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TVアニメ『アキバ冥途戦争』におけるアキバブームの刻印:メイドに関する偽史的想像力をどのように考えるべきか

※Twitterでの指摘を受けて、本稿の文末に追記を加えました。

博徒の子分は理非を辨へずに、ひたすらに親方の指揮に服從する。

(柳田國男「親方子方」『定本 柳田國男集 第十五巻』筑摩書房、1963年、390頁)

 2022年12月に放送が終了したTVアニメ『アキバ冥途戦争』は、加藤智大による無差別殺傷事件(2008年6月8日)を生むような秋葉原の都市構造の変容を前提とした、マッチポンプ的な作品だった。
 本作は「萌えと暴力について」というキャッチコピーを引っ提げて、秋葉原でメイドとして働く女たちがヤクザ映画さながらの殺し合いを演じる様子を余すところなく描き出す。1999年の秋葉原を舞台に繰り広げられるのは、メイドカフェグループ間の血で血を洗う抗争とメイドカフェグループ内部の内紛だ。本作において、秋葉原はメイドカフェグループの双璧をなすケダモノランドグループメイドリアングループによって牛耳られている。メイドカフェグループは警察ともなあなあの関係を築いており、秋葉原中に系列店のヒエラルヒッシュなネットワークを張り巡らせて、暴力と威力によって秋葉原を事実上支配下に置いている。メイドカフェグループは傘下の系列店から「おひねりちゃん」と称する上納金を徴収しており、十分な額の「おひねりちゃん」を支払えない店舗を締め上げるとともに、組織の幹部に歯向かう反乱分子には容赦ない私的制裁を加える。そんなメイドの実態を知らずに、可愛いメイドに憧れて上京した少女・和平なごみ(CV: 近藤玲奈)が秋葉原のメイドカフェ「とんとことん」に入店するところから、この物語は始まる。なごみはなし崩しに、敵対勢力の壊滅と秋葉原一円支配を目論むケダモノランドグループ代表・(CV: 皆川純子)の陰謀に巻き込まれ、血と硝煙の匂いが漂う危険な街で「メイドとは何か」という問いと向き合うことを余儀なくされる。
 なごみが入店するとんとことんは、ケダモノランドグループの最底辺に位置し、「おひねりちゃん」の支払いに四苦八苦する稼げない系列店である。ある日、とんとことんは「おひねりちゃん」の支払いが滞ったことへのケジメとして、ケダモノランドグループが敵対するメイドリアングループの末端店舗を襲撃する鉄砲玉となるよう命じられる。これは玉砕前提の指令だったが、15年前の抗争で服役していた万年らん(CV: 佐藤利奈)の現場復帰によって、とんとことんはこの無理難題を切り抜けてしまう。嵐子という思わぬ戦力の入店によって、とんとことんは図らずも秋葉原の均衡を破る立役者となっていく。
 本作の見所の一つは、グループと系列店/店長とメイドという垂直的な「親方子方」の関係とメイド同士の水平的な「姉妹の契り」の対抗である。「オッケーだもの!」の唱和に見られるような、上位者に対する絶対服従を旨とする前者の論理にとって、するりと横に逃げていくポテンシャルを持った後者の実践は潜在的な脅威となる。だからこそ、前者は後者の成立にあたって厳粛な形式を備えた杯事を要求した。第6話で描かれるように、後者は当事者間の「契約自由」とはいかず、両当事者が媒酌人と親方の面前で一杯のラーメンを順にすすり、名札を交換するといった特定の儀礼を経て初めて成立する。後者の安定的な存続も前者のお墨付きあるいはお目溢しにかかっており、敵対勢力の末端同士で取り結ばれた後者の関係は前者から厳しく咎められることになる。とはいえ、ケダモノランドグループとメイドリアングループという対立する両勢力はいずれも完全に秋葉原を制圧するにはいたっておらず、両勢力の市街戦を調停する政治権力はまったくの不在であるから、敵対勢力の末端同士で「姉妹の契り」が取り結ばれることを完全に抑止することも難しい。なごみがメイドリアングループに属する「侵略カフェですとろん」のねるら(CV: 石見舞菜香)と大胆にも「姉妹の契り」を結んだ結果、メイドリアングループ内部の私刑によってねるらを失ってしまう展開は、まさしく「世紀末」的な舞台設定やムードも相まって、水平的な連帯の契機を摘み取る親分子分関係の無慈悲さよりも、水平的な関係自体の無力さやはかなさを際立たせている。
 しかし、「姉妹の契り」の後を引く破壊力は死なない。本作の後半において、ケダモノランドグループはメイドリアングループを吸収合併して秋葉原の二大巨頭体制に終止符を打ち、垂直的な系列店統制をますます強めていくが、この改革を主導した凪とて「姉妹の契り」と無縁だったわけではない。凪は現役のメイドだったころ、嵐子と「姉妹の契り」を結んでいた。しかし、育ての親殺しさえ厭わない野心家の凪と穏健派の嵐子はメイドカフェの方向性をめぐって対立し、二人は「姉妹の契り」の解消にいたった。凪は嵐子と疎遠になったあとも、暴力と威力を用いた垂直的な一円支配体制の樹立を志向し続け、それは敵対勢力の吸収合併によって一応達成された。だがそれでも、凪は36歳になっても一介のメイドとして自分の信じた道を貫こうとするかつての「姉妹」・嵐子の生き様に苛まれ、非暴力を謳うなごみが嵐子の後輩メイドとして自分の前に立ちはだかることに苛立つ。ケダモノランドグループはメイドリアングループの吸収合併によって、事実上外敵を駆除した格好となった。それは見方を変えれば、外敵の存在によって組織内部の結束を固めるという常套手段が取れなくなったということでもある。ケダモノランドグループは対立の火種を内部に抱え込むようになり、秋葉原の力学は抗争から内紛へと移り変わっていく。とんとことんのケダモノランドグループ内部での擡頭はこの力学の変化と軌を一にしている。
 本作は抗争と内紛の果てに、因果応報の結末を迎える。第12話(最終回)において、なごみは凪に「なんでメイドさんが殴ったりするんですか? 萌えに銃とかいらなくないですか?」と語りかけるが、凪は「引き金を引かなければ殺される。力がなければアキバでは生き残れない。メイドは奪うか奪われるかだ」とにべもなく述べて取り合わない。なごみと凪の考え方は平行線のまま、なごみは凪の銃撃を受けて負傷し、凪もメイドリアングループの残党メイドとかつて鉄砲玉として利用した御徒町(CV: 平野綾)に殺害される。その後、作中の時間は2018年に飛び、モブキャラの中年男性が「昔はアキバも物騒だったんだよ。銃撃戦とかあって」、「いまじゃ考えられないだろう」と若者に昔話をするシーンが挿入される。こうして、暴力が支配するフィクショナルな秋葉原は、現実の時空の秋葉原に合流する。そして、36歳になったいまも車椅子でメイドを続けるなごみの姿が描かれて、本作は幕を閉じる。
 本作をブラックコメディ作品として面白がっていいか――というより、そもそも本作がブラックコメディ作品として成立しているのかは難しい問題だ。アニメイトタイムズに掲載されたスタッフ座談会(2022年12月27日公開)のなかで、本作の監督を務めた増井壮一は「あっさり言ってしまうと、これは反戦映画なんです」とこじつけめいたことを言っている(増井自身も直後で「こじつけ」であることを匂わせている)。増井はFebriに掲載されたインタビュー記事(2022年12月12日公開)においては、自分が担当したエンディングの絵コンテについて、「この作品は銃でどんどん人を殺しますが、人を殺すためだけの道具って何なんだ、という思いがありました。その終末を見たくて、銃弾は砂糖水に落として、拳銃は塩水に漬けろ、と。使えないようにする、そんな気持ちで描きました」とも語っている。

