数学(2022/5/6):キューネン本2冊についての記事_2.ZFC集合論について論じる前の下準備(一階述語論理、直観主義論理、(厳格な)構成主義的数学)
0.注意書き
(2022/6/5 15:00頃)2022/6/1予告通り大改訂済
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この記事では、分かりやすさのため、『キューネン数学基礎論講義』を『キューネン基礎論』、『集合論』のことを『キューネン集合論』、両者のことを『キューネン本2冊』と呼ぶことにします。
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また、ここに書いてあることが数学の一般的な常識と齟齬があったら、コメント欄でお知らせください。恥をさらすのであれば、いつだって早い方がいい。早く直せるので。取り返しがつくうちに直すのが一番です。
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ただ、自然言語を多用することになりますが、上の話に抵触しない限りは、そこで
「厳密さのために、数学寄りでない人が知らない、広義の数学の単語を徹底しろ。
説明を犠牲にしてでも、数学寄りでない人にも通じる自然言語を使うな」
という話はやめてほしいのです。
数学寄りの人はそうでないと違和感があるのでしょう。そこは広く観測される事態ですし、分かりもします。
が、数学寄りじゃない人に数学を説明する時に、「数学寄りでない人が知らない単語」を使うことを重視したら、数学寄りではない人は警戒心と抵抗感を抱くのです。
知らない単語を多用する説明は、通常は相手に通るような説明の体を成しません。そこはそういうものです。
この記事は数学寄りではない人に独学の内容を説明的に公開する記事なので、その趣旨を「枝葉末節」とした上で、説明を行ったとしても、
「困りますし、そんなことしても趣旨に直ちには寄与しませんし、何なら最終的には悪影響すらあるので、お聞きできません」
としか言えないのです。
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上記の3つの方針で、よろしくお願いいたします。
(以下、本文)
1.キューネン本2冊における「各種」集合論の扱い
1_1.デファクトスタンダードであるZFC集合論
まず、「数学の基礎としての集合論について知りたい」という動機があったとします。
(私は何でもかんでも基礎となるものを探りたい、そしてそこからどうやって上位のものが構築されるのか知りたい、という傾向がおそろしく強く、私はこれを自分で「基礎づけ病」と呼んでおります)
ふつう、集合論のデファクトスタンダードは『ZFC集合論』と呼ばれるものです。
1_2.ZFC集合論の前に整理しておくべきこと
さて、ZFC集合論の前に、整理しておくべきことがいくつかあります。
まず、ZFC集合論を構築するために、論理学を使います。
よって、この記事は、論理学に関する下準備が大半を占めます。よろしく。
1_2_1.論理学の世界(前半)
1_2_1_1.論理体系構築前の論理学のデファクトスタンダード、一階述語論理
論理学というと、少しお詳しい方は、古代ギリシャの著名な学者、アリストテレスのことを思い出すかもしれません。
アリストテレスは単語、特に名詞を扱う論理学、『名辞論理』というものを作りました。
また、「BならCとし、AならBとする。ならば、AならCである」という、よく知られた三段論法を定式化したのも彼です。
歴史的な経緯をいうと、アリストテレス以降は、名詞ではなく文を扱う『命題論理』というものが主流になっていたのです。
そして、今では『述語論理』、特に『一階述語論理』というものが、ある時期からは論理学のデファクトスタンダードとして使われています。
名辞論理や命題論理を(つまり、名詞や文を)統合的に扱えるし、よりいろいろな研究結果が出る、という絶大なメリットがあるからです。
実は、論理学の世界は、今ではそんなことになっていたのですね。
1_2_1_1_1.変数等
一階述語論理ではまず、
・変数と呼ばれるもの
・結合子と呼ばれるもの
・量化子と呼ばれるもの
・補助記号と呼ばれるもの
が出てきます。
いろいろ難しい話もあるのですが(後述)、とりあえずこれらを最初にあるものとして仮定します。
