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TVアニメ『恋愛フロップス』が示唆する美少女ゲームの帰趨:東浩紀『動物化するポストモダン』の再検討を通じて

はじめに

ある朝僕は目を覚ました後 はっきりと聴いたよ
この世に生きる喜び 悲しみ そして傷だらけの歌を
僕が大人になって きみを忘れても
きっとこの歌だけは ずっと永遠を生きる

(佐藤裕美「ハローグッバイ」)

 2022年12月に放送が終了したTVアニメ『恋愛フロップス』は、「お嫁さん候補」である5人の美少女から言い寄られるという多情な状況を下敷きにして、多層的に悪趣味な構成をとったオリジナルアニメであった。本作は、新味に欠ける「美少女ゲーム」的な布置のラブコメディが展開する前半部と作中の入れ子構造の種明かしを行う後半部に分かれているが、全体を通じて徹底的にお下劣な文芸と意匠で飾り立てられており、美少女ゲームの持つ猥雑さを視聴者に再認識させてくれる。
 前半部では、「聖キクアヌス学園」に通う高校生・柏樹あさひ(CV: 逢坂良太)が5人の美少女――転校生の和泉沢愛生あおい(CV: 伊藤美来)、留学生のアメリア・アーヴィング(CV: 竹達彩奈)、イリーナ・イリューヒナ(CV: 高橋李依)、カリン・イステル(CV: 高野麻里佳)、新任教師のバイ・モンファ(白夢華、CV: 金元寿子)――と出逢い、なしくずしに「イベント」満載の同棲に巻き込まれていく様子が楽しげに描かれる。序盤において、朝の「攻略対象」にあたる5人の美少女には、「桜の木の下」で唐突にノーパン告白をかましたり、ウェディングドレスを着用してラブホテルへの連行を試みたり、むりやり婚姻届に署名させようとしたりと奇行が目立つものの、いずれもシスヘテロ男性にとって都合のいい妄想ファンタジーの範疇にとどまっており、強烈な違和感を生じさせることはない。前半部はどの「攻略対象」が主人公をもっとも「萌え」させられるか――換言すれば「性器的な欲求」(後述)をいかに効率的に満足させられるか――を競うという美少女ゲームの構造に依存しており、しかも先行作品の明示的なパロディとも言いがたい「パラデイクマ」(出来事の漠然としたイメージ)で隅々まで満たされている。
 ところが後半部では、朝が5人の美少女と戯れていた世界は仮想現実世界であって、彼女たちはキャベンディッシュ社が開発した「全知型人工知能」(Artificial Omniscient Intelligence; AOI)なる汎用人工知能であったことが明かされる。キャベンディッシュ社はAOIと人間の共存を目指して、AOIの人間らしい感情の育成を促す実験を行っており、その被験者(AOIテスター)に選ばれた人物こそ朝だったのだ。AOIに合理性だけでは割り切れない人間の感情を理解させるため、各国の研究者は被験者が恋愛感情を抱きうるAOIの開発を競い、前述の5人の美少女を生み出した。こうして、朝は視覚や聴覚だけでなく触覚や味覚まで脳内で再現できる「インタラクティブ・ブレーン・ウェーブ・システム」を使用して、仮想現実世界でAOIとの恋愛シミュレーションに興じることになる。朝と出逢ったばかりの頃、AOIは本当の愛情に関する学習不足のため異常な挙動(前述した奇行)を示していたが、朝との生活のなかでAOIの感情の数値は徐々に改善されていった。実験の首尾は上々に見えたが、AOIの朝に対する好感度が高まるなかでAOIの暴走が生じ、朝は強制的に仮想現実世界へのアクセスを遮断されてしまう。AOIの暴走が現実世界における大規模なシステム障害へと波及するなか、キャベンディッシュ社はイレイサープログラムによるAOIの抹消を試みる。現実世界へ戻された朝は研究者のよし・ファインマン(CV: 藤井ゆきよ)の協力を得て、AOIの開発と暴走には難病で早世した幼馴染・井澤あいが深く関わっていることを知る。朝は自分が目を背けてきた問題と向き合うべく、再び仮想現実世界へ飛び込むことを選択する。
 本稿はまず、本作が後半部に盛り込んだ賢しらで思弁的な設定を読み解きながら、本作が着想源を逆用するという悪趣味な発想に依拠した作品であることを明らかにする。続けて、良くも悪くも美少女ゲームを批評の俎上に載せたパイオニアの一人である東浩紀の著作に改めて立ち返り、東が「動物化」と呼んだオタク系文化を取り巻く状況について再検討を行う。そして、この予備的考察を踏まえて、本作が徹底的にお下劣な文芸と意匠で装飾されていることの意義について論じる。

