随筆(2021/1/16):諦めて、許さなければ、心を許した人間関係は出来ない
1.明らかであることと、諦めること
昔の仏教に関する話をします(どんな話の枕だよ)。
世界で生きて死んでいくことへの「苦悩」に立ち向かうため、ゴータマ・シッダールタ、御釈迦様は、「真実」をもってどうこうする手段に訴えました。
「世界で生きて死んでいくことは本質的に苦悩と切り離せません(苦諦)。
なんでこうなるのか? 無駄な妄執がたくさんの苦悩を招いているからです(集諦)。
じゃあどうするか? それはもう、無駄な妄執をなくすことですよね(滅諦)。
そのために、無駄な妄執をなくす実践、やっていきましょう(道諦)」
これの四連の認識のことを、「四諦」と言います。
我々多くの日本人は、「諦」というと、「あきらめる」という意味合いでとらえがちですが、仏教では「さとる」という意味合いになります。
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見えてない、分かっていない、あるいは根本的に誤解した「無明」があり、例えばそれが死の恐怖等の妄執、「煩悩」をもたらしている。(無明を煩悩のカテゴリーの中に入れることもある)
「無明」が明らかになって、見えて分かって筋が通る、「悟る」と、そんな煩悩は矛盾した無意味なカテゴリーエラーであることが分かり、バカバカしくなり、執着する気になれなくなる。
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例えば、死の恐怖で言うと、世の中のものは永遠に存在し続けられるようには出来ていない。これを「無常」という。
なのに「存在し続けないと嫌だなあ」と思っていたら、そりゃあキツイに決まってる。しかもこれは解決不能だ。
「そこは、そういうものだから、その要求は無駄なのだから、無駄な要求をするな」という話になってくる。
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(口で言うのは簡単だが、もちろん実際に心底こう思えるようになるまで、そりゃあ面倒な過程が待っている訳です。
それに、まあ、
「お前は腹減っとらんのか? そんなものはバカバカしいからどうでもいい? こっちは現に血糖値が低下して腹減っとんのじゃい」
とか
「お前は何も復讐の動機を持たんのか? そんなものはバカバカしいからどうでもいい? 火を無視すんな。こっちは火傷しとんのじゃい」
とか、そういう「苦悩」というより「苦痛」に関する話は避けがたくある。
だけど、その話は今回はしません)
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で、「無明が明らかになる、悟る」という意味の「諦」は、
「そこは、そういうものだから、その要求は無駄なのだから、無駄な要求をするな」
というのをもたらす。
「無駄な要求をするな」ということで、要求を取り下げるのは、我々がふつう使う「諦め」そのものですね。
なので、実は「悟りとしての諦」と「諦めとしての諦」はちゃんとつながっている。ということが分かってきます。
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(仏教では、真理と悟りと諦めと平静、あるいは矛盾と誤解と妄執と苦悩は、ほとんどセットになっているように見えます。
これは、御釈迦様の動機が「苦悩をどうこうするため」であり、その結果が「苦悩は、矛盾した無意味なカテゴリーエラーによる、無駄な要求が招いている」という発見であり、だからを手段と目的の一連の列として扱うのは、むしろ仏教の問題意識からすれば当たり前のことだとも言えます)
2.ロマンスの神様+幻想殺し(イマジンブレイカー)=真幻滅大戦
(親父殿 この章題はなんかの悪魔合体にござるか)
(左様)
(左様って…)
(だって、思いついたから)
(そんな昔の『はてなグループ』の『文投げ部』の小説ブログみたいな…)
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さて、今回の本題は
「諦めて、許さなければ、心を許した人間関係は出来ない」
という話なのです。
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心を許した人間関係とそうでない人間関係については、色恋沙汰のたとえが極めて分かりやすいので、その話をします。(煩悩の話やんけ)
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何かというと、色恋沙汰にはいろんな段階があり、たとえば「ロマンス」の段階や、「親密さ」の段階があったりします。
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遺憾ながら、ロマンスの段階では、相手に心を許す必要はありません。
キラキラした魅惑的な夢を見せてくれる相手と、キラキラした魅惑的な夢を見る自分がいればいいのです。
これはテレビと視聴者の関係に近い。
視聴者がテレビに心を許すか?
それは心を許しているのではなく、相手をコンテンツだと思って油断していて、人間だと思ってないだけでは?
平たく言えば、目の前の現実を、皮膚感覚や切迫感を伴って、受け留めてないからでは?
テレビ観てんのか?
