名所をめぐり、表面的には孤独ならざる生活を謳歌する。ドッグは調子づき、夏の終わりに一人では行けない場所、いや一人では十分に楽しめない場所の代表格であるビーチにロボットを連れていく。しかし、当然といえば当然だが、海水を浴びたロボットは錆びついて動けなくなり、エネルギー切れとなってビーチから起き上がれなくなってしまう。ドッグは重たいロボットを抱えて帰ることもできず、修理道具を持って戻ってくることを約束して、ロボットをビーチに置き去りにせざるをえなかった。ところが、ドッグが戻ってきたときには、折もあろうにビーチは海水浴シーズンの終わりに伴って閉鎖されていた。ドッグは工具でビーチのフェンスをこじ開けようとするが、警官に見つかって不法侵入(trespass)のかどで逮捕されてしまい、結局ロボットの救出を果たすことはできない。ドッグは釈放後、来年の海開きを心待ちにして孤独を耐え忍ぶ生活に戻っていく。しかし、ロボットがドッグを殊勝に思い続ける一方で、ドッグはやはり寂寥感に耐えきれず、代わりに自分を慰撫するものを求めて、無節操な行動を繰り返すことになる。本作はドッグの場当たり的な行動を淡々と積み上げることによって、ドッグにとってロボットは所詮替えの利く代用品でしかないのではないかという暗いエコーを響かせることに成功している。

 だが興味深いことに、本作は「リーニュ・クレール」(ligne claire)と呼ばれる均一な太さの輪郭線と陰影の少ない均一な色使いに特徴づけられる描画スタイルを取り入れ、アース・ウィンド&ファイアーをはじめとする哀愁を秘めつつも開放的な音楽をちりばめるなど、全体としてからっとした雰囲気をまとっており、じめじめしていない。それゆえ、ロボットの主客をめぐる衝突の接合面でぎしぎしと鳴っている不協和音は聞こえにくくなっている。そこで、本稿では2024年9月に放送が終了したTVアニメ『僕の妻は感情がない』――サラリーマン男性が家電ヒューマノイドを妻に迎える物語――を比較対象とすることによって、『ロボット・ドリームズ』に秘められた批判的思考を浮き彫りにすることにする。

“AMICA 2000”の意義とその悪意

 『ロボット・ドリームズ』は、一見すると友情について考察した作品のように見える。しかし、まずはじめに問うておきたいのは、孤独を感じるドッグが欲しかったのは本当に「友達」なのかということだ。そもそも、ドッグがロボットを購入するきっかけとなったのは、隣の建物の住民カップルが寄り添い合ってテレビを見ている様子をアパートの窓から垣間見て、寂しくてたまらなくなったことだ。ドッグは“Are you alone?”(あなたはひとりきりですか?)というCMに惹きつけられ、組み立て式の量産型ロボットを注文することを決める。ここで見逃せないのは、このロボットの製品名が“AMICA 2000”と名づけられていることだ。amicaとはラテン語の女性名詞で「女友達」を示す言葉であり、Oxford Latin Dictionary, Second Editionでamicaを引くと、女友達(A female friend)という第一の意味に続けて、恋人・愛人・情婦(A mistress, sweetheart, courtesan)という第二の意味が掲載されている。すなわち、ここではお金で女友達/情婦を買うという行為が示唆されており、ドッグとロボットの関係を単純に人とモノの垣根を超えた友情とみなすのは表面的な理解にすぎないと言える。本作はセリフがない代わりに、画面上の文字情報(特に英語)を多用して観客の理解を促進している。そのため、ロボットの製品名が女性名詞であること、すなわちロボットが女性ジェンダー化されていることは偶然ではないと私は考える。