 しかし、メイドをヤクザになぞらえるトンチキな舞台設定から出発しておいて、「萌えに銃とかいらなくないですか?」というあまりに常識的なちゃぶ台返しをカマすのはマッチポンプ的な作り方としか言いようがなく、見ていてひどく徒労感に襲われる。本作は暴力を貫徹することによって非暴力の尊さを浮かび上がらせる反語的な作りにも、暴力と非暴力を拮抗させることによって暴力の一定の効能を印象づける狡猾な作りにもなっていない。もちろん、自分で立てた前提の正当性を疑って点検し、後から訂正したり取り下げたりするのが批判的な営みであることは論を俟たないが、一つの作品のなかで自己否定をするのは何も言っていないに等しく、積み上げた積み木を崩して遊ぶ子供とやっていることは大差ない。本作は一見すると、最終的に非暴力を勝たせるという常識的な判断ができているように見える。しかしながら、これは判断ではなく前提の誤謬の確認にすぎず、本作において暴力と非暴力は価値判断がなされていないゼロ地点で等価に並び立ったままである。つまるところ、本作は暴力にも非暴力にもさして興味がないことを露呈させており、メイドが暴力を振るい殺し合うという奇をてらった画面を追求しただけの官能を欠いた娯楽作にとどまっている。本作は少なくとも「反戦映画」としては成立していないし、批判精神を備えたブラックコメディ作品として擁護するのも困難を極める。
 さらに言えば、本作は日本のメイドに関する偽史を垂れ流すことにも加担している。この偽史の核心は、メイドをヤクザに見立てたことではなく、メイドが秋葉原を席巻しているという認識そのものだ。本作が架空のギャングによる抗争の舞台に渋谷や池袋ではなく秋葉原を選んだとき、そのまなざしは2000年代中葉に「アキバブーム」を引き起こしたマスコミや無差別殺傷の舞台に秋葉原を選んだ加藤智大の目線と重なり合っていたと言える。本作のプロデューサーを務めた竹中信広も、Febriに掲載されたインタビュー記事(2022年12月13日公開)のなかで、本作の企画を「メイド喫茶ブームもちょっと下火になりかけていた時期」、すなわち13~14年前(2008~2009年ごろ)に「秋葉原で等間隔に並んでチラシを配るメイドさんを見て」思いついたと語っている。この発言から明らかなように、本作が秋葉原通り魔事件(2008年6月8日)の前史としての「アキバブーム」の強い刻印を受けていることは否定しがたい。