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例えば、中学校等での数学を思い出すと、変数を使う一般的な数式があるのでした。
その変数に具体的な数を代入すると、個別の数式が出来て、実際の計算が出来たのでした。
また、「馬は走る」というふつうの文を一般化すると、「xは走る」「馬はP」、さらには "P(x)" などにできます。
"P(x)" だと、変数 x に何らかの主語、変数 P に何らかの述語を代入すると、具体的な文をほぼ自由自在に作れる訳です。
このように、変数とは、「「単語」や「数」を一般化した「何らかのもの」」であると考えて下さって結構です。
(なお、ここではまだ記号の話をしません。「補助記号」と書いてありますが、実質これは記号ではないと考えて下さい。
記号は変数等を扱うのに非常に便利な道具ですが、はるか後になってからでないと扱いたくないので、はるか後に扱います)
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結合子は、通常の一階述語論理で非常に多用されるものを4つ挙げると、「または」「かつ」「ならば」「でない」です。
これらと、主語の変数や述語の変数を組み合わせると、非常に自由自在に文が作れるようになります。
(ちなみにこの4つは日常的に多用されるのですが、これらをさらに根本的な結合子で統合的に表記することも可能だったりします。
ですが、書くのがだいぶ煩雑になるし、以後の議論の展開にはこの4つで全く問題ないし、この4つの方が扱いが簡単なので、この記事でもこの4つで行きます)
(5つ目の「等しい」、『等号』を想定するものもあります。
通常の一階述語論理は『等号』抜きで考えています。
が、等号を使う一階述語論理には、もちろん大事な性質がたくさんあるので、これについてはいろいろと研究されています。
後で「集合論用の論理学の世界」の話をしますが、これは等号が入っています。詳しくは後述)
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量化子は、通常の一階述語論理で非常に多用されるものを2つ挙げると、「あるいくつかの」「すべての」です。
(「1つの」はないのか、といわれるかもしれませんが、これは上記の2つの量化子の組み合わせでうまく作れます)
これを主語の変数と組み合わせると、やはり自由自在に文が作れるようになります。
(この2つではないものを採用する流派も稀にあります。
ですが、書くのがだいぶ煩雑になるし、以後の議論の展開にはこの2つで全く問題ないので、この記事でもこの2つで行きます)
(また、述語の変数にも量化子を組み合わせることができます。
これを認めた論理学は二階述語論理と言い、とてつもなく自由自在に文が作れるようになります。
ですが、結果として一階述語論理の時より「うまく機能しない文」ができやすくなるため、一階述語論理ほどには多用されません)
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補助記号は "(", ")", "," がそうです。
開括弧や閉括弧やカンマは、後述の論理式の適正な構築や区切りのために重要ではありますが、「そういうものもあるのか」くらいに思って下されば結構です。
正直に言って、以下の議論ではこれを主題にすることはまずないはずです。
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「変数と結合子と量化子と補助記号を統合的に扱える、より一般的な概念とかないんですか」
そういう研究をしている人たちがいないではないのですが、書くのがだいぶ煩雑になるし、以後の議論の展開にはこの4つで全く問題ないので、この記事でもこの4つで行きます。
私も非常に興味があるトピックですが、今回の話でそこまで掘り下げることはないのですね。きりがないし。
1_2_1_1_2.論理式
さっき書いた通り、数学で、変数を使う一般的な数式があって、その変数に具体的な数を代入すると、個別の数式が出来て、実際の計算が出来たのでした。
あの一般的数式は、実際の計算の、広く成り立つパターンを抜き出して、
「この手のパターンの場合、こういう風になる。数を代入したら実際にそうなる」
ということを表すための記法だったのでした。
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また、アリストテレスのやり方に似せると、数式と似たようなことを、日常生活的な文についても行うことになります。