着想源の逆用:AIと難病ヒロインの狭間で

 本作は、一言で言ってしまえば小賢しい作品である。一方で、シンギュラリティ、メタバース、マインド・アップローディングといったカタカナ語が素人のあいだでも「イケてる」言葉として流行するようになり、「AI」をまるで魔法のように捉えて、なんでもかんでも「AI」に結びつける「AI狂騒」とも言うべき過剰な期待/不安が広がりを見せている昨今にあって、本作は人間とAIの共存という時流に阿ったテーマを採用した。しかし他方で、本作は一昔前に流行した難病ヒロインという属性を持ち出し(*)、AIに意識や感情が芽生えるかという技術的かつ哲学的な問題に接続するなど、温故知新のアピールにも余念がない。

(*)本稿では、美少女ゲームにおける難病ヒロインの歴史を跡づけることは行わない。ただ、美少女ゲームの文脈を度外視しても、ゼロ年代中葉には『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004年)『1リットルの涙』(2005年)といった映画/ドラマがヒットを飛ばすなど、難病ヒロインの喪失を感傷的に消費する空気がお茶の間を通じて醸成されていたことは確かである。

 本作では、一人の科学者の非倫理的行為によって、人工意識の形成という技術的なブレークスルーが遂げられたことになっている。その科学者の名は井澤幸太郎(CV: 大塚明夫)という。井澤博士は病気で余命いくばくもないと宣告された自分の娘・井澤愛(CV: 伊藤美来)――前述した朝の幼馴染――の脳データを利用して、母なるAI「アイ」の開発に成功した。井澤博士の死後、「アイ」はさまざまなAIに応用されるようになり、キャベンディッシュ社のAOI(全知型人工知能)もまた「アイ」をベースに開発されたものだった。それゆえ、AOIの無意識のなかには愛の生前の記憶が眠っており、朝とのふれあいによって愛の意識が表層に浮上することになった。この「もともと生まれるはずのなかった意識」(第12話)が生じたことによって、AOIに予期せぬエラーが発生してしまう。
 愛は生前、朝に対して自分の病状を隠し、気丈に振る舞っていた。その結果、愛は自分の死期が迫っていることを朝に伝えられないまま、この世を去ることになった。だからこそ、愛は朝に合わせる顔がないと考えており、朝に会いたいと思うAOIの感情と齟齬をきたすようになった。このような、朝に会いたい/会いたくないという感情の拮抗によって、朝は仮想現実世界から叩き出されたのだった。しかし、心の傷を抱え、後悔の念に苛まれていたのは愛だけではなかった。朝は愛との死別後、何ヶ月も不登校の状態に陥っており、AOIテスターに応募したのも愛のことを忘れるためだった。だが、朝は強制的なアクセス遮断によって現実世界へ戻ることを余儀なくされ、自分の選択が現実逃避でしかなかったことを思い知る。朝はもう一度愛と会って話をするために――作中の言葉を使えば、立ち止まるきっかけになった「忘れ物」(第11話)を取りに行くために――再び仮想現実世界へ飛び込むことを決断する。
