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『鬼滅の刃』鼎談企画 歴史編(今井宏昌×嶋理人×髙橋優):戦間期の純情な感情

※本記事は『鬼滅の刃』の原作最終回までのネタバレを含みます。
原作未読の方はご注意ください。
(2024年2月18日追記)
本記事の剽窃が発覚しました。詳細は
こちらの記事をご参照ください。


はじめに

世のなかに鬼の族(うから)は多けれど 人にましてぞ鬼なるはなき
――ソポクレース『アンティゴネー』、第1スタシモン(Soph. Ant. 332-3)
(日本語訳は文学研究者の長谷川晴生氏からのご提案に従った)

 このたび、漫画・アニメ文化にも造詣の深い歴史研究者の二人を招いて、大ヒットが続く『鬼滅の刃』に関するオンライン鼎談を実施した。『鬼滅の刃』はその内容に鑑みて、私一人の力では到底批評できない作品だと判断した。そこで、ある種の「共同研究」として、戦間期の歴史や文化に詳しい二人の専門家を交えて議論を尽くすことにした。三者三様の「言いたいことがあるんだよ」をお楽しみいただけますように。

参加者(敬称略)

今井宏昌(いまい・ひろまさ) 博士(学術)
専攻はドイツ近現代史、主な研究テーマはヴァイマル共和国初期の義勇軍運動とその経験。主要著作に『暴力の経験史:第一次世界大戦後ドイツの義勇軍体験 1918~1923』(法律文化社、2016年)。思い出の作品は『新機動戦記ガンダムW』。
経歴及び業績の詳細はresearchmapを参照。

嶋理人(しま・りひと) 博士(文学)
専攻は近代日本の社会経済史、主な研究テーマは戦間期の電鉄業・電力業と都市化。共著に『近鉄・南海の経営史研究:兼業をめぐって』(五絃舎、2021年)※。思い出の作品は『逮捕しちゃうぞ』。
経歴及び業績の詳細はresearchmapを参照。
※2021年3月13日、同書の刊行を確認したため「近刊予定」から訂正。

髙橋優(たかはし・ゆう) 修士(文学)
専攻は西欧初期中世史(フランク王国史)。大学入学後、先輩諸氏から10年にわたって声優・アニメ批評の薫陶を受ける。思い出の作品は『ぱにぽにだっしゅ!』。

1. アイスブレイク:『鬼滅の刃』を知ったきっかけ

髙橋 本日はお集まりいただき、ありがとうございます。今回は『鬼滅の刃』に関する鼎談ということで早速やっていきたいと思うんですが、初めに『鬼滅の刃』を知ったきっかけについてお伺いできますでしょうか。

 思い出してみても、はっきり認識してないですね。なんか世の中で最近人気だと、どっかで聞いたという感じです。聞いても正直言うと、あんまり関心がなかったんですね。むしろ最近のジャンプでちょっと話を小耳に挟んで、読んでみようかなって思ったのは『約束のネバーランド』の方だったんですけど(まだ読んでないんですが)。実はごく最近まで、舞台設定が大正だってことも知らなかったと、その程度です。

髙橋 嶋さんは、2019年段階では『鬼滅の刃』について名前すら知らなかったということでよろしいですか。

 たぶんそうです。

髙橋 嶋さんの研究テーマは大正時代にも重なってくると思うのですが、そういったところから関心を持ったということではなく、作品を先に知って、後から大正時代が舞台だったことに気付かれたという順番なんですね。

 はい、同じく近代史をやっている友人から、『鬼滅の刃』の機関車描写を見せられて、どう思うかと聞かれたのがきっかけです。

髙橋 機関車ということですと、やはり「無限列車編」が大きかったということでしょうか。

 直接のきっかけは、やはりそこですね。

今井 私の場合、2019年春のアニメ放映開始時期に、周囲の学生さんの間で話題になっていたのを覚えています。ただ私自身はというと、2019年中はあまりアニメを見る時間がなくて、結局そのままになっていました。そんな中、奇しくも2020年の春から在宅ワークを余儀なくされて、そこで気分転換にAmazonプライムでアニメを見始めたのが直接の視聴体験になります。

髙橋 そうしますと、お二人ともジャンプ連載当時から読んでいたとか知っていたということじゃなくて、アニメがきっかけだったということでよろしいでしょうか。

 そうですね。元来ジャンプを読んでるわけじゃないので。

髙橋 私は元々、週刊少年漫画雑誌を読むという習慣がない人間なので、作品自体そもそも知り得なかったですね。大抵の場合、アニメ化してから作品を知って、面白かったら原作漫画も読んでみるというスタンスです。

今井 『鬼滅の刃』という作品を初めて意識したのは、2019年3月に板東ドイツ兵俘虜収容所に関する調査のため、徳島に赴いたときですね。徳島にはufotableのスタジオがありますよね。で、市内に貼られた宣伝用のポスターか何かを目撃したのが、最初に意識した瞬間だったと思います。

髙橋 奇遇ですね(笑)。私も2019年2月9日に、当時まだ活動していた声優ユニット「Wake Up, Girls!」のファイナルライブツアー参戦のために徳島入りしておりまして、その折に鳴門市ドイツ館を訪問しましたよ。ただ、その時は今井さんのおっしゃるポスターには全く気付きませんでした。元々「マチ★アソビ」にも行っていなかったし、『Fate』シリーズにハマってもいなかったので、あまりufotable自体に関心がなかったと言えるかもしれません。

今井 今になって思い返すと、『鬼滅の刃』は大正時代を舞台にしているわけですから、同じく大正期に日本の俘虜になったドイツ兵の調査をしながら、この作品のことを意識したというのは、ある種運命的な出会いだったのかもしれません。