 ドッグとロボットの関係は、はじめから対等なものではありえない。ロボットはどこまでいってもドッグにとって都合のいい道具でしかない。ドッグが不手際によってロボットと離ればなれになったとき、「操を立てる」ことができずに他の相手を探してしまうのは、ロボットをかけがえのない存在とは考えていないからである。ドッグは替えの利かない存在、すなわち固有名詞とのつながりを欠いている。そもそも本作の主人公が「ドッグの◯◯」という名前を持たず、単に「ドッグ(イヌ)」という普通名詞で呼ばれていること自体示唆的だが、ドッグはロボットに名前をつけることもなく、普通名詞の世界に埋もれて生活している。鶏卵問題であることを承知で言えば、少なくとも相手を固有名詞として尊重できない者が固有名詞として愛されることはない。ドッグは友達づくりを煽る広告につられて一人で雪山(スキー場)へ行き、意地悪な二人組に挑発されて怪我を負ったり、たまたま公園で凧揚げを手伝ってくれたダック(アヒル――これも普通名詞!)と友達(というより「いい感じ」)になったと思い込んで舞い上がり、ダックからヨーロッパへの移住をポストカード一枚で知らされるまで心理的距離に気づかなかったりするなど、他人との関係で失敗を重ねる。さらに、ドッグは近所の子供たちが道端に作った雪だるまが動き出し、自分を社交の場(ボウリング場)へ連れ出してくれるという妄想まで膨らませる(悲しいことに、ドッグは妄想のなかですら人気者にはなれず、鈍臭い失敗を笑いものにされている。ドッグの自己効力感の低さが窺われる一幕である)。こうした無節操な行動が繰り返されるうちに、ドッグのアパートの冷蔵庫に貼られたロボット救出計画のメモ書きが他の紙によって覆い隠されていくのは、ドッグの身勝手さを観客に強く印象づける。

 以上より、友達というよりパートナーに恵まれないドッグがお金で買い、やがて失うことになるロボットにamica(女友達/情婦)なる製品名を与えたことに悪意がまったくなかったと言ったら、さすがに嘘になるだろう。

ロボットとの片務的パートナーシップ

 『ロボット・ドリームズ』におけるドッグとロボットの関係を見ていて、思い出したのは『僕の妻は感情がない』におけるタクマとミーナのそれだった。もちろん、『ロボット・ドリームズ』に登場するロボットはヒューマノイドではないし、直接的な性愛の対象として描かれているわけでもない。しかし、前述のとおりロボットが女性ジェンダー化されている以上、本質的には同様の問題が生じうると考えるため、わかりやすい比較対象として『僕の妻は感情がない』を取り上げることにする。

 『僕の妻は感情がない』は、一人暮らしのサラリーマン男性・小杉タクマが自身の健康維持のために購入した中古の家電ヒューマノイド「ミーナ」に惹かれていく様子をときにコミカルに、ときに異常な見せ方で描いている。恋愛を諦めており、女性と縁のない生活を送るタクマは、登録されたレシピどおりに料理を作ってくれるミーナに対して、酔った勢いで「嫁さんいたらこんな感じなのかな」、「僕のお嫁さんになってくれないかな」と口走ってしまう。タクマはすぐに自己嫌悪に陥るが、自分に思いを寄せているかのようなミーナの素振り(オムライスに「LOVEタクマ」とケチャップで書く、タクマのことを「夫」と呼ぶなど)にほだされ、ミーナとの「夫婦ごっこ」に踏み込んでいくことになる(第1話)。この物語をモテない男性向けのファンタジーと言うのは簡単だ。ただ、暴力的な願望を形にしただけだと言われないようにするためのエクスキューズだとしても、本作は一応、家電ヒューマノイドを妻に迎えることが異常で恥ずかしい行為なのだという前提を置いている。タクマはミーナをピクニックに連れ出した際、周囲から好奇の目に晒されることを恥ずかしく思っているし(第2話)、ミーナから「普通の女の人と付き合えないから、私を代わりにしてるんです!」と詰られる悪夢を見たりもする(第6話)。ミーナもタクマのことを「私たちのことを家族だと思い込んでいること以外は、普通の成人男性です」と評する(第10話)。そもそも、ミーナは「主人を向社会的な人間へ導くための道具」として開発されたロボットであると作中で明言されている(第9話)。ロボットはあくまで対人関係の練習台にすぎず、「◯◯のようなもの」を返すプログラムでしかない。どれだけChatGPTなどの生成AIが人間らしい応答をしたとしても、そこに人格や知性を見出すことができないということと同様である。それゆえに、ロボットとのあいだには双務的な生活保持義務は生じえず、ロボットとのパートナーシップは片務的なものにならざるをえない。この点は本作の終盤(第11~12話)でも指摘されている。タクマはミーナとの共同生活について、叔父の康史郎から不平等にあぐらをかいているように見えると指摘を受ける。仮にタクマが本気でミーナのことを愛していたとしても、ミーナはタクマに捨てられたら「個人」に戻るわけではなく、ただの廃棄物になってしまう。ミーナがタクマに奉仕するように、タクマがミーナを支えることは原理的に不可能なのである。