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もちろん、親密さの段階では心を許すこと(または、警戒を解いていること)は強く要請されます。
心を許した(あるいはもっと油断して、警戒を解いた)相手だからこそ、手も握る訳です。
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ロマンスの段階では、相手のことは幻想の中でキラキラと輝いて見える。
親密さの段階では、心を許せるかどうかという、自分の一番脆くて柔らかい私的領域に関わる話なので、現実の相手をシビアに見なければならない。
前者から後者への間で、幻想はある程度殺がれるし、そこで幻滅がある。
これはそういうものです。仕方ありません。
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もちろん、ロマンスはキラキラしていて素晴らしい。
ということで、夢見心地でロマンスだけやっていたいのなら、現実の相手を見る親密さは諦めるしかない。
未だに親密さに至る条件も見えないのに、無理にそれをやる必要もないので、ロマンスとかそういうのをやっていればいいのです。
親密さに至る条件に無理解のまま、親密さをやると、脆くて柔らかい私的領域はグチャグチャになるし、危険だから。
3.親密さの時にまで100点満点主義を強いるな。50点主義で行こう
最初に自分の認識の話をしましたし、次に相手への評価の話もしました。
それに照らし合わせると、ロマンスの時には、100点満点主義どころか、5000兆億点加算方式主義をやってて当たり前だ。
「相手は5000兆億点」。そう言いたくなる時がある。
そういう時にまで、「そういう物の見方をするな」とは、口が裂けても言えない。
そんな態度で行われる色恋沙汰には、ロマンスのキラキラは最初から含まれていない。
当然、キラキラした宝物のような思い出を残すことも出来なくなる。
そんな相手と、なぜ好き好んで親密になれる?
(画像は、キラキラした宝物のような思い出の中で今も生きる、昔飼っていた猫、ステラちゃんです。
この写真撮ったのも今みたいな冬の日だったな。
正に5000兆億点の写真だ。気分としてはこんな感じ)
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しかし、親密さの時は話が変わる。
5000兆億点加算方式主義どころか、100点満点主義すら有害になる。
なぜか?
自分にとって100点満点の、都合の良い人間は、いないからです。
ケチをつけたくなる相手に、心なんか許せる訳がない。
まして、ケチをつけられた相手が、心なんか許す訳がない。
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人間関係は、ある程度進むと、
「相手に何かお願いをする」
とか、
「好かれたい相手のために、相手が喜ぶ楽しいことを、何かしたくなる」
とか、
「してもらったことに有難味があった場合、そのお礼をしないと気が済まなくなる」
ことは、まず避けられなくなる。
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「そんな、お歳暮の社交や、ビジネスの取引みたいな真似、嫌だなあ」?
相手とかかわりを持つことは、「メッセージのやり取り」だけじゃなくて、「(プレゼントを含む)リソースのやりとり」や、「サービスのやりとり」や、「共同のイベント」ということも含まれる。
(ちなみにこれらは、後者になればなるほど、深い関係を前提として要求されるはずです)
後者三つが排除されるという理由はどこにもない。
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もし「そうだと思っていた」のなら、これは残念ながら誤解である。
「そういう関係しか嫌だ」というのなら、それは残念ながらそういう執着だ。
要するに、
「自分は他人と浅い関係しか結びたくない。深い関係などお断りだ」
と、外形的にはそういう意味になってしまう。
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それはそれでしょうがない。
浅い関係をこなせていないのに、深い関係なんか、面倒の元でしょう。
だが、深い関係を外形的には要するに拒みながら、内心では望むの、まあ無茶な要求というものだろう。そこはせめて弁えておかねばならない。
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メッセージだけの付き合いだと、上っ面に留まる。
ある程度心を許した人間関係をやるなら、それはどうしても、リソースやサービスの(つまりは「出来たか否か」の閾値や「満足するか否か」の量が問われうる)レベルで、
「相手にお願いがあるので、お願いをする」
という話と、
「相手のためにする」
という話と、
「相手に見合うだけ報いる」
という話は、避けられないように思う。
自然とそれは、「出来たか否か」の閾値や「満足するか否か」の量の概念を加味した、贈与慣行や公正取引の性質を帯びてくる。
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とはいえ、そうした贈与慣行や公正取引は、場合によっては、出来なかったり、足りなかったりする。
そうなったら、相手としては、「ええー」くらいのことは言いたくもなるだろう。
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で、そういう場合、相手のたった一回の失敗や何らかの不備で、「裏切られた」となって、人間関係を終わらせてしまう人がいる。
気持ちはまあ分かるが、これでは当然、人間関係というものは長続きしなくなる。
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もちろんプレゼントやサービスが出来ていればいいのだが、さっきも書いた通り、出来る時と出来ない時がある。