変数を使う文があるとします。
とはいえ、変数があるだけで、実際の単語が代入されているわけではないので、主語や述語が曖昧になっており、正直言って『文』と呼びたくないところです。
先に述べておくと、具体的な主語と述語が揃ったものを『平叙文』と呼び、論理学で使う『文』は基本的にこれです。
そして、主語か述語かその両方が変数となっており、曖昧になっているものを、『論理式』と呼びます。
上の話で言うと、変数に単語をあてはめると、『論理式』は『文』になれます。
「馬はP」または「xは走る」または "P(x)" という論理式を考え、主語となる変数 x に「馬」、述語となる変数 P に「走る」を代入すると、「馬は走る」という文ができる。
論理学ではこういう考え方をします。
もちろん論理学はできるだけ一般的な研究を行いたいので、一般性の最も高い "P(x)" がまず研究の道具または対象として多用されます。
論理学は個々の馬や走る行為に興味が(あまり)ないのですね。むしろ広く通用する一般的なパターンである x や P の方に興味がある訳です。
ちなみに、ふつう数学では、論理式における述語には、たいてい数学的に意味の通る具体的な内容が明記されています。
つまり、
「ここで想定している内容だと、Pとは具体的にはこうである」
と書かれていることが多いのです。
今から書くZFC集合論の公理もほとんどがこれです。
ただし、後述する置換公理図式と(採用しない公理である素朴内包公理図式と)内包公理図式は、図式と呼ばれる論理式です。
図式は「別の論理式を代入して良い変数」というものを含んでいるため、その変数には "φ(x)" とかしか書いてないことがあります。(見覚えのない記号がありますが、φ(ファイ)とは『論理式』を表す際によく使われるギリシャ文字表記です。数学では "P(x)" と書くこともあり、"φ(x)" と書くこともある、くらいに思っていて下さい。)
だから、一番抽象的な "P(x)" が、数学でもときどきは出て来ます。
さて、論理式は数式のようなもので、数ではない値が代入されうるものです。
そして、はるか後に、「論理式を基に、ある種の自然数を構築してしまう」ことにします。
だから、論理式は数式より一般的なものだと思って下さい。
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論理式は、変数と、場合によっては結合子、量化子、補助記号を適正に組み合わせることによってできます。
組み合わせのルールがあるのですが、今回は説明しません。
これで組み合わせた論理式は後々いろいろと使い出がありますが、そうでないものは使い勝手が悪いというか、使い物にならないはずです。
1_2_2.もっとも初歩的な集合論の世界
1_2_2_1.集まり、所属、要素
一般に、集合論で扱うのは、まずは広義にはゆるい『集まり』というものです。
これは中に何が入っていても良い(数学の言葉で言うと『元』または『要素』と呼ばれるものが『所属』する)ことがあったりする。ちなみに、何も所属していなかったりしていても良い。(空集合の箇所で後述)ともかく、何らかのものを入れられる何か、程度のものを、『集まり』とします。
主語の変数に代入できそうに見えますが、その話は後で「集合論用の論理学の世界」で説明します。
1_2_3.論理学の世界(後半)
1_2_3_1.演繹
さて、論理学は
「正しいことを言っている文から、正しい話の展開で、正しいことを言っている文を導き出したい」
がためにあるのです。
ある意味、「論理式による証明の作法」、『演繹』が、論理学の真髄ということになります。
演繹とは、次の条件をみたす論理式の集まり "(φ1 , ... , φn)" のことです。
(ということで、実際にはここで集まりを使います)
前提となる文の集まりがあった場合、最初に使用可能な『論理式』 φi は、前提となる文の集まりに所属していなければなりません。
(ここでも集まりを使っている、ということです。)
あるいは、「これを真のものであるとする」という条件めいたものを定める『公理』も、最初に使用可能な『論理式』として認められます。
(証明の特に最初の方はこの2種類だけになります。)
また、先立つ論理式 φ1,..,φ(i-1) から特定のルール(『推論規則』。これ自体も『論理式』で表される)によって得られた『論理式』も使用可能です。
(証明の途中に出てきます。)