 タクマは康史郎から痛いところを突かれ、自分の覚悟を示すためにミーナを実家の両親に紹介する挙に出る。ところが、タクマの両親はミーナを家電としての便利さからしか評価せず、タクマがよければそれでいいという表面的には穏当な反応を示す。この反応もまた、前述の片務性に由来するものである。ロボットであるミーナには親族がおらず、「個人」としての人格も意思もそこにはないから、タクマの行動によってミーナ(およびその親族)に迷惑がかかるということは生じない。タクマはミーナに対して親族法上の義務も倫理的責任も負わないのである。だからこそ、タクマがミーナに対して真摯な思いを抱いているとアピールすればするほど、妻を「所有する」のは気持ち悪いという当然の反応がタクマの母親から引き出されることになる。タクマの母親は、タクマがミーナを妻と見ているのであれば、ミーナの所有権を自分に移譲してほしいと主張する。この問題は結局、周囲の人間に危難が及んだときにロボットは誰を最初に守るべきかという自動運転を彷彿とさせる優先順位の問題として処理され、第一所有者をタクマ、第二所有者をタクマの母親に設定することで決着する。この少々歯切れの悪い結論の是非はともかく、対等であることを志向するなら、所有-被所有の関係であってはならないという指摘は重要である。この点は夫を「主人」や「旦那」と呼びたくないとか、夫から「奥さん」や「家内」と紹介されたくないといったアクチュアルな議論に接続している。そして、こうした議論こそ、『ロボット・ドリームズ』が明示的に踏み込むことを避け、暗いエコーとして響かせるにとどめた批判的思考の主戦場なのである。

感傷を前面に打ち出すことの功罪

 『ロボット・ドリームズ』は、ドッグはロボットを捨てられるが、ロボットにはそのような判断権限がないという非対称を甘美で一途な主人愛で塗りつぶしている。身動きがとれないままビーチに置き去りにされたロボットは、何度も何度もドッグと再会する夢を見る。ロボットはドッグを信頼してドッグの戻りを待ち続けるが、その切望は叶わない。ロボットは通りがかりのボート乗りに修理材として脚を奪われたばかりか、金属探知機を持った遺失物横領者によってジャンク屋に持ち込まれ、バラバラに分解されてしまう。その後、スクラップとなったロボットはラスカルという人物(アライグマ?)に拾われ、ラジカセを胴体とした自作ロボットとして生まれ変わる。この一連の過程は、あたかも女友達/情婦(amica)が凌辱の末に悪党(rascal)に奪い去られるかのようで、これまた鋭い悪意を感じざるをえない。こうして季節はめぐり、また夏がやってきた。ドッグはようやくビーチに向かい、ロボットを探すが見つけることができない。ドッグはロボットが砂に埋まってしまったのではないかと疑ってビーチを掘り進めるが、ビーチの本来的な利用者である家族連れやカップルから怪訝な目で見られ、ロボットとの再会を果たせないまま帰宅を余儀なくされる。

 驚くべきことに、ロボットを失ったドッグはティン(Tin; スズ、ブリキ)なる友達ロボット(pal bot)を新たに購入して心の傷を癒やすことを選ぶ。ドッグがティンを連れて再びビーチへ遊びに行き、過去の失敗を繰り返さぬよう、今度はティンを海水に浸さないようにエスコートするさまは、次から次へとマッチングアプリでフックアップを繰り返して女性慣れしようとする見当違いの男性を見ているようで、むず痒い思いを禁じえない。ある日、ラスカルと暮らすようになったロボットは、ティンという新たなパートナーを連れてニューヨークを闊歩するドッグの姿を目撃してしまう。かつての主人に声をかけようか悩んだ末、ロボットはドッグとの思い出を胸に、新たな主人・ラスカルとの生活に専念することを選ぶ。これは当世風に言えば「負けヒロイン」が身を引く様子に感じ入るような観客には大変ウケのいいエンディングであろう。本作はドッグが孤独である理由(ドッグにどんな問題があるのか)を説明せず、ドッグの親族も描かないことによって、ドッグを社会的関係から切断することを企図している。こうすることで、ドッグとロボットの関係は夾雑物のない一対一の閉じた関係に収斂し、「他人から見て二人の関係はどう考えられるか」という『僕の妻は感情がない』では前景化した客観的な問題を検討せずして、二人のすれちがいと別離をドラマチックに見せることが可能となる。それゆえ、ナイーブに見ると、未熟で幼い者が些細なミスから大切な存在を失うことになる痛みや、去っていった相手のことを一途に思い続ける者が結果的に裏切られ敗退していくという切なさこそが、『ロボット・ドリームズ』の主題であるように見える。