 朝は好乃が管理を引き継いだ井澤博士のデバイスから仮想現実世界へ侵入し、イレイサープログラムの追撃を逃れながら、愛のもとを目指す。紆余曲折を経て愛との再会を果たした朝は、「立ち止まっちゃダメ。前に進むの。あなたならきっとできる」(第10話)、「一緒に過ごした時間が、悲しみよりもずっとずっとたくさんの喜びをくれたこと、幸せをくれたことを忘れちゃダメ」(第12話)といったAOIの言葉に背中を押されて、「どんなに悲しくても、つらくても、それでも、残された時間のなかで、俺たちは一分でも一秒でも一緒にいるべきだったんだ!」という結論に到達する。朝と愛は生前に告げられなかった思いの丈を打ち明け合い、愛の死という事実とようやく対峙した朝は「愛のことを忘れない」ことを宣言する。朝が愛に対する喪の作業を終えると、愛は「最後に夢が叶ってよかった」と言い残して消えていき、現実世界でのシステム障害も解消へ向かう(第12話)。こうして物語は一応の大団円を迎える。
 以上の筋書きを踏まえて、本稿ではAOIに人間の感情を理解させる実験の名称に注目してみたい。第8話において、この実験は「プロジェクト・ペトルーシュカ」と呼ばれている。ペトルーシュカとは、ストラヴィンスキーが作曲を務めたバレエ作品『ペトルーシュカ』(1911年初演)に登場する小さな道化師の人形の名前である。ペトルーシュカは布と木屑の詰め物で作られた人形だが、そのなかには人間の魂が縫いつけられていた。ペトルーシュカは踊り子の人形に恋慕の情を抱いているが、魂を持たない踊り子の人形はペトルーシュカを相手にせず、力強い見た目をしたムーア人の人形に惹かれている。ペトルーシュカは踊り子をめぐってムーア人と争うが、力ではムーア人に敵わず、ムーア人の半月刀に胸を貫かれて動かなくなってしまう。最終的にペトルーシュカは魂だけになって夜空で踊り、他の登場人物が亡霊の出現に恐れ慄くかたちでバレエは終幕を迎える。『ペトルーシュカ』で描かれているのは、人間の模造品にすぎない人形が不釣り合いにも人間の魂を得てしまったことに起因する不幸である。だとすれば、『恋愛フロップス』が前述の実験にペトルーシュカの名を冠したことには、AOIを人間のなりそこないとしか見ていないという悪趣味な含意がある。本作が朝に「人間だとかAIだとか、関係ない!」と言わせつつ(第10話)、AIとガチで恋愛するというフェティシズムには踏み込まない点からも、AOIを単なるデータの器としか見ていないことが窺われる。そのうえ、本作は難病ヒロインの脳髄がAOIの開発に応用されたという悪趣味な設定をもう一段重ねている。『ペトルーシュカ』において明言はされていないものの、仮にペトルーシュカのなかに縫いつけられた魂がもともと誰か他の人間のものだったとしたら、ペトルーシュカの死は魂にとっては解放であり救済でもあったと評価しうる。しかし、『恋愛フロップス』は愛の魂を解放するどころか、反対にAOIに縫いつけることを前提とした非倫理的なプロジェクトにペトルーシュカの名を冠し、愛の鎮魂は幼馴染の朝に委ねるという無責任な構成をとった。これは端的に言って『ペトルーシュカ』の悪趣味な逆用であり、小賢しく仕組まれた感動ポルノの一種でもある。
 だが、賢しらで思弁的な設定の裏側で、密かに進行していたものがある。この点については節を改め、東浩紀『動物化するポストモダン』の再読を通じて分析を進める。