 したがって、ここで秋葉原通り魔事件や「アキバブーム」について振り返ってみることは有意義である。意匠論・現代日本文化を研究する森川嘉一郎は、『趣都の誕生:萌える都市アキハバラ 増補版』(幻冬舎文庫、2008年)の増補部分である第六章「趣味の対立」のなかで、秋葉原通り魔事件について次のように述べている。

皮肉な逆説になるが、加藤智大が秋葉原を犯行の舞台として選んだことには……ネットが帯びるようになった力が大きく関係していたようである。加藤容疑者は秋葉原を犯行場所に選んだ理由について、「ネットの世界の人たちにとって最高の場所だから狙った」という供述をした。「ネットの世界の人たちに無視されたので、大きな事件を起こせば見返してやれると思った」という動機である。
 犯行の舞台が秋葉原であれば、単にテレビで大きく報じられるというだけではなく、その報道に際し、ネットは大騒ぎになるに違いない。そのような想像に基づいて秋葉原を選んだのだと、加藤容疑者の供述は解釈できる。テレビで秋葉原が特集される度に、『2ちゃんねる』を始めとする電子掲示板では、それをネタにして盛り上がる。そのようなネット上の「祭り」を引き起こしてみせたかったことが、秋葉原を選んだ理由にとどまらず、犯行にいたらしめた動機であった可能性さえある。

(同書287-288頁)

 森川は、上述箇所に言う「ネットが帯びるようになった力」が膨れ上がった一つの原因を、2000年代中葉にマスコミが引き起こした「アキバブーム」に見ている。秋葉原の電器店は1980年代末から家電市場を郊外型の量販店に奪われ、1990年代に入ると主力商品をパソコンに移していった。この主力商品の交代を契機として、秋葉原は家電中心の家族連れの街から若い男性のパソコンマニアの街へと変貌を遂げ(同書26-30頁)、さらに「パソコンを好む人は、アニメの絵柄のようなキャラクターを好み、そうしたキャラクターが登場するアニメやゲーム、ガレージキットも愛好する傾向がある」(同書56頁)というオタク趣味の構造によって、秋葉原は1990年代末から2000年代初頭にかけて「アニメ絵の美少女が溢れるオタクの趣都」(同書170頁)へと変容していった。だが、この段階においては、メイドカフェなるものは「秋葉原におけるオタク相手の商売の中でも副次的な存在」(同書254, 256頁)にすぎなかった。森川は「メイド喫茶」について、『ガイアの夜明け』第47回放送「生まれ変われ! 電脳都市アキバ~混沌と胎動の街・秋葉原~」(2003年3月9日放送)に言及しつつ、次のように整理している。