末尾の論理式 φn は、目的となる『論理式』です。
(証明では結論を求めるのですから、これがなくては困ります)
それ以外の『論理式』は、演繹から排除されます。
(証明において無意味ですので、ふつう証明の中に持たないようにします。
こういうものを学校で証明の時に書いたら、減点ないし×にされるはずです。)
こうして、論理学で要請される初歩的な概念は、概ね出揃ったと言えます。
次へ行きましょう。
1_2_4.集合論用の論理学の世界
重要な話として、『集まり』を主語の変数として、『等号』を結合子として、『所属』を述語の変数として、追加で使って良いことにした、「集合論用の論理学の世界」が考えられます。
今から使うのは基本的にこれです。
要は、「論理式の集まり」のみならず、「集まりの論理式」がありうる。という話だと思って下さい。
1_2_5.論理体系の世界(前半)
演繹のルール、推論規則には、いろんなものがあり、それに従ってなされる演繹の体系を、しばしば論理体系と呼びます。
推論規則の中でも、特に重要なものがあります。
『矛盾推論規則』または『爆発律』と呼ばれるもの
『排中律』と呼ばれるものと、その派生(『二重否定除去則』、『背理法』)
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1.と2.の前提として、
「ある主張に対する文は、それを主張する文と、それを否定する文がある」
「ある主張に対する文と、それを否定する文が、同時に成り立つ場合、これを『矛盾』と呼ぶ」
という話があります。
1.について説明しますと、
「矛盾からは何でも言える」
ということです。
つまり、
「「Aであり、Aではない」ということが言えたら、何だって言えてしまうし、どちらにせよ正しいことになってしまうではないか」
ということです。
ただ、これも考えるべき点があり、
「Aについては何だって言える」
ということと、
「Aと関係ないことについても何だって言える」
ということは、まあ別でしょう。
後者を重んじ、
「何だって言えるように見えるが、それはAについてだけで、その他の話についてまで何だって言える訳ではない」
とする立場も当然ありえます。
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2について説明しますと、
・「ある主張に対する文は、それを主張する文と、それを否定する文の、いずれかしか論理学では使用できない」とする公理を『排中律』
・「これを否定する文が偽であった場合、結論としてこの文は真であるのと同じ効果があるとみなす」とする推論規則を『二重否定除去則』
・「この文を直接証明する代わりに、今回これを否定する文を証明したら矛盾したので、これをもって結論としてこの文が直接証明されたのと同じ効果があるとみなす」推論規則を『背理法』
と呼びます。
前原昭二『記号論理入門』には、『排中律』から『二重否定除去則』を、『二重否定除去則』から『背理法』を正当化する話が出てきます。
(前原昭二『記号論理入門』は、ジャンルとしては論理学のものです。
ちなみに、ページ数のこともあり、キューネン本2冊を読むより、体感的にははるかに楽です。
もし関心がありましたらぜひどうぞ)
1_2_5_1.矛盾許容論理、最小論理
1.も2.も持たない論理体系は、『矛盾許容論理』と呼ばれ、特に『最小論理』と呼ばれるものが代表的です。
この論理体系だと、
「何だって言えるように見えるが、実際には何だって言える訳ではない」
とする立場が成り立ちます。
キューネン本2冊ではこれを扱うことはありませんので、特に説明しません。
1_2_5_2.直観主義論理
1.を持つが2.を持たない論理体系は、『直観主義論理』と呼ばれます。
キューネン本2冊で扱う概念はある箇所までは実はこれで作られています。
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ただし、『直観主義論理』の立場からは、『排中律』『二重否定除去則』『背理法』は採用できないので、これらを使うありとあらゆる証明ができません。
なので、それ以上の証明は、『排中律』『二重否定除去則』『背理法』も採用した論理体系、『古典論理』を使わざるを得なくなります。
そんな訳で、1.も2.も持つ論理体系、『古典論理』の話になるわけですが、これについては実際に使う段になってから初めて説明を行います。
