随筆(2021/9/26):不安や苛立ちや退屈があると、人は自ら疲労や苦痛を求めることがある(特大主語)
1.皆さま、連休、いかがお過ごしでしょうか。私はダメです
皆様、連休、いかがお過ごしでしょうか。
私はダメです。
いや、連休は運良くちゃんと取れたんですよ。
で、本当のことを言えば、とにかく寝たり運動したり風呂入ったり、身体に良いことをするのが一番なんですよ。
実際には?
確かに寝たり運動したり風呂入ったりもしていますが、ずーっと読めずに後回しにしていた数学の本を、結局のところは読んでいますね。
それをやると、進捗はあるだろうし、脳も整理されるかも知れないが、疲れ果てることは分かり切っているのに。
何やってんだよ俺。
2.不安や苛立ちや退屈があると、人は自ら疲労や苦痛を求めることがある(特大主語)
で、ふと、思い至ったことがあります。
人(特大主語)は、いったん忙しいのに慣れてしまうと、
「忙しくないと、いつもと違う慣れない状況なので不安だし、片付いていないと苛立つし、忙しさによる鋭い刺激がないと退屈でボンヤリと腑抜けた状態になる。
なので、自ら疲労や苦痛を伴う仕事を求めるようになる」
という、平たく言ってだいぶ病的な状態になる。ということです。
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よく言われることですけど、
「人間は快楽を求めて苦痛を避けたがる。これが最も支配的な行動原理である」
という話、あるじゃないですか。
快楽原則が最も支配的かどうかはここでは問いません。
が、これじゃない回路が、しばしば人間の行動に支配的な影響を及ぼすことがある訳です。
だから上の理屈以外採用しないと、そこで足元を掬われてしまうんですよ。
そもそも、そんな事態、考えもしていないのだとしたら、これはとてつもない脆弱性です。
それ、ふつうに、死にますよ。
3.これらは、感受性の話である以前に、情報と認知の話でもある
で、「慣れないと不安」「片付いていないと苛立つ」「鋭い刺激がないと退屈」という話、もう一つ気を付けるべきところがあって。
これらは、感受性の話である以前に、情報と認知の話でもあるんですよね。
つまりは、気の持ちようではどうにもならないところがある。ということです。
3.1.「慣れないと不安」
慣れ、馴化とは、心理学の教科書にしばしば載ってることがあるくらいのマジモンの記憶の大家、スクワイア&カンデル『記憶のしくみ』(上)で、第一章から説明されていますが、神経水準での初歩的な記憶の在り方の一つです。
似たような刺激が何度も来た場合。
しかもそれが安全な、どうでもいい刺激である場合。
つまりは、それにいちいち反応しない方が、適応的であることがよくある。だから、反応が鈍くなる。これが、馴化です。
逆に、そうでない刺激は、神経記憶水準では「慣れない」。
(『記憶のしくみ』(上)では触れられていないが、話の筋として)感受性においては「不安」をもたらす。
3.2.「片付いていないと苛立つ」
また、「片付いていないと苛立つ」というのも、「片付いているべき情報、安全であるべき環境」に辿り着いていないと、安全じゃないというリスクがあるからです。
しかもそれは、片付けるのは自分だ。自力でやれる。自分で制御下に置いてしかるべきだ。
だから、逃げられるようにしておいた方がよい不安なムードとは、微妙に話が違ってくる。
「コントロールできているべきなのに、できていないとは、不愉快極まる」ということになるんですよ。
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だから、この苛立ちは、支配・排除・攻撃的傾向を帯びます。
(もちろん苛立ちとはそういうものであるが)
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これを「忌まわしい」という人もいるかも知れないが、少なくとも
「肯定的な関係を結ぶ相手ではない『何か』や『誰か』」
に対して、何らの支配・排除・攻撃的傾向も帯びないとなると、「何か」や「誰か」が迷惑な問題をもたらしている場合、基本的に解決は不可能になります。
解決するために、お願いをする。
というのが通じるような、肯定的な関係を結ぶ。
そういうことに、人はしばしば失敗することがある。
というか、皆さん、しょっちゅう失敗しているでしょう。
何なら、ここで「成功したことしかない」と豪語している人の物の見方、非常に疑わしいではないですか。
んで、肯定的な関係の構築に失敗したとなると、後は問題状況の支配・問題要因の排除・妨害者への攻撃を行うしかなくなる。
何なら初手からこれをやった方が、早く、だからダメージも少ない。
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それを嫌うなら、放置しても良い。
が、それは端的に
「迷惑を野放しにしている」
と言うことにしかなり得ない。
ダメージは膨れ上がり、いつかこれを受けている自分や自分以外が潰れる。
じゃあ、
「支配・排除・攻撃的傾向のない人たち」
とは、
「迷惑を野放しにして、ダメージを増やす、潜在的な敵」
でしかあり得えません。
少なくとも、そう難じられた時に、
「私は妨害していないから、潜在的な敵ではない」
という、よくありがちな話をしたら、
「野放しにはしとるやろ」
と一蹴されるだけでしょう。よく見た光景です。
だから、少なくとも問題解決においては、何らのメリットもなく、デメリットはあり、だからいかなる信頼も得られないでしょう。何なら邪魔っけな石ころと同様に排除の対象になる。
「そんな余力がない」
というのは、誰しもそうです。
だからしょうがないのだが、だったら
「逆恨みされて攻撃されることはしょうがないし、それでものうのうと生きる」
ということでしかあり得なくなる。