肉慾の勝利:東浩紀『動物化するポストモダン』再読

 肉体を魂の牢獄とみなす考え方は、現世よりも死後の世界に重点を置くものである。そこでは肉体から魂を解放することが目指され、しばしば観念的な態度がとられる。前述した『ペトルーシュカ』は、布と木屑の詰め物で作られた人形を主役に据えることによって、肉体の脆弱さや皮相な肉慾を嫌悪・拒絶し、魂の純粋さや高潔さを思弁的に称揚しているように見える。しかし、いくら思念のみで生きることに憧れたところで、実際には人間は肉体を有しており、生理現象に支配されている。それゆえに、魂を重視する観念的な態度は――「健常者」であることを与件とする物言いにはなるが――肉慾あるいは肉の疼きを制御するという課題にぶつからざるをえない。
 これに対して、『恋愛フロップス』は愛の魂をAOIに縫いつけるというやり方で『ペトルーシュカ』を逆用したことからも明らかなように、魂の座としての肉体/実体に固執している。本作は第12話(最終回)において、愛の魂を成仏させるだけでは飽き足らず、愛の脳データをもとに開発された5人のAOIに現実世界でのビークルを与える結末を用意した。5人は現実世界に接地する機体(しかも外見は美少女)を手に入れて、大学生になった朝の家にいわば「押しかけ女房」として現れるのだ。この「受肉」はAOIをアンドロイドというよりも人形ラブドール、悪く言えば電動オナホールに変えている。朝は人形性愛者ではない。朝を取り巻く5人の人形ラブドール抵抗の意思を奪われ、性的に消費可能なモノと化した女性を表しているのだ。すなわち、これは肉慾の勝利を意味しており、肉慾に寄り添い、効果的に刺激を与えるというジャンルの特性に忠実なエンディングだと言える。本作は「泣きゲー」と「抜きゲー」が表裏一体をなしているということを再認識させてくれる。言い換えれば、美少女ゲームの枠内でいくら思弁的なことをやろうとしても、あるいはそのように切り取って論じようとしても、かえって肉慾を刺激する猥雑さが際立つ結果となってしまう。
 ここで言う肉慾とは、批評家の東浩紀が言う「性器的な欲求」とほとんど同義である。東は『動物化するポストモダン:オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001年)において、アレクサンドル・コジェーヴとラカン派精神分析に依拠して人間的な「欲望」(désir)動物的な「欲求」(besoin)を峻別し、ポストモダン化全体のなかで消費者の「動物化」、すなわち「各人がそれぞれ欠乏―満足の回路を閉じてしまう」ことが生じたと述べていた(同書126-127頁)。
 東が「ポストモダン」という言葉に見出したのは、「大きな物語の凋落」(ジャン=フランソワ・リオタール)を前提とした「シミュラークルの水準で生じる小さな物語への欲求とデータベースの水準で生じる大きな非物語への欲望のあいだのこの解離的な共存」という構造だった(同書125頁)。東はジャン・ボードリヤールの「ポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない『シミュラークル』という中間形態が支配的になる」という予測を紹介したうえで(同書41頁)、「実際にはそれらシミュラークルの下に、良いシミュラークルと悪いシミュラークルを選別する装置=データベースがあり、つねに二次創作の流れを制御しているのだ。……単に無趣味に作られたシミュラークルは、市場で淘汰され、消えゆくのみである」と述べて、独自のデータベース・モデルを提唱した(同書88頁)。また、東は大塚英志の『物語消費論』に触発されて、「小さな物語の背後にありながら、もはや決して物語性をもたないこの領域」を「大きな非物語」とも呼んだ(同書62頁)。つまり、東に言わせれば、「動物化」とは、「小さな物語」と「大きな非物語」の二層構造のなかで、消費者が表層の「小さな物語」ばかりを即物的に消費する行動パターンに陥ることを指していた(**)。

(**)東はこうした図式の正しさを読者に印象づけるために、『機動戦士ガンダム』(に端を発する宇宙世紀のガンダムシリーズ)と『新世紀エヴァンゲリオン』を執拗に対置していた。一方で、東はガンダムシリーズのファンの多くが「ひとつのガンダム世界を精査し充実させる」という「架空の大きな物語への情熱」に取り憑かれていると整理する(同書59頁)。他方で、東は『新世紀エヴァンゲリオン』に関して、「生産者〔注:ガイナックス〕にとってさえ、オリジナルとコピーの区別が消えている」(同書41頁)、「そもそも特権的なオリジナルとしてではなく、むしろ二次創作と同列のシミュラークルとして差し出されていた」(同書61頁)などと述べて、『新世紀エヴァンゲリオン』と『綾波育成計画』を同列に捉える消費者の登場に時代の画期を見る。しかし、東の議論においては、宇宙世紀のガンダムシリーズに対して「アナザーガンダム」がどのような位置にあるのかとか、あるいはMSVやSDガンダムが「二次創作」とはどう違うのかといった論点は抜け落ちている(MSVやSDガンダムは80年代から企画が始まっていたし、『機動戦士SDガンダム』の最初の小編は『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』と同時上映でもあった)。東の提出した図式を無批判に踏襲することには慎重にならなければならないが、本稿では東の主張を一種のテーゼとして受け止め、導き出された結論に即して再検討を加えることにする。