髙橋 「だって可能性感じたんだ、そうだ…ススメ!」ということですね。

2. 大正時代とはいかなる時代だったのか

髙橋 ちょうど大正時代というキーワードが出てきましたので、ここから大正時代の話に入っていきたいと思います。
まず、大正時代という時代設定についてですが、東京新聞ウェブの『鬼滅の刃』に関する記事(2020年1月26日公開)の中で、記者が大学の講師にインタヴューを行っておりまして、次のような記載がありました。

 和洋折衷のスタイルは大正時代という設定にも関わる。「大正デモクラシーやモダニズムのハイカラな魅力があり、明治や昭和と違って戦争などの激動を描かなくても済む。ファンタジーの舞台に選ばれやすい時代です」。一方で、少女漫画「はいからさんが通る」やゲーム「サクラ大戦」など過去の「大正もの」と比べ、「鬼滅-」には際だった新しさがあるという。「鬼殺隊も鬼も貧しさ、悲惨さを抱えていることです」。社会の底辺で育ったり、家庭に問題があったり、それぞれの事情が丁寧に語られる。

 私は日本近代史の専攻というわけではないんですけれども、大正時代を舞台にすると「戦争などの激動を描かなくても済む」というのは、高校の日本史レベルの知識でも違和感のある発言だなあと思います。この点についてはいかがでしょうか。

 そうですね、それは全くその通りで、何と言っても第一次世界大戦のインパクトは、戦場にならなかった日本でも非常に大きいというのは、まあ常識的な見解だと思います。戦場にならなくても、周辺に軍事行動をしていたりするわけですし、それから激動というとですね、大正は最初と最後の間に大きな変化がある時代なので、それは呑気な見解のような気がしました。

今井 嶋さんのおっしゃる通りで、日本は第一次世界大戦期に中国・膠州湾の植民都市・青島(チンタオ)をめぐってドイツと戦争をしていますよね。そこでは日本軍からも1,000名以上の死者が出ています。現在、私はこの日独青島戦争を機に日本国内に設立されたドイツ兵俘虜収容所の調査をしているのですが、この収容所はヨーロッパ戦線の長期化にともなって日本各地に登場しました。そうした意味では、日本にも第一次世界大戦の影響は確実にあったわけですし、その痕跡は今なお残っていると思います。

髙橋 先程の記事の中では、『はいからさんが通る』や『サクラ大戦』といった過去の作品と『鬼滅の刃』の差異についても言及がありました。確かに、『鬼滅の刃』は明治から大正初期を舞台にしているという点で、これらの作品と一線を画していると言うことはできるかもしれません。

 歴史の区分として、大正時代というのはあまりまとまらないというか、例えば第一次大戦もそうですし、あるいは関東大震災とかですね、政治的にも経済的にも文化的にも、大きな変化が大正の年号の中で起こってるんですよね。で、今までの「大正もの」というのは、その変化の後ですね。大正で言えば10年代、西暦で言えば1920年代中盤頃ですね。それと比べると、変化の前の時代というのは珍しいのかもしれません。ただそれはまあ、世間一般の「大正」のイメージとは違って、明治のおまけみたいな時代だと思います。

髙橋 と言いつつ、実際のところ『鬼滅の刃』の中に「大正らしさ」というか、「大正要素」のようなものってあまり見受けられないですよね。

 はい(笑)。正直なところ、舞台設定が江戸時代だろうが戦国時代だろうが大して関係ないんじゃないかというのが率直な感想でした。確かに明治や大正だと、時代物のチャンバラのイメージと近代的な銃とかが一緒に出てくる、ちょっと違うけどスチームパンクとかみたいな、そういう風な舞台設定がしやすいってのはあるかもしれないんですけど、特にそういうことを考えたアクションというわけでもなさそうですよね。私は専門が鉄道とか電車の産業経済史なので、「無限列車編」の話をしますけれども、別にあれも鉄道でなければならないっていうことでもないと思うわけですね。船でも別に話が成り立たないってことはないと思います。

髙橋 強いて言うなら原作第2巻の後半(TVアニメ第8話)で出てくる浅草の街並みとか、(まだアニメ化されていませんが)「無限列車編」に続く「吉原遊郭編」なんかは大正初期の街並みを映し取ろうと努力しているのかなあとは思いますね。それ以外は異空間というか、架空の場所で戦っているシーンが多く、大正伝奇浪漫といった色彩も薄れてくるな……というのが原作を最後まで読んだ感想です。

 私も同様に感じていて、まあそもそも季節感とか自然描写とかあんまりないですよね。物語の中の時間の流れもかなりアバウトで、やっぱりファンタジー空間という感じですよね。時代設定とかにそもそも関心がないんじゃないか、と言うとぶち壊しかもしれませんが。とにかく現代でなければ良かったということなのかなあ、という印象です。
 「無限列車編」の一番不思議な所ってのは、あの列車はどこから来てどこへ行くのかっていうことが全く分からないんですよね。定期運行をしている列車に鬼が忍び込んで、夜行列車の中で人を食う、そこで鬼殺隊士が退治に赴くっていう話でもないらしい。字は違うけれども、夢幻の世界に行く、まあそれこそ銀河鉄道みたいですよね。それでいて最後は物理的に脱線してるので、完全にファンタジーの銀河鉄道の夜というわけではないけれども。結局、肝心の無限列車がいったいどこへ行くのか、それが分からないってのがなんか腑に落ちないところではあるんですね。
 列車というのがどういう人々の心情を反映して描かれるかってのは、辻泉『鉄道少年たちの時代:想像力の社会史』(勁草書房、2018年)って本がありますけど、あの本で戦前の鉄道っていうのは大日本帝国の拡張を人々に印象づけるメディアであった、というような話をしていて、「空想のメディア」だと言ってるわけですね。大正は鉄道の経営史上は黄金時代なんで、どんどん繁栄して輝かしい未来へ行く、鉄道に乗って新しい世界へ行けるっていう、そういう時代のはずなんですね。だけど作品の読まれているのが令和なわけで、そういう輝かしい未来が想像できないから幻の中に逃亡していく、幻を見るために列車に乗るというのは、極めて現代的な描き方なんじゃないかなという気はしました。