のうのうと生きるし、そこで逆恨みされてボコられるリスクはあるし、
「だから何なんだ、自分はのうのうと生きるぞ」
ということです。
じゃあ、逆恨みされて攻撃されることについては、一定のリスクとして、諦めなければならない。
攻撃を受けながら、「だから何なんだ」と言い張り、翌日ものうのうと生きる。これがスジというものです。
(刑法レベルの話になったら、警察を呼びましょう)
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そういう意味では、
「片付いていないと苛立つ」
のは、ある特定の場面において、明らかに適応的な回路です。
これがいつまで経っても適応的でなくなるような日は、来ない。
そもそも、これを忌み嫌う人自体、いずれこれに頼る日が来るであろう。
そういう時に、醜態を晒さないようにしような。
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ただ、本人や周囲は、たいてい、困る。
その意味では、そういう時は、この苛立ちは、不適応の顕われである。
そこは、やはり、解決ないし軽減はされねばならない。
3.3.「鋭い刺激がないと退屈」
「鋭い刺激がないと退屈」というのは、馴化とは逆の、鋭敏化に関するプロセスです。
(これもカンデル&スクワイア『記憶のしくみ』(上)第一章で説明されているものです)
いくつかの刺激に関しては、何度か来たら、それは何らかの「効果」に関するものなので、その反応は直ちに強力に繰り出されなければなりません。
これが、鋭敏化です。
(ここからは『記憶のしくみ』(上)第一章にない話になりますが、話の筋として)そういうのが人間の中にビルトインされているため、逆にある程度は刺激がないと、人間はバグります。
だって、世の中には「慣れるべき刺激」と「敏感になるべき刺激」があるはずで、片方だけというのは不自然です。
そういう不自然な環境で適応的に生きていけるように、人間はできていない。
馴化だけが進行すると、これは「慣れるべき刺激」だけになります。そりゃあ、バグるよ。
だからこそ、「敏感になるべき刺激」を、たくさん受けたくなるし、そうでないと違和感を覚えるようになるんですね。
3.4.これらは要するに、苦痛以前にある、そういう不自然さ、違和感、「しっくりと来ない」という感性が、その基盤である
「慣れないと不安」「片付いていないと苛立つ」「鋭い刺激がないと退屈」。
これらは要するに、苦痛以前にある、そういう不自然さ、違和感です。
そもそも疲労も苦痛も、不自然さ、違和感、「しっくりと来ない」という感性の、実はバリエーションの一つです。
快楽や苦痛による行動原理は狭い公理系にすぎない。もっと広く見たら、自然さと違和感による行動原理で見た方が、より適切な場合は多々ある。
それほど、「しっくりと来ない」という感性は、無視せざるべきものがあります。
4.神経の健康のため、嫌でも刺激を避けて、神経を整えて、回復に専念する。不安や苛立ちや退屈などの感受性の話は、それから後の話だ
とはいえ、感受性や、その礎となる情報や認知よりも、さらに基礎的な、しばしば大事なものがあって。
情報や認知や感受性は、神経の上に載っている機能である訳です。
神経が不健康、病的だったら、そりゃあ情報や認知や感受性にも悪影響がありうる。
というか、よくそうなっている。
だから、神経の健康のことを考えると、退屈でも刺激を避けて、神経を整えて、回復に専念しなければならない。という話に、なってしまうのです。
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これは、「慣れないと不安」「片付いていないと苛立つ」「鋭い刺激がないと退屈」、ひいては「しっくりと来ない」というのに、当然メチャクチャ引っ掛かります。
忙しい人が休むの、慣れないことですよ。
休むのと、仕事を片付けるのとは、少なくともその瞬間は相容れない行為ですよ。
で、休むなら、それは、鋭い刺激を避けた方がいい。当然、退屈にならざるを得ない。
しっくりとは、来ない。
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ですが、
「神経が興奮し続けて、鈍くもなっていて、強い刺激がないと退屈になっている」
というの、
「弱い刺激でも退屈しのぎができる、楽しい」
というのより、どう考えても疲労や苦痛に近いですよ。
強い刺激を追うとか、そういうのは解決にならない。
「強い刺激が欲しい」なら欲しいで構わないが、それとは別に「解決をしたい」のなら、どちらかはその時点では諦めろ。という話は避けがたいように思う。
刹那的でなく、中長期的なことを考えるなら、神経レベルの解決は、どうしたってやらなければならない。
その刹那的な強い刺激は、神経の健康を犠牲にして得られている。それは、いずれ、枯死する資源だ。
枯死する前に、回復はさせた方がいいですよ。できれば、一定の水準を超えるまでの健康を確立させましょう。
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強い健康は、より強い刺激を、可能にしてくれるでしょう。
むしろ、「今までのへっぴり腰の刺激は、何だったんだ」となるはずです。
寝て起きて、爽やかだった日が、あった。
そういうときの世界は、全行動がフィーバーして、何もかも輝いていた。あれはヤバかった。
今は、眠い。
世界、クソ鈍い。
何だこれは。ふざけんなよ。
そういうことです。
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不安や苛立ちや退屈や、違和感などの感受性の話は、神経が健康をある程度取り戻した、それから後の話だ。
だから、しっかり、休みましょう。
(いじょうです)
(今日も憩ってます)