 東は美少女ゲーム(本書では「ギャルゲー」と呼ばれている)を消費するオタクについて、「動物化」の観点から次のように言及している。

動物的な欲求と人間的な欲望が異なるように、性器的な欲求と主体的な「セクシュアリティ」は異なる。そして、成人コミックやギャルゲーを消費する現在のオタクたちの多くは、おそらく、その両者を切り離し、倒錯的なイメージで性器を興奮させることに単に動物的に慣れてしまっている。……しかしそのような興奮は、本質的には神経の問題であり、訓練を積めばだれでも摑めるものでしかない。……だからこそ彼ら〔注:オタク〕は……一方でいくらでも倒錯的なイメージを消費しながら、他方では現実の倒錯に対して驚くほど保守的であるという奇妙な二面性を持っているのである。

(同書130-131頁)

 東は別の箇所で、「オタクたちの行動原理は、あえて連想を働かせれば、冷静な判断力に基づく知的な鑑賞者(意識的な人間)とも、フェティシュに耽溺する性的な主体(無意識的な人間)とも異なり、もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる」(同書129頁)、「オタク系文化における萌え要素の働きは、じつはプロザックや向精神薬とあまり変わらない」(同書139頁)とまで述べている。こうした挑発的な記述がオタク批判の「古典」として継承されなかったのは歴史の皮肉であるが、ともあれ東の言う「奇妙な二面性」は『恋愛フロップス』を飾る徹底的にお下劣な文芸と意匠について考える一助となる。なぜなら、本作はニッチな性的倒錯に寄せたわざとらしい描写とシスヘテロ男性を苛むことがないように調整された保守的ジェンダー観を併せ持っており、視聴者は強めの刺激に攪乱されつつも安心して「性器的な欲求」を満足させることができるからである。この点については、節を改めて具体的に分析を行う。

お下劣さの氾濫:性的倒錯と保守的ジェンダー観の交錯

 本作は、物語の本筋に関わらない細部も含めて、徹底的にお下劣な文芸と意匠で飾り立てられている。まず、どうしようもない下ネタから列挙していくと、「聖キクアヌス学園」(仮想現実世界で朝たちが通う学園)、「俺のバナナは16センチ。」という名前の飲料(第1話)、「Hotel Bchiku」(第5話)、「トコジョーズ TOKOJAWS」というサメ映画のポスター(第5話、第7話、第9話)などが挙げられる(***)。

(***)第8話において、朝が仮想現実世界から現実世界に戻されたことによって、本当の学園の名前が「聖ユリアヌス学園」であったことが明かされる。これは筆者の推測だが、「聖キクアヌス学園」という「菊門」を思わせる名称は、「ユリアヌス」という音に含まれる「百合」の対概念として想定される肛門性交アナルセックスを伴う男性同士の性愛に因んで命名された可能性がある。
 なお、第9話では、現実世界の朝の自室にも「トコジョーズ TOKOJAWS」のポスターが貼ってある様子を見ることができる。どうやら本作においては、現実世界もとてつもなく下品なようで失笑を禁じえない。