髙橋 確かに、無限列車に乗っている子供たちは夢の鬼(下弦の壱・魘夢)に眠らせてもらうために炭治郎たちを襲うという描き方になっていて、それを夢の世界への逃避という風に見ることもできそうですね。『鬼滅の刃』が嶋さんのおっしゃる「輝かしい未来が想像できない」時代に生まれた作品であるというのはおそらく重要で、それはこの作品のバックボーンになっている思想にも関わってくるのではないかと思うんですが、この点については最後に触れたいと思います。

3. 「異常者の集まり」としての鬼殺隊:義勇軍から近代家族へ

髙橋 この作品は主人公たちが鬼を斬るという物語です。そもそも鬼とは何か、鬼はどこから生まれてどこへ行くのかといった問題について、どのように考えればよいのでしょうか。

今井 私は全くの門外漢なのですが、最近『鬼滅の日本史』(小和田哲男監修、宝島社、2020年)という本を知りまして、これを読んでみたところ、鬼には5つのカテゴリーがあるということです。このカテゴリーを提唱したのは、馬場あき子『鬼の研究』(三一書房、1971年;ちくま文庫、1988年)なのですが、『鬼滅の日本史』では「人間でありながら社会秩序から外れ、人間社会に対する抵抗者として描かれる『鬼滅の刃』の鬼と同じ悲哀と特徴を持っている」、つまりは「『鬼滅』の鬼」に最も近い存在として「正史で鬼とされた抵抗勢力」が挙げられています。具体的には、『古事記』『日本書紀』で登場する「土蜘蛛」ですね。神武天皇の「東征」に対する土着の抵抗勢力である彼らは、人ならざる形質をもつ異形の集団として描かれます。また『清水寺縁起絵巻』(16世紀)における坂上田村麻呂の「蝦夷征討」についても、「蝦夷はざんばら髪に粗末な衣のまさに鬼のような姿に描かれている」と指摘されています(『鬼滅の日本史』、190-191頁)。

髙橋 「まつろわぬ民」と呼ばれた人々ですね。そうなると、明治末期から大正初期にかけての「まつろわぬ民」とは誰のことを指しているのかという問題も浮上しますね。やや安直ですが、ここでパッと思い浮かぶのはどうしても大逆事件ですね。

 ただ、大逆事件は厳密には明治の一番最後なんです。だから『鬼滅の刃』の時代は、いわゆる社会主義運動の「冬の時代」ですよね。一時的には鎮圧されて姿が見えなくなっていると。多少の年代は誤差の範囲で構いませんが、まあその鎮圧をさすがに鬼殺隊と重ねるのは危険な話なので(苦笑)。といって、では1910年代後半で日本政府に対して「まつろわぬ民」だったのはっていったら、三一運動とかになるわけなので、どっちに転んでもやばい話にしかならないですね……。

髙橋 お話を伺っていて思ったのですが、鬼自体が何の表象かというよりは、鬼の被害がどのように描かれているのか、鬼と社会の接点はどこにあるのかといった機能主義的な側面に着目して話をした方が有意義かもしれませんね。
 鬼は貧困・格差・悪意につけ込んで広がるという設定になっていますよね。で、実際鬼があちこちで暴れたり人を襲ったりということが繰り返されたら、民衆は怯えるだろう、疑心暗鬼になるだろうと思うのですが、作中で国や政府はこの問題に対しては何もしておらず、民間組織である鬼殺隊の対応に任せています。鬼殺隊士は既に帯刀が禁じられている時代に刀を持って歩いているので、今でいう銃刀法違反なんじゃないかということで駅員から警官を呼ばれたりするシーンもありますね(原作第7巻第54話、TVアニメ第26話)。ですので、どうもこの作品を貫いているのは、国や政府は何もしてくれないので民間レベルで何とかするしかないという、まさに自助・共助の思想なんじゃないかという風に見えてしまいます。ひょっとすると、この作品がヒットしている背景に自助・共助への志向というものがあるのかもしれないですね。

 ジャンプ漫画の「友情・努力・勝利」が、なんだか新自由主義的になってしまったという感じでしょうかね?

髙橋 第1話から既に「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」「弱者には何の権利も選択肢もない、悉く力で強者にねじ伏せられるのみ!!」というセリフが出てきて、結局泣いていても何も始まらないぞ、立ち上がって武器を取らなければならないぞという思想、メッセージが色濃く出てきますよね。

 その思想は私も同じく強く感じましたけれども、ただ一方で、永遠の命を得てどこまでも強くなりたいっていう鬼の野望は否定されると。そのどこに違いがあるのかと、つまりひたすら炭治郎たちが訓練してる回も結構ありますけど、そことの違いはどこにあるのかなってのも気になりますよね。