 新刊の同人誌というと、通常はコミックマーケットのようなイベントで流通する。ところが、同人誌を求める人々が秋葉原に恒常的に集中するようになったことで、委託販売を行う常設店が成立し、ビルを構えるまでにいたった。秋葉原はあたかもそこで、365日コミックマーケットが開かれているかのような街になったのである。……もともとメイド喫茶とは、秋葉原が365日オタクイベント空間と化したことで、そこにウェイトレスがコスプレをしている模擬店が常設化されたような存在だったのである。
 それは同行の友人と連れだって同人誌や新作ゲームなどを買いに行った帰りに寄る、イベント的雰囲気を拡張した休憩所であり、店員も他の客も同じオタクであるという安心感の下、後ろ指を指されることなく「戦利品」をテーブルに広げて趣味の話に興ずることが出来るところにポイントがあった。その意味でメイド喫茶は、あくまで同人誌などを求めに来た人々を相手に成立した、副次的な商売に過ぎなかったのである。にもかかわらず『ガイアの夜明け』の秋葉原特集では、冒頭近くでメイド喫茶「メイリッシュ」が紹介され、オタクビジネスの先鋒を担う新手の風俗店であるかのような、好奇を強く刺激するイメージが発信された。

(同書265-266頁)

 森川は、「『ガイアの夜明け』が撮影されていたと思われる時期には、秋葉原にメイド喫茶と呼びうる店はせいぜい二、三店しかなかったはずである」と回顧しつつ(同書265頁)、マスコミの過剰な演出によって、秋葉原が「モテないオタク男が、イメクラまがいの店で漫画的なメイドの格好をした店員に『お帰りなさいませ、ご主人様』と言われて癒されに行く場所というイメージ」(同書269-270頁)を帯びるようになったと指摘する。その結果、「オタクをネタにするマスコミと、そのマスコミをネタする原文ママ『2ちゃんねる』のオタクたちが、強い応答関係を形成」するとともに(同書267頁)、興味本位の一見客を相手として「メイド喫茶は20店以上に急増し、コスプレ居酒屋やメイド服のマッサージ店など、喫茶店以外で店員のコスプレを呼び物とする店まで含めると60店以上がひしめくようになった」(同書268頁)。そして店舗の急増に伴い、秋葉原では「しのぎを削る各店のメイドが街頭でチラシを配るようになり……メイドが点在する風景」(同書269頁)が常態化するようになった。こうして、本作のプロデューサーが「秋葉原で等間隔に並んでチラシを配るメイドさん」を本作の着想源とする準備が整ったわけだ。
 本作は「萌え」という強い愛着感情を意味する俗語に焦点を合わせ、「萌え」の典型的な対象として秋葉原の街頭でチラシを配るメイドを見出した。しかし、秋葉原におけるメイドの跋扈を所与のものとして描くのは、マスコミが引き起こした「アキバブーム」の轍を踏むような危うさを秘めている。森川が言うように、「アキバブーム」によって秋葉原は、「見物客の好奇の視線で充満する、オタクにとってもっとも危険な場所に成り変わった」(同書268頁)。この急激な都市構造の変容が、歩行者天国に自己顕示欲に満ちたパフォーマーを引き寄せ、最終的に加藤智大の運転するトラックを呼び込む事態を招いた。この事態に対する根本的な反省を欠いたまま、13~14年前に思いついたアイディアをもとに、「おいしくなぁれ、萌え♡萌え♡キュン♡♡♡」と唱えるメイドを面白おかしく弄り倒すのは浅慮な試みと言わざるをえない。かかる面白さ第一主義は何度でも秋葉原を好奇のまなざしに晒された危険な磁界に変えることだろう。畢竟、「萌えと暴力について」というキャッチコピーは、一見すると「萌え」と暴力の化学反応を意味しているようでいて、そのじつ「萌え」が暴力を生み出すという「過ぎ去ろうとしない過去」を思い起こさせてやまない(ただし、ここで言う暴力とは何の官能的な魅力もない無差別殺傷のことなのだが)。繰り返しになるが、マッチポンプ的な作り方から透けて見えるように、本作は暴力そのものに対する偏愛や執着は持っていない。だがその結果、「萌え」をメディア映えするものとして析出する危うい視線を偽史的想像力によって再現することになったのだから、これは歴史の皮肉としか言いようがない。何となれば、マスコミの「偏向報道」や「オタク・バッシング」を叩くことに余念がないオタクもまた、かつてマスコミが秋葉原のメイドカフェに一方的な好奇のまなざしを向けたように、アナクロな悪ふざけを敢行する本作に似たようなまなざしを向けて楽しんでいるという点で同じ穴の狢なのだから。
 しかしそれでも、本作を完全には見るに堪えないものにしていない要素として、高垣彩陽の卓越したコメディエンヌぶりは評価しておきたい。瞳の大きさや体のラインなどメイドたちとは一線を画したキャラクターデザインで描かれる店長の、無責任で、自己中心的で、幇間的で、シニカルな言行くらいは、たとえ不謹慎と言われようが、笑ってやってもいいだろう。