どんなにやる気があっても、どんなに努力しても、ダメだった、という時がある。
これが仕事関係なら
「御社の意図も努力も存じません。成果が十分に出ていないのなら、金を満額で払う謂れはないし、今後契約はないと考えて下さい」
と言われても、まあ(細かい例外の話は法律に従うが、大筋は)しょうがない。
金などのリソースや、サービスなどの成果は、物や事であって、人じゃない。人に対するものとはまた別の論理が働く。
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が、仕事でない人間関係なら、
「お前の意図も努力も存じません」
と言われたら、
「は? 要するに俺の意図も努力も認めぬ? 俺は人間じゃない? 人間扱いに値しない? ほほー。そうでっか。やってられまへんな」
とは、まあなりますね。
意図や努力は認めた方がいいし、そこでちゃんとしていた相手を、失敗したからといって、むやみに切り捨てない方がいいですよ。
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そもそもそういう、「失敗を一切許さない」系の、100点満点主義の人と付き合う場合、相手は
「こいつはサドンデス系の地雷原人間だ」
と非常に警戒するようになる。
「最初から、そういう人と、人間関係なんか結ばなきゃいいんだ」
そういう姿勢で臨まれることになる。
だから100点満点主義の人は、人間関係からどんどん締め出されていく。
最終的に何の旨味も手助けもなく、最悪の場合、福祉の手助けに対し、
「公の僕ともあろう立場の者が、なぜ100点満点のサービスを給付できない?」
とキレ散らかして蹴っ飛ばしてしまい、そうして人生が終わる。
不毛な話だ。
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だから。
50点主義で行こう。
50点で当たり前。49点でキレない。51点なら大したものだ。
そういう姿勢が大事になってきます。
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100点満点を、相手に要求しない方がいい。そんなものは現実的ではない。失敗は、常に、ありうる。
そういう、50点主義の精神でいた方が、多くのものを締め出さずに済むし、自分が多くのものから締め出されずに済む。
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今回のヘッダは、アレクサンダー・ポープという英国詩人の著作『批評論』の一節で、
「過ちは人の常、赦すは神の業」
という意味の文が書かれています。
人の過ちを赦すということは、そういう認識と覚悟がなければ出来ないことだ。
が、神の業とまでは言わない。
人にも、出来る。
4.他人の失敗や不備は、ある程度は許す。これこそが、心を許した人間関係の、賢者の石だ
「50点主義の精神」は、他人に幻滅する姿勢であると同時に、他人を許す姿勢でもある。
「意図も努力も認められて、失敗したというだけなら、その他人を何回かは許しておく。
また、達成水準が100点満点でない、不備があったとしても、それをもって直ちにサドンデスとしない」
そういう姿勢が大事です。
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これは一見、失礼な上から目線に見えるが、実はそういう単純な話でもない。
そもそもこれが出来ていないと、
「出来ていて当たり前」
という、非現実的な甘ったれた下から目線と、
「出来ていなかったら許さない」
という、やはり上から目線の、ミックスになるだけだからだ。
しかもこれは有害な目線だ。それはしばしば、無茶な要求の無理強いをもたらすのだから。
盗人猛々しい。誰しもそんな要求をされる謂れはない。
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許す能力を欠いていることを、「厳しさ」と称して肯定するの、よくないですよ。
それは、無礼の肯定なんですよ。
無礼をやって、つまりは「他人などどうでもよく、蹂躙しようがどうでもいい」という態度を示して、他人とやっていく社交や処世のテーブル上で受け入れられようとするの、話がおかしいんですよ。
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食い物にされない。
贈与慣行や公正取引を行う。
その上で。
他人のプレゼントやサービス上の失敗や不備を許す。
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こういう人は、他人から
「こいつはサドンデス系の地雷原人間ではない」
と安心して付き合ってもらえるし、心を許した人間関係の構築もしてもらえる。
他人の失敗を許すことこそ、心を許した人間関係の、賢者の石だ。
諦めて、許して、そして、やっていきましょう。
私もあなたも、諦められて、許されて、やっていってもらっているのだから。
***
そして。
他人の失敗や不備を、許すことが出来ないなら。
まして、心を許されることに、意義を感じないなら。
許さないでいい。
その時宜を得ていないのだから、やるだけ無理な話だ。
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心を許されることに意義を認めるようになったら、やはり他人の失敗や不備は許さなければならない。
そこら辺は、自分の脳髄とよく相談しながら、見極めていきましょう。
***
許すことは綺麗事ではない。
少なくとも、「自分が心を許されるために」という動機を、「醜く卑しい」と低く評価する人、います。
***
だから何だ。
それがどうした。
そこはその人の中の匙加減だ。
外野がごちゃごちゃ抜かすの、自分と他人の区別がついていないんじゃないか。
じゃあ、カテゴリーエラーですよ。
自分と他人は違う。
ここを揺るがせにした状態で、自分の望む何事かを他人にさせたいという要求、誰も呑めねえんだ。
***
自分が許したいと思ったのなら、断固として許していきましょう。
(いじょうです)