髙橋 鬼殺隊士と鬼というのは紙一重なように見えます。「無限列車編」では炎柱・煉獄杏寿郎が、上弦の参・猗窩座から「お前も鬼にならないか?」と勧誘を受け、その場ですぐに断ります。ですが、善逸の兄弟子・獪岳にせよ上弦の壱・黒死牟にせよ、剣士から鬼に堕ちてしまうという事例も実際あるわけで、必ずしも「鬼にならないか?」という誘いを断れるとは限らないように思うんです。自己責任論を突き詰めた結果、鬼になることを肯定する者も出てきて、彼らには生存者バイアスが働くというところは、意外に現代的なのかもしれないなとも思いますね。

今井 私の専門というのは、第一次世界大戦後のドイツで結成された志願兵部隊・義勇軍(Freikorps)でして〔注:「ナチスのフライコール」ではない!〕、その参加者たち、ないしは彼らにインタヴューをした作家たちは、義勇軍での経験をその後ヴァイマル期・ナチ期を通じて文学作品としてまとめています。そこでは、敵であるボルシェヴィストやコミュニスト、赤軍兵士(女性も含まれる)が、まさに人間離れした残酷さをもつ集団として登場します。そして面白いのは、「残虐な敵に立ち向かうには、自らもまた残虐にならなければならない」というテーマが複数の義勇軍文学で掲げられている点です。つまり「残虐な敵」と戦う中で自らも段々と敵に似てくるという問題がそこでは描かれているわけでして、このような問題は『鬼滅の刃』以外にも、諫山創『進撃の巨人』石田スイ『東京喰種-トーキョーグール-』などの作品に共通して見られるものだと思います。

髙橋 そうなると、鬼舞辻無惨の「鬼狩りは異常者の集まり」というセリフも、この視角から検討すると何か見えてくるものがあるかもしれないですね。無惨は身内の仇を取るために鬼狩りに固執して鍛錬を続ける鬼殺隊のことを「異常者」だと言ってるわけです。「いつまでもそんなことに拘っていないで、日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう」と言っていて(原作第21巻第181話)、こいつはサイコパスだと話題になっていましたが、むしろ非常に重要な点を突いている発言なのではないかと思えてきますね。

今井 まさにその通りだと思うんですね。つまり、あそこまで強い信念を持って鬼を討伐し、人間を守るための民兵組織を代々維持していくというのは、「常人」の所業ではないわけですよ。

髙橋 『鬼滅の刃』を褒める声として、炭治郎が鬼に同情しつつも最終的には悪鬼を斬るところが魅力だというものがありますが、今井さんのお話を踏まえると、鬼を斬るためには鍛錬を重ねて限りなく鬼に近付かなければならないという風に考えられるわけで、そうすると、最終的に炭治郎がクライマックスで鬼になってしまうというのは示唆的だなと思いました。このように、自分が鬼になる危険を冒してまで鬼を狩る民兵組織であるところの鬼殺隊については、どのように考えるべきなんでしょうか。

今井 鬼殺隊について押さえておくべきは、「政府から正式に認められていない組織」とされている点ですよね(原作第1巻第4話)。なので鬼殺隊というのは、基本的に産屋敷家の私設武装集団なのかなあと。ただし『鬼滅の刃』の元になった短編の「過狩り狩り」(『吾峠呼世晴短編集』所収)という作品がありまして、そこで描かれる鬼殺隊というのは、どうも警官から認知されているし、軍人によって指導されているようなんですね。これは私が専門としている第一次世界大戦後ドイツの志願兵部隊と同じで、当初の鬼殺隊もいわば半軍半民の性格を持った民兵組織として構想されていたのではないかと思います。

髙橋 主人公の腕に識別番号のようなもの(ウ-拾壱号)が入っていて、新米の警官はそれを見ても何のことか分からないんですが、先輩の警官は一目見て自分の同僚、別働隊だということを理解するシーンですよね。

今井  そうなんですよ。私も本編読了後にこの短編を読んで驚きました。この短編には他にも面白いところがあって、珠世や愈史郎がそのまま登場していたり、無惨のプロトタイプが両人と共同戦線を張っていたり、白色人種らしき鬼が登場したり……。そういう意味では大正期という設定はむしろこの短編の方で生かされていたのではと。

髙橋 「過狩り狩り」は吾峠呼世晴に担当編集者が付く前の作品とのことですが、そちらの方が国家権力との関係がより明確に描かれているというのは面白いなと感じました。しかし、『鬼滅の刃』として本誌連載が始まる段になってこうした国家権力との関係、天下国家といった要素は綺麗に落ちていく。その結果どうなったか。

 天下国家の事業として鬼を狩るという観念がない以上、鬼殺隊というのは産屋敷家という「イエ」の「家業」なんですよね。家業として鬼を狩っていく、代々それを受け継いでいく、それが結局鬼殺隊ではないかと。どこまでいっても無惨の個人営業である鬼に対して、代々家業を受け継いでいった産屋敷家が最後に勝つ。鬼殺隊に入る人たちも、血縁者を失ったというのが主人公をはじめ多いわけですが、鬼殺隊に入って疑似的な家族を得る。そういう家族というものもこの作品の一つのテーマなのかなと思うんですけども。蜘蛛の鬼(下弦の伍・累)も「家族」にすごくこだわっていたし。
 で、産屋敷家は勝利するわけですけれども、勝利した途端に家業がなくなってしまうので鬼殺隊は解散する。解散してどうなるかといったら、家業なき家になる、つまり近代家族(*)になる。どこまで作者や編集の方が考えてるのか分かりませんが、まさに大正時代っていうのは日本における近代家族の始まりとされる時代なわけで、その点では大正初期という必然性はあるのかもしれません。