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何が言いたいかというと、推論規則の制約により、いくつかの種類の『論理体系』の世界がありうるし、それぞれによって作れるものが違う、ということです。
(この記事では『直観主義論理』と『古典論理』の話がメインになります)
1_2_6.メタ理論の世界
1_2_6_1.様々なメタ理論とその射程(1)
それはそれとして、いくつか、気を付けねばならないことがあります。
「ある種の理論を外から扱う」プロセスは、『メタ理論』と呼ばれます。
今から行う、「ある種の理論を構築する「前に」必要な、ある種の根本的な数学的対象を構成する」プロセスは、メタ理論の一環であり、もちろん非常に重要なプロセスです。
キューネン本2冊を読んでいる限りですと、こうしたメタ理論で要求されている態度は、
「証明抜きで真であると仮定できる概念から出発すること」
「決められたプロセスで構成できるものしか扱わないこと」
です。
一見ごもっともな態度です。
これなら、真である概念しかない理論ができそうですし、そういう理論は信頼できそうです。
しかしこれは、さっき一瞬触れた背理法や、古典論理や、そしてそれらによって正当化されるある種の無限とは、相性の悪い考え方です。
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背理法は
「ある主張の文と、それを否定する文があるとする。
排中律では、ある文か否定文かどちらかが必ず正しいので、否定文が矛盾するなら、ある文の方は正しい」
という考え方です。
(後で『古典論理』の項目で説明するつもりでしたが、あらかじめここで書いておきます。)
この正当性については議論があるでしょう。
「ある文か否定文かどちらかが正しい」
というのは、
「ある意味で同時にどちらも成り立つ」
「ある意味で同時にどちらでもない」
という態度を認めません。
これだと日常生活で困ることもあります。
それに、少なくともこれは間接的な正当化であって、直接構成している訳でないのですね。
そうなると、背理法を使っている高度な論理体系や高度な集合論は、正直なところ、メタ理論とは呼び難いところがあります。
そして、このように間接的な正当化を行って得られる体系や概念については、
「メタ理論として真であるものから直接的に構成されたわけではない。
間接的な正当化を受け入れて、留保つきになるが、真であるものの一部と認めるか、そうでないか、という姿勢が問われる」
という、2段階の扱いが要請されます。
要するに、
「どれだけ確実に真だと言えるか」
の度合いが、直接的な構成と間接的な正当化とで、違うのですね。
前者はまだ信頼できるが、後者を信頼するのは嫌だ、という人がいます。
しばしば、前者のことを構成主義的数学、前者しか認めない立場のことを数学的構成主義と呼びます。
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さっきも言いましたが、彼らの姿勢を徹底すると、間接的な正当化で得られる全ての体系や概念は認められなくなるのです。
そうなると、数学や、それに基づく学問や、それらが発見した法則によって扱われる様々な現象は、ほぼ全面的に正当性を疑われることになります。
「今の数学や学問や法則や現象がおかしい? 間違っているから正されるべき? 構成主義的数学の方がより正しいんだからしょうがない?
そこまで言うなら、構成主義的数学だけで、数学や学問や法則や現象を全部説明しきってくれよ。問題意識と是正のニーズがある言い出しっぺがやってくれよ。
こちらにはそんなものはないんだよ。こちらは、当然だが、現象の説明に役立つ法則がまず欲しいんだよ。それが第一のニーズに決まってるだろ。
もちろん、その法則が正当であるかないかを判定するプロセスは必要だよ。インチキな説明は困るよ。そりゃあそうだよ。
でも、そもそもその、より正しいメタ理論とやらが、目の前の現象の代替的な説明をちゃんと構築できないなら、そのメタ理論は目の前の現象とは全く関係ない、ってことにしかならないだろ。
それでは、そんなもので判定されても困るんだよな。説明をなんら改善しないんだから。正しかったら説明できなくてもいい、というようでは困るんだよな。
そんなもの、今ここにおいては、要らない」
基本的にはこのように扱われているように見えます。
どうもうまくいってないように見えますね。