 次に、ニッチな性的倒錯に寄せたわざとらしい描写について紹介する。本作は「性器的な欲求」に寄り添いつつも、男根のみならず、睾丸や男性の乳首といった他の性感帯にも執着を示す。本作ではバナナや天狗の鼻といった「男根のメタファー」が駆使されているのは当然として、主人公の金的描写が3回見られ(第1話、第4話、第7話/第7話で朝は裸の状態で睾丸を殴打される)、男性の乳首もしっかりと描かれるなど、「オトコのカラダはキモチいい」と言わんばかりの凝り性を見せている。また、ボールギャグ(第5話、第7話)や全頭拘束マスク(第7話)といったアイテムによってSMプレイを想起させ、CFNM(Clothed Female Naked Male; 着衣の女性と裸の男性)描写を取り入れるなど(第5話、第10話、第12話)、少々癖のある目配せも散見される。特に第12話(最終回)において、愛に対する喪の作業を終えて現実世界に帰還した朝が、自分だけが裸である(バイタルチェックのためと称して昏睡中に女性の手で脱がされていた)ことに事後的に気づくという羞恥のシチュエーションは見逃せない。このシチュエーションは、アニメ的なめらかな身体・皮膚への憧れ――ムダ毛を処理した綺麗な肌を人前に晒す「裸芸人」に対する羨望にも似た感情――を持つ者にとっては、輝いて見えること請け合いだ。
 こうした作為的な描写の数々にもかかわらず、本作は保守的ジェンダー観を貫徹しているため、シスヘテロ男性の視聴者を特殊性癖によって置き去りにしないよう、巧みに調整されている。朝は男性同士であればケツをはたいてもいい、大浴場で股間を隠さなくてもいいという価値観を内面化しているが、相手の男根の大きさや太さには圧倒される(第4話)。朝が「ただ女の子に守られてるわけにはいかないだろ!」と疑うことなく言い放つシーンも、保守的な性別役割分業を視聴者に印象づける(第10話)。
 また、本作のマスコットキャラクターと言うべきラブリン(CV: 井澤詩織)は終始風俗用語を多用する。次回予告のたびに「延長、大丈夫そ?」という井澤詩織の暴力的でざらついた声が耳朶を打ち、徐々に常識的な感覚が麻痺してくるが、冷静に考えて風俗用語は「現代用語の基礎知識」などではない。オープニング映像で目元を隠す愛生あおいの描写も、風俗店のパネルやメンズエステのプロフィール写真を彷彿とさせる。こうした文芸や意匠を即座に理解して笑みを浮かべること(そして、それを相互に誇り合うこと)は、「飲む・打つ・買う」を勲章とするホモソーシャルなオヤジ的価値観の再生産と強化に直結する。

 さらに、本作の背後にはコンドームを面白おかしくイジることで笑いを引き出そうとする下卑た発想も控えている。第6話と第10話(いずれも仮想現実世界のエピソード)には、ヒーニング次元からやってきた妖精、サガミ・オカモト・デラックスSODソド; CV: 加藤英美里)が登場する。SODソド――SOFT ON DEMANDではない――のデザイン・設定・言動は明らかにコンドームという避妊具がモチーフになっている。SODソドは男根を思わせる頭部の触覚にGOMゴム(Great Optical Mirage)を装着しており、「GOMゴムつけててよかったんゴム」、「やっぱりナマはキケンゴム」(第10話)などと語尾に「ゴム」をつけて喋る。また、SODソドの翼は噴き出す精液にも見える。『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年)で少女たちを魔法少女に勧誘するキュゥべえ(インキュベーター)役を演じた加藤英美里に「ボクと契約して、魔法少女になってんゴムよ!」(第6話)と言わせる悪ノリも相俟って、コンドームを揶揄の対象とする野卑な態度はますます際立つ。こうした態度は前述した風俗用語の多用と軌を一にしている。コンドームがアダルトビデオ・風俗・買春といった「性器的な欲求」を満足させる手段と結びついてイメージされるからこそ、「愛のないセックス」を自嘲気味に笑いものにできるわけで、それは本作がシスヘテロ男性向けの美少女ゲームを範とする以上、実は必然であったと言える。もう一歩踏み込んで言えば、コンドームを隠すべき恥ずかしい/いやらしいものとみなす態度は、現実のハラスメントの温床にもなりうる。なぜならそれは、10代女性に対する支援物資のなかにコンドームを入れるのは「“売春”を斡旋してるようにも見える」とか、「未成年の女性に『性病を移されないように売春してね』と税金からコンドームを支援」しているなどと一般社団法人Colaboに対する誹謗中傷を重ねる中年男性の価値観に通じているからである。
 本作は、東の指摘する「一方でいくらでも倒錯的なイメージを消費しながら、他方では現実の倒錯に対して驚くほど保守的であるという奇妙な二面性」が如実に表れた作品だ。前半部のドタバタ感と後半部の小賢しい種明かしは一見すると落差に見えるが、実際には順接と言うべきである。すなわち、本作の徹底的にお下劣な文芸と意匠はシスヘテロ男性の「性器的な欲求」を満足させるためのスパイスであるのみならず、美少女ゲームの持つ猥雑さの根底にある保守的ジェンダー観を防衛するために必要な仕掛けだったのだ。繰り返しになるが、「泣きゲー」と「抜きゲー」は表裏一体をなしているということである。
 本作のタイトルに含まれる「フロップス」とはコンピュータの演算能力(floating-point operations per second; FLOPS)を意味している。第12話(最終回)において、好乃は「恋愛に必要なのはFLOPSじゃないってことさ」と語る。このセリフを恋愛経験のないキャラクターに言わせたのが制作陣の悪意なのかはともかく、筆者はむしろこう考える――本作はflop(まったくの失敗作)であったと。何となれば、本作は繊細な上辺を備えたお涙頂戴ものを愛好する人にとっては既視感に溢れた変わり種にしか見えないし、「性器的な欲求」の満足のために韜晦とうかいを必要としない人にとってはしゃらくさい作劇に見えるからである。だが、本作がflopであったということ自体は、美少女ゲームの構造的限界を垣間見せたという点で評価に値するだろう。