(*)中世末から近世初期に成立したとされる日本の前近代の「イエ」が、家業を中心とした生産共同体であったのに対し、家業を持たない近代に成立した家族を「近代家族」と呼ぶ。近代家族の定義として、もっとも通説的な落合恵美子では、(1) 家内領域と公共領域との分離 (2) 家族構成員相互の強い情緒的関係 (3) 子ども中心主義 (4) 男は公共領域・女は家内領域という性別分業 (5) 家族の集団性の強化 (6) 社交の衰退とプライバシーの成立 (7) 非親族の排除を挙げ、留保しつつ (8) 核家族も指摘している(落合恵美子『21世紀家族へ〔新版〕』有斐閣、1997年、103頁)。すなわち、家業のない家族は消費のみの共同体となり、生計のため父は家の外へ働きに行き、母は家事と育児を担当して、家を仕事(公共領域)から切り離された癒しの空間(プライバシー重視)とすることを求められるようになる。この近代家族像は、揺らぎつつもなお強固なモデルとして続いている。

 大正時代が終わった直後の昭和6(1931)年に書かれた、柳田國男の有名な『明治大正史 世相篇』では、「家永続の願い」という章があって、その最後の節が「家族愛の成長」なんですね。なんで明治大正に家族愛が成長するのかといえば、家業のない家がだんだん増えて、家業より情緒でまとまるようになったから。柳田は教育が「子供本位」になっていることを指摘するんですけど、それは家業の継承より子供の可能性を優先する家族が増えたからで、だから「家の持ち伝えた職業を続けようとする者には、一般にこれは不便なこと」と述べてます(柳田國男『明治大正史 世相篇 新装版』講談社学術文庫、1993年、302頁)。
 これは賛否両論多分あるんだろうと思うんですが、原作漫画の最終回で結局、何だか無理やりハッピーエンドみたいな感じにする時に、だいたい子孫がみんな近代家族的な幸福に落ち着いてしまうと。家業を畳んだら近代家族になりました、っていうわけで、天下国家的な観念がなくて、勝利してもその平和を維持するという発想はないですよね。結局は家族の平和みたいに、身内の安泰でしかないんじゃないかっていうことは言えるかもしれません。鬼は永遠という普遍的な観念を求めるわけですが、それに対して鬼殺隊の方は個別的な情緒に収まってしまうのです。

4. ボーダー上の妹:「白い女」と「赤い女」

髙橋 鬼と並んで、この作品を語る上で外せないのは、炭治郎の妹である禰豆子の存在だと思います。炭治郎と禰豆子の兄妹関係については、恋愛関係ではないので安心感があるといった世評があるようで、この鼎談の序盤で紹介した記事でも「恋人と違い、女性読者も安心して応援できる」と書かれています。
 しかし、インスタントで恐縮ですが、ここで大塚英志『「妹」の運命:萌える近代文学者たち』(思潮社、2011年)という本を見てみますと、日本の近代文学において妹という存在が啓蒙・欲情・凌辱の対象になってきた歴史が紐解かれています。日本の近代文学者たちが妹に「萌え」てきたという風に言われているわけです。こう考えますと、炭治郎が「頑張れ禰豆子」(原作第1巻第1話)、「辛抱するんだ禰豆子!!」「兄ちゃんが誰も傷つけさせないから、眠るんだ禰豆子」(原作第10巻第84話)といったように声をかけるシーンについても、単純に恋愛関係に発展しないような清い関係というよりは、妹に対する何らかの欲望の発露と見ることもできるのではないでしょうか。

 大塚英志の話というのは、妹は語る言葉を持たなくて、兄から文体を与えられるっていう筋だったと思うんですけど、それを言ったらもう禰豆子が猿轡されっぱなしって時点で、完全に言葉を奪われてるってことが見るからに表象されてるわけで、こういう議論に私は詳しくないですが、この点はもっと大事に考える必要があるのかなと。ときどき禰豆子は自分で猿轡を外す時もあるわけですけど、そういう時の彼女の言葉が果たして自分の自立した言葉かっていったら、多分違うんじゃないかなという気がしますね。

今井 人ならざるものとなった「きょうだい」を人間に戻すという話は、有名どころだと既に荒川弘『鋼の錬金術師』(以下、『ハガレン』)で見られたプロットだと思います。『ハガレン』との違いはやはり弟ではなく妹だという点ですよね。そしてこの点で『鬼滅の刃』の兄妹愛は『ハガレン』の兄弟愛と違い、どうしても「異性関係」的な性格を帯びてしまう。なので、髙橋さんが指摘された点はとても重要ではないでしょうか。特に『鬼滅の刃』の内容を全く知らない人が宣伝ポスターを見たときに、果たして炭治郎と禰豆子を「兄妹」だと認識できるかは疑問です。

髙橋 本作については引っかかっているのは、先程述べた『鬼滅の刃』の魅力とされているところにも関係しますが、炭治郎が鬼を絶対に許さないと言いつつ、鬼になった妹に対してのみ、妹は他の鬼とは違うという特別扱いをするという点です。妹は人を食ったことがないから、そしてこれからも食わないからという理由で妹だけは特別な位置に置かれるわけです。

今井 この点について言うと、禰豆子は人間と鬼との境界線上の存在として位置づけられています。そして実はこのようなボーダー上の妹というテーマもまた、戦間期ドイツの義勇軍文学に見られるものです。この義勇軍文学を初めて本格的に、ジェンダー/セクシュアリティ研究の視座から分析した作家に、クラウス・テーヴェライトという人がいます。彼が義勇軍文学の多くにみられる傾向として指摘するのは、主人公の親族女性に代表される「白」のイメージをまとう女性と、主人公が対峙するプロレタリア女性のような「赤」のイメージをまとう女性が、対比的な存在として描かれる点です(クラウス・テーヴェライト『男たちの妄想』全2巻、田村和彦訳、法政大学出版局、1999-2004年)。そしてこの点を踏まえると、禰󠄀豆子は「白い女」(主人公を献身的に支える妹)と「赤い女」(コントロールの効かない鬼女)の境界線上に位置する存在といえるわけでして、またそうした「白と赤」の緊張関係・せめぎあいが物語の軸になっているのも興味深いと思います。