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とはいえ、メタ理論は「より正しい」ように見えるし、正しい時点でやはり大事なものです。
後でちゃんと、何らかの手段で、現行の現象の説明に活かせるかもしれない。
そうでなくても、間接的な正当化の「弱い」正しさの由来として、直接的な構成には、やはり絶大な意義がある。
とりあえず、直接的な構成で、メタ理論をちゃんと構築することにしましょう。
間接的な正当化が必要になったら、その時初めて考えましょう。
1_2_6_1_1.おまけ:変数等は真にあるものと仮定するが、今回その正当化は行わない
とりあえず、「真にあると仮定されたもの」として、変数等を出発点に置きます。
これでメタ論理を構築できるだけ構築します。
本当のことをいうと、
「今は変数等に基づいて数学を構成するが、これらの変数等を「真に正しいもの」として、そして「出発点」として扱うことは正当化されるのか。
これらにまたしても循環定義めいた曖昧さが眠っているのではないか」
という話は、依然としてあるのです。
私はここは、
「数学的には猛烈な実効性があり、証明上も問題ないように見えるので、とりあえず暫定的に正当なものとして扱う」
くらいの横着な態度でいます。良くない姿勢ですね。
(「真に正しいもの」、『真理』についてのもっと詰めた議論は、『真理論』というジャンルがきちんと存在するし、そこで何らかの解決策が示されているのかもしれませんが、私はこの分野についてはほとんど詳しくないので、何も言えません。)
1_2_6_1_2.(厳格な)構成主義的数学によってまずは自然数の構築を目指す
1_2_6_1_2_1.最小論理等の矛盾許容論理ではキューネン本2冊の(厳格な)構成主義的数学路線は使えない疑いが強い
キューネン本2冊では、ある地点まで直観主義論理を使って様々な数学的対象を構成します。
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「最小論理等の矛盾許容論理ではダメなのか?」
と疑うこともできますが、キューネン本2冊では、矛盾推論規則すなわち爆発律については、初手からかなり注意深く前提されているように見えます。
このため、矛盾推論規則または爆発律を直観主義論理から省いた、最小論理等の矛盾許容論理では、キューネン方式での自然数の構成はできないように見えます。
ひょっとしたら、矛盾許容論理を使って、自然数と、記号による矛盾許容論理を展開しきれる、なんらかの方法があるのかもしれない。
あるいは、自然数までたどり着かないが、より厳格な構成主義的数学が、ある程度まで構成できるのかもしれない。
でも、私は矛盾許容論理について詳しくないので、これについては何も言う資格がないのですね。
1_2_6_1_2_2.直観主義論理でキューネン本2冊の(厳格な)構成主義的数学路線を使って自然数の構築を目指す
歴史的な話をすると、『構成主義的数学』とは、しばしば「集まりとそれを集めたもの全てで作られ、あるいはそれらから直観主義論理のみで導かれた、全てのものからなる数学」のことです。
メタ理論は「ある種の根本的な数学的対象を構成する」プロセスであるため、基本的には構成主義的数学の手法がそのほとんどを占めます。(キューネン集合論の第I章13節および14節でこの話が出てきます。)
『構成主義的数学』の中でも特に、『集まりから自然数までと、そこから直観主義論理によって構成されるものからなる数学しか認めない』立場がありえます。個人的に『(厳格な)構成主義的数学』と呼ぶ立場です。背理法を使わないで直観主義論理に頼ると、これは避けられなくなります。
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何度か慎重に読むと、キューネン本2冊では、「基数としての自然数」、『有限基数』とか『個数』とか呼ばれるものの構成までにおいては、『排中律』も『二重否定除去則』も『背理法』も全く使っておらず、『直観主義論理』を貫徹しているように見えます。
1_3.自然数より前の集合論の世界
そんな訳で、集合論用の論理学の世界から、直観主義論理の演繹を行うことで、様々な数学的対象を、とりあえず作れるところまで作ります。
とりあえずの目標は前述の「基数としての自然数」、『有限基数』とか『個数』とか呼ばれるものまでです。
そうなのです。なじみ深い自然数が作れてしまうのです。
どうやって?
次回からそれを見ていきましょう。乞うご期待。
(続く)