おわりに

 かつて、東は『ゲーム的リアリズムの誕生:動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2007年)所収の論攷において、2000年にKeyが発表した美少女ゲーム『AIR』に対して、「美少女ゲームの本質を揺るがすきわめて『批評的』な作品だった」という評価を下した(同書304頁)。東は「批評的」という形容詞の用法をめぐって、次のように述べていた。

あらためて指摘するまでもなく、『AIR』は普通には批評的な作品ではない。それは、オタクたちの欲望を適度に満たす「泣きゲー」として、消費の論理に則って制作され成功を収めた商品のひとつにすぎない。『AIR』は、おそらく、いかなる批評的な意識もなく制作され、いかなる批評的な意識も必要とされずに消費されている。

(同書323頁)

この作品は、作家自身の意図やユーザーのプレイ感覚とは直接には関係なく、ジャンルが隠していたものを顕在化する通路として機能する。この特徴があるかぎりにおいて、筆者は『AIR』を「批評的」な作品と呼びたいと思う。

(同書324頁)

 東の語り方やスタンスは、先入観を持って受け止められている美少女ゲームのなかにも繊細で優れた「文学的」な作品があることを主張するものであった。しかし、美少女ゲームの上澄みを掬って、いかにも立派なように見せかける手法は悲しい哉、美少女ゲームはおしなべて優れており否定すべくもないと誤読するフォロワーを多数生み出すことになった。ジャンルの歴史や特性を無視して(つまり「マニア語り」を退けて)、横断的に語ることはときに破壊力を持つが、それはあまり賢くない人を不勉強へと掻き立てるアジテーションとしても機能する。「優れた美少女ゲームもある」と「美少女ゲームは優れている」を取り違えてはならない、という普通の話が通じなくなって久しい。いまや、美少女ゲームのキャラクターに限らず「二次元美少女」が公共空間を席巻するようになり、その価値を疑う者に対する攻撃的な態度がインターネットを通じて増幅されている。「二次元美少女」を消費することが日常茶飯事となり、「二次元美少女」が盲目的な全肯定とおぞましい敵意を生み出している今こそ、「性器的な欲求」あるいは肉慾を満足させる「二次元美少女」の猥雑さを改めて認識すべきである。
 最後に、本作の出演者についても二点だけ触れておきたい。といっても、本作の配役は(作為的かはともかく)だいぶオールドファッションであるから、演技面でのコメントはしない。仮想現実世界における朝の親友・伊集院好雄役を演じた福山潤は本作への出演によって、「タマ、ある!」というセリフ(第6話)と「私のタマをあなたにあげる」というセリフ(『イクシオン サーガ DT』第25話)の両方を言った稀有な声優になってしまった。AOIの一人である和泉沢愛生役を演じた伊藤美来は劇中において、恋をすると世界が変わるという先人の言葉を受けて「一度でいい、恋がしてみたい」というセリフを言っていたが(第9話)、まさか放送中に「文春砲」の餌食となるとは思いも寄らなかった。しかも文春オンラインに掲載された下掲記事では『五等分の花嫁』が枕詞とされており、伊藤美来と竹達彩奈を共演させた『恋愛フロップス』の低俗さがいっそう際立つ結果となったのだった。

参考文献

東浩紀『動物化するポストモダン:オタクから見た日本社会』講談社現代新書、2001年。

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生:動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年。

ジェラルディン・マコックラン(井辻朱美訳/ひらいたかこ絵)『バレエ物語集』偕成社、2016年。

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髙橋優
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