髙橋 「白い女」と「赤い女」の対比という構図は初めて聞いたので、用語法について解説をお願いします。義勇軍文学において、「白い女」と「赤い女」とはそれぞれ何を指しているのでしょうか。

今井 テーヴェライトによると、義勇軍文学には男性を支え国家秩序を安定させる存在としての母・姉妹・看護婦=「白い女」と、男性を誘惑し国家秩序を乱す存在としての娼婦・プロレタリア女性・赤軍女性兵士=「赤い女」という二つのタイプの女性が登場します。前者は基本的に男性に寄り添い尽くすことを義務づけられているがゆえに生気を失い、後者は男性にとって最も危険な存在として殲滅される運命にあります。テーヴェライトはこの点を手がかりとして、ホモソーシャルな空間を好み、女性を渇望しながらも恐れる「兵士的男性」の心性のうちに、男権的・家父長的な支配関係の根源を見出すわけです。

髙橋 この「白い女」と「赤い女」というのは截然と区別されているのでしょうか。つまり、「白い女」が「赤い女」になったり、「赤い女」が「白い女」になったり、ということは起こらないのでしょうか。

今井 大変重要な点ですね。実はこのような、いわば「変色」という現象は義勇軍文学においても描かれています。では「変色」した女性はどうなるかというと、例えばテーヴェライトが分析した小説(Hanns Heinz Ewers, Reiter in deutscher Nacht, Stuttgart 1932)に登場する「主人公の妹」が辿った末路は悲惨です。ドイツは1923年、第一次世界大戦の賠償金不払いを理由に、西部の工業地帯であるルール地方をフランスとベルギーに占領されるのですが、この小説では、このルール占領に対する抵抗が描かれます。そして抵抗者たる主人公がフランス軍に捕らえられてしまうと、その妹は兄を釈放するため、フランス人看守や親フランス的なドイツ人代議士を「誘惑」し「たぶらかす」という策に出ます。そして主人公は最終的に、こうした妹の「献身的行為」のおかげで、晴れて出獄を果たします。ところが妹の末路は悲惨極まりないもので、彼女はフランス人と「姦通」した「裏切り者」として、兄を崇拝する国粋主義的な学生たちに捕まり、惨殺されてしまいます。ここには、男性を「誘惑」する「赤い女」へと「変色」した女性は、その動機がどうであれ、結局殺され排除される運命にある、という「男たちの妄想」が端的にあらわれているといえます(テーヴェライト『男たちの妄想』第1巻、175-183頁)。

髙橋 禰豆子が「ボーダー上の妹」というのは、そういうことなのですね。禰豆子が人間に害をなさない限りにおいて、ぎりぎり「赤い女」への転落を免れているという。

今井 そうですね。「白い女」としての禰豆子は兄である炭治郎をピンチから救うという点で、非常に明確に描かれていると思います。また、「那田蜘蛛山編」で下弦の伍・累の攻撃から炭治郎を助ける際、禰豆子を覚醒させるのは母・葵枝の霊なわけですが、この竈門兄妹の母親というのが割烹着を身につけた典型的な「白い女」というのも面白いところです。ちなみにこの他にも、蟲柱である胡蝶しのぶの私邸・蝶屋敷で炭治郎たちの傷を癒やし、その機能回復を手伝う女性たちもまた「白い女」ではないでしょうか。白いシーツを干すシーンが何度か出てくるのも象徴的です。

 どうでもいいことなんですが、割烹着の発明って確か明治のだいぶ終わりの方だと思うので、大正の頭に山奥の炭焼きの女房が割烹着を着てるってずいぶん洒落てるなあという気がします(笑)。やはり「白い女」でなければならないという必然性があったのかな。

今井 禰豆子が「白い女」から「赤い女」へと「変色」してしまうのではないか、という物語上の緊張が頂点に達するのは、やはり「吉原遊郭編」ですよね。ここでは禰豆子が鬼として本格的に覚醒し、コントロールが効かなくなり、周囲の人間を食べようとする。炭治郎は禰豆子を抑え、なんとかボーダー上の存在にとどめようと苦心するわけですが、この話が炭治郎&禰豆子と鏡像関係にある上弦の陸・妓夫太郎&堕姫の物語でもあり、また遊郭を舞台にしていて、堕姫自身も花魁として身を隠している設定なのも、テーヴェライト的に考えると重要だと思います。

髙橋 個人的には「吉原遊郭編」が一番面白かったですね。まあ、これをアニメ化して子供に見せた時に、遊郭の実態について子供にどのように説明するのかという問題は残りますが……。昨年開催の「性差(ジェンダー)の日本史」展(国立歴史民俗博物館)などの功績もあって、遊郭に対する歴史的関心も高まっていると思います。
 本筋に戻りますと、禰豆子は「白い女」であって兄のピンチに兄を支えるわけですが、敵である堕姫は基本的に妓夫太郎のおんぶにだっこで、自分が首を斬られると「皆で邪魔してアタシをいじめたの!!」(原作第10巻第86話)、「お兄ちゃん何とかして」(原作第11巻第94話)と泣き喚くことしかできないわけですね。無惨も「案の定堕姫が足手纏いだった」(原作第12巻第98話)と、妓夫太郎と堕姫をペアにしたことを後悔するような発言をしています。堕姫は兄を支えられず、男に依存することしかできない「赤い女」です。鬼に「堕ちた」ということ、遊郭に「堕ちた」ということが二重に描かれていて、「吉原遊郭編」は構成として美しいと言えると思います。なお、妓夫太郎が「お兄ちゃん」と呼ばれている点については、泉鏡花『黒百合』(1898年)における「芸妓の兄さん、後家の後見、和尚の姪にて候ものは、油断がならぬ」(『鏡花全集 巻四』岩波書店、1941年、270頁。漢字は新字体に直した)という一節を踏まえると味わい深いですね。芸妓は間夫のことを兄と呼ぶ。女の鬼が遊郭に潜んでいるという設定からして、本当に単なる「お兄ちゃん」なのか、という含みがある(笑)。