(2023年4月5日追記)
 
Twitterにおいて、文学研究者の長谷川晴生氏から本記事について以下の指摘を受けた。一覧性と生産性の観点から、本記事への追記というかたちで、長谷川氏の指摘に対する返答を書いておく。

 まず、本作のタイトルは『アキバ冥途戦争』であり、抗争の舞台としてわざわざ秋葉原が選ばれているのだから、「秋葉原のメイド喫茶」を切り口に論じること自体はそれほど変なことではないと考えている。本文中でも言及したように、本作のプロデューサーも「秋葉原で等間隔に並んでチラシを配るメイドさんを見て」本作の着想を得たと証言しており、「新手の風俗店」のように看做された「秋葉原のメイド喫茶」という光景がそこにあったことは文献からも窺われる事実である。もちろん、長谷川氏の指摘するとおり、メイド喫茶の前史として「キャラとしてのメイド」があったことも事実であり、メイドという表象の歴史に関して職業歴史家やメイド愛好家が細かな研究を積み重ねていることは、私も認識はしている(アクセスのしやすさだけで言えば、メイド研究者の久我真樹が運営するアーカイブサイトなどは非常に参考になるだろう)。「秋葉原のメイド喫茶」および本作を日本のメイド文化の大きな文脈のなかに配置するという作業は可能だろうし、私もその意義を否定するつもりはない。ただ、私は本作を論じるにあたって、日本のメイド文化の歴史を深掘りすることが必須であったとまでは考えていない。繰り返しになるが、架空のバトルフィールドや犯罪都市でメイドを戦わせるならともかく、本作が実在する/した秋葉原という都市を舞台に選んだ以上は、「メイド」ではなく「秋葉原」に力点を置いて議論を進めることも可能である。私はそう考えている。
 また、長谷川氏の「メイドに限らず特定のコスチュームを着せた美少女キャラを戦わせるのは、この業界では定番の想像力」という指摘も正当ではあるが、「定番」だからトンチキではないと言えるのかは疑問が残る。学園ものや異世界ものだから美少女からモテまくってもおかしくないとか、美少女アイドルアニメだから声を発する男性キャラクターが登場しないことを気にしたら負けだとか、ジャンルの「お約束」を前提として「コンテンツ」すなわち中身(文芸など)を論じることもできるが、それと同じくらい「お約束」のおかしさ(中立的な言葉遣いをすれば特殊性/独自性)を問題とすることも可能である。この一般論に加えて、本作に関しては「お約束」のおかしさに規定されているというよりは、オタクの悪ふざけが題材の選定を含めて過ぎているという意味でトンチキという言葉を使った次第である。

参考文献

森川嘉一郎『趣都の誕生:萌える都市アキハバラ 増補版』幻冬舎文庫、2008年。

『定本 柳田國男集 第十五巻』筑摩書房、1963年。

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髙橋優
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