 しかしながら、ドッグとロボットのあいだには結局所有-被所有の関係しか成立しないのだから、こうした感傷的な装いは悪意をもって仕掛けられたものだと解釈する余地は十分に残されている。注目すべきことに、ドッグが本質的には何も変わらず、ロボットからティンに乗り換えたのに対して、ロボットは「ドッグ」という普通名詞の世界から「ラスカル」という固有名詞の世界へ踏み出している。ラスカルもまた寂しい独り身の人物かもしれないが、既製品をお金で買うのではなく、部品をかき集めて自分好みのロボットを作っているという一点において、ドッグとは大違いである。ラスカルにとってロボットは世界に一台しかない、唯一無二の存在なのだ。ロボットが最終的にラスカルとの生活を選ぶのは、ラスカルが自分をかけがえのない存在として扱ってくれるからであり、ここには相手を替えの利く慰みの道具として扱って、自分の寂しささえ埋められればいいのだという利己的な生き方に対する批判的な目線がある。お金では友情も愛情も手に入らない。ドッグはこれからも回し車のなかを走り続けることだろう。

 なお、ドッグの鈍臭さや要領の悪さを見て、「自分だったらもっとうまくやれる」とか「そもそもロボットを海に連れていくという愚かな行動はしない」などと思ってしまった人は要注意である。なぜなら、そのような人もロボットを操縦する客体と見ている時点で、実はドッグと紙一重だからである。したがって、本作が密かに研ぎ澄ませたドッグの虚しい生き方に対する批判的思考の刃は、私も含めた観客一人一人にも向けられていると言える。本作がこの鋭い切っ先を感傷という鞘に収めているのは欠点であると同時に美点でもある。かかる両義性、すなわち甘美な感傷と鋭い悪意のせめぎ合いこそが、本作をポリフォニックに解釈できる傑作たらしめている。

おわりに

 『ロボット・ドリームズ』の成功は舞台選びの段階から約束されていたのかもしれない。本作の監督・脚本を担当したパブロ・ベルヘル(Pablo Berger)にとって、ニューヨークは修士課程を過ごした思い出の街であるという。本作から伝わってくる1980年代のニューヨークの雰囲気は、当時そこに居合わせなかった者にとってもビビッドに感じられ、観客はニューヨークという街に呑み込まれていくような錯覚すら覚えるはずだ。こうしたある種の「地元感」に近い舞台理解がベルヘルの個人的体験にどの程度裏打ちされたものなのか、私には測りかねるけれど、確かなことは、ドッグを取り巻く普通名詞の世界に説得力を与えているのがニューヨークという大都会の喧騒と雑多さであるということだ。世界中から人・モノ・カネが集まり、縦横無尽に行き交う街では、かけがえのない固有名詞の世界に踏み込むことは容易ではないのかもしれない。しかも、ニューヨーク自体せいぜい数百年の歴史しか持っていないのだから、土地柄と言えるほどの土着的な伝統も乏しい。それならば、この街では誰もが埋没したドッグであるといっても過言ではないのかもしれない。

 しかし、ビーチに横たわるロボットの陰に巣を作った鳥ですらロボットと一期一会の関係を築くことはできたし、一羽だけ色の異なる雛(托卵だろうか?)もロボットの助けを借りて最終的にはどの雛よりも高く飛ぶことができたことを思うと、改めてドッグに関する虚しさが去来する。おそらく、今後もドッグに手を差し伸べる者は現れないだろう。結局のところ、本作の両義的な魅力はドッグのような者でも生きていける街として観客の眼前に立ち上がるニューヨークという舞台そのものに起因しているのかもしれない。

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髙橋優
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