 話としては、禰豆子は男に依存する「赤い女」になる恐れがあったのが、「白い女」に戻っていくにつれて猿轡が外れていき、自分の言葉を持って依存しない女になるっていう風に考えることもできるという感じですか。ただ私は、さっきもちょっと言ったように、猿轡の外れた禰豆子が自立した言葉を持てたのかは疑問だと、留保しておきたいと思います。

5. 「自助・共助・公助」論へのカウンターとして

髙橋 最後に、この作品全体を貫く思想というか、メッセージのようなものについても考えてみたいと思います。
 私がこの作品を見ていて思うのは「パッと咲いてパッと散る」という発想が強いということです。人間の成長や能力には限界があって、ある時点でピークを迎えて落ちていくという話が多く見られます。例えば、「無限列車編」でも上弦の参・猗窩座が炎柱・煉獄杏寿郎を勧誘する時には、百年でも二百年鍛錬して人間の限界を超えて強くなれるというところが鬼になるアピールポイントになっています。それに対して杏寿郎は、「老いるからこそ死ぬからこそ堪らなく愛おしく尊いのだ」(原作第8巻第63話)と言って、人間は儚いからこそ美しいのだと主張しますが、これはあまり反論になっていないように思います。結局、鬼と人間の価値観は平行線だという形で片付けられてしまうわけですね。
 また、激しい戦いの中で顔に痣が出るという件についても、痣の者はほぼ例外なく早世するという設定になっていますし、産屋敷家の当主も代々若くして死んでしまう呪いをかけられています。つまり、『鬼滅の刃』においては老いてますます健在という発想がなく、死ぬまで努力をし続けて最後の瞬間まで磨き上げていくというようなことが起こらないように見えます。

 ただ、継国縁壱は年をとっても全く衰えない、むしろ強くなっていく存在と描かれてますが、どうでしょうか。まああの作品の中で縁壱はイレギュラーと言うか超越的な存在なので、他にはあんまりない……?

今井 剣士以外だと、刀鍛冶は年齢を重ねるごとに技術を熟練させていく存在として描かれているのではないでしょうか。実際、炭治郎の日輪刀を打った鋼鐵塚さんの年齢は37歳のようですし、刀鍛冶の里の長老も現役で刀を打っている設定です。ただし、このように生涯をかけて技術を磨いていく姿勢の称揚は、安易な技術(者)礼讃に陥る危険性も孕んでいますよね。「パッと咲いてパッと散る」剣士と、生涯をかけてひたすら技術を磨く刀鍛冶、という前線/銃後な世界観にしかならないのは、やはり問題かなと思います。

 「パッと散る」戦士っていうと、どうしても特攻隊のことを思い起こしてしまうわけですけども、この作品の中でも胡蝶しのぶの作戦は完全に特攻隊なわけですよね。それでも十分やばいと思うんですけど、いちばん恐ろしいのは、産屋敷耀哉が女房子供ともども、特攻というか自爆すると。宗教などが絡んだ自爆テロでも、一家そろって自爆ってのはさすがに……。あそこは無惨の「あの男は完全に常軌を逸している」(原作第16巻第138話)というセリフの方がもっともに思えてしまうというのは、さすがに少年漫画としてまずいのじゃないかと思いますね。

今井 「異常者の集まり」としての鬼殺隊というのは、当時のプロイセン・ドイツの軍事言説において登場する「異国の軍隊」の姿と一面似ているのではと思います。例えば、中島浩貴『国民皆兵とドイツ帝国:一般兵役義務と軍事言説 1871〜1914』(彩流社、2019年)という研究があるのですが、その「補論 軍事的オリエンタリズム」では、高級軍人としての経歴をもつプロイセン・ドイツの軍事著述家らが、オスマン帝国や日本の軍隊に対し、兵士としての特質の重視や精神主義といった観点からポジティヴなまなざしを向けた点が明らかにされています(新渡戸稲造『武士道』の称揚など)。そのようなプロイセン・ドイツの軍人から見た「異国の軍隊」の姿と鬼殺隊のそれがどうしても似合ってしまうのは、『鬼滅の刃』自体がセルフオリエンタリズム的な性格を帯びているからではないでしょうか。

 日本軍の精神主義というと、まあ私は軍事史専門じゃないですけど、日露戦争以後に生まれたと言われてるので、時代的には合ってるのかも……いや、鬼殺隊はもっと前からあったんだからおかしいか。まあともかく、日露戦争後の日本軍が、攻撃精神重視になったといわれています。日本軍の精神主義で有名なのが、昭和初期に陸軍大臣だった荒木貞夫で、竹槍百万本あれば日本は大丈夫だとか言ったという人ですね。竹槍百万本って無茶ですが、一応これには論理があって、第一次世界大戦のような総力戦を戦い抜くのは、貧乏な日本では無理だ、そこでまあ短期決戦で決着するしかない、攻撃精神で突破するしかないと。精神主義にはそれなりのやむを得ざる選択みたいな面があったようなんですね。ただ結果的には、それが第二次世界対戦における特攻隊などの悲劇に結びついてしまった面はあるでしょう。

髙橋 オリエンタリズムと言われてすぐに思い浮かぶのは、サムライ、ニンジャ、ゲイシャ、ハラキリ……といった日本イメージですよね。

今井 全部ありますね(笑)。

 腹切ってましたっけ? 禰豆子が人を食ったら責任取って炭治郎や義勇さんたちが腹を切ると誓う話(原作第6巻第46話、TVアニメ第22話)はありましたけど、実際に切ってはいないですよね。

今井 善逸の師匠は腹切ったじゃないですか。弟子の獪岳が鬼になっちゃったので。ただ禰豆子の時もそうですが、腹を切って責任を取ることにみんな疑問を感じてないのは恐ろしい話ですよ。「アンタが鬼になったせいで爺ちゃんは腹切って死んだ!!!」という善逸怒りの告発に対し、獪岳は「知ったことじゃねぇよ」と返しますが(原作第17巻第144話)、これはリアクションとしてはある意味まともですよね(笑)。

髙橋 善逸は雷の呼吸・壱ノ型しか習得できなかった。獪岳はその事をバカにしていたわけですが、獪岳自身は逆に全ての基礎である壱ノ型だけ習得できなかった。結局、壱ノ型しかできなかった善逸が、壱ノ型を疎かにして鬼に堕ちた兄弟子を斬るということになるわけですから、鬼にならないために我々もそれぞれの壱ノ型を大切にしなければならないのかもしれませんね。皆さんの周辺にも、壱ノ型を疎かにしたことで鬼に堕ちたというような事例があるのではないですか?

今井 恐ろしい話だ……。

 日本史界隈は洒落にならん事例が……。

髙橋 ……雲行きが怪しくなってきたので、話を本筋に戻しましょう。今井さんからご指摘のあった「腹を切って詫びる」という任侠的な責任の取り方は、先だって触れた自助・共助の裏返しとも言えないでしょうか。

 共助の集団が、自立した個人の集合という市民社会的なものにならないで、近世の身分集団的なものになってしまう。それが今でも、物語の中で当然のように描かれてしまうっていうのは、まあ問題かもしれないですね。それと比べると、鬼の方は自助ですよね。無惨から血をもらった後は、人を食って強くなる。その鬼に対して、共助の鬼殺隊が勝利するという話とまとめられますけど、でもそこには公助が全く出てこないとは言えますね。

髙橋 公助は全く出てこないけれど、せめて共助で自助を打ち砕くという形になっている点はぎりぎり評価できるかもしれないですね。

 それはそうだと思います。しかし、鬼を倒したあとは、共助の集団も結局なくなってしまうんですよね。産屋敷家も近代家族になって、家業を中心に一族や疑似家族で団結するという構図はなくなってしまう。
 私はやはり、この物語の最終回はかなり問題があるんじゃないかと思っていて、最後は現代になって登場人物たちの子孫とかが出てくるけれども、皆バラバラの近代家族を形成して、それでいいんだっていう風になってしまっている。共助の集団も結局続かない。それはこの物語が、鬼を倒すのもいわば産屋敷家の私的な家業に過ぎなかったため、世の中をどうしようっていう視野がないので、そうなってしまう弱さがあるんじゃないかなと思うわけです。だから分かりやすい幸せとして、近代家族という形になるしかなかったのかなと。
 さっき天下国家がないという話をしましたけど、髙橋さんが鬼は貧困・格差・悪意につけ込んで広がるという設定を指摘されていて、最初に取り上げた東京新聞の記事でもこの作品が貧困や悲惨さを描いている点を評価していたけれど、鬼殺隊の共助(鬼との戦い)は根本である社会の貧困や格差を是正したり救済するものではないですよね。鬼を倒しても、鬼を生んでしまうような社会の構造は置いといて、みんな近代家族ができて幸せです、という。
 そこで、本編の舞台である大正初期から、最終回で現代まで吹っ飛んで、近代家族を礼賛するという構図の危ないのは、間の巨大な総力戦二つが全く抜けてることですね。鬼は人を食うから悪であり、無惨が千年で食った人間は何千何万にもなったと描かれてますが、無惨が倒された後に、何千何万よりも桁が三つ四つ多い死者を数年で人間が作ってしまった。鬼ももともと人間ですけど、鬼よりも人間の方が恐ろしかった。そういう流れを考えると、やっぱりそこを吹っ飛ばして、近代家族作ってめでたしめでたしってのは、なんかそりゃないよねっていう気がしますね。

髙橋 鬼を打倒した人間が「日本鬼子」にもなりうる、というわけですね。ソポクレースの悲劇『アンティゴネー』の有名な一節を、敢えて『鬼滅の刃』に寄せて訳すなら、「世のなかに鬼の族(うから)は多けれど 人にましてぞ鬼なるはなき」ということになるでしょう(日本語訳は文学研究者の長谷川晴生氏のご提案に従った)。
 本日は色々なお話をいただきましたが、我々はアニメや漫画のキャラクターではありませんから、「パッと咲いてパッと散る」のはなかなか難しいわけです。現実の我々に立ち戻ってみた時には、日々少しずつでも努力をして、経験を積み重ねて歩んでいくしかないのでしょうが、これを強調し過ぎると「努力できない奴はゴミだ」式の自己責任論、新自由主義に絡め取られてしまうという問題もあるので難しい。だからこそ、公助の重要性を今こそ再評価すべきなのではないでしょうか。

(以上)

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