随筆(2020/7/5):単純な物の見方しか出来ない人と、キレイゴトしか認めない人の、近さ(下)キレイゴトは、認知バイアスたりうる
4.認知バイアスとしてのキレイゴト
4_1.「神聖/堕落」価値の顕れとしてのキレイゴト
さて、価値多元主義の一つとして考慮しなければならない、今そこにある価値観、「神聖/堕落」に着目してみましょう。
実践面での「あれをしろ、これをするな」とは少しズレた、成果面での「ああであれ、こうであるな」という、美醜の判断と非常に相性のいい価値観。
平たく言うと、「キレイゴト」という話です。
4_2.キレイゴトの隣接領域(特に政治)
「キレイゴト」は「美」に近いので、「ととのった」ものへの志向がかなり強い。
これはしばしば(常にそうであるとは思わないが)「効率」とも親和性がある。ととのったものはしばしば効率がよいからだ。
そして、自分の仕事に自覚的な政治家は、基本的に、人々をうまく動員する政局のために「美」を重んじるし、公共にかかわる業務をうまく采配する政策のために「効率」を重んじる。
メリアムが『政治権力』で言うように、特に政治権力の基盤として、納得するための理屈の源である信念、クレデンダと、崇拝の感情、ミランダが大事になってくる。
有難いことに、「キレイゴト」は、理屈(クレデンダ)と感情(ミランダ)を同時に満たす。
そりゃあ、ライバルに先んじて目端の利くタイプの政治家の先生たちは、「キレイゴト」のことを、「ものすごく便利なもの」として考えるでしょうね。
そして、美しく、ととのった、効率的な、キレイゴトを好む政治家の先生が、現実と価値のすり合わせではなく、価値(キレイゴト)の現実への押し付けとして、世俗世間の社会をやるようになる。
これは、とてつもなく、困る。
あくまですり合わせはしなきゃならんのだから、一方的な押し付けをしてうまく行く訳がない。
これは、現実と、価値と、社会の間の、避けがたいズレだ。
そこは、最終的には社会をやる政治家の先生が、すっ飛ばしちゃいけないところでしょう。
(もちろん、現実を価値に押し付けて、「だって金になるじゃん」と言って不正をガンガンやる政治家の先生もダメです。少なくともそれは政治じゃないぞ。政治を不正に食い物にした、ただの「そういう」経営だ)
4_3.認知バイアスとしてのキレイゴト
で、ここには大きな問題がある。
こうして説明される理屈は、「うつくしいととのったもの」によって構築されるか、「うつくしくなくととのっていないもの」を「うつくしいととのったもの」でデコレーションしたものだ。
というか、下手すると、「うつくしくなくととのっていないもの」を
「そんなものはない。目の錯覚だ。「それこそが」認知バイアスだ」
と言って、「なかったことにする」ことすらある。
これは、要するに、目の錯覚かどうかの話をしている訳だ。
じゃあ、己も何らかの目の錯覚を持ち、これを排除出来ていないし、そういう実践をそもそもしておらず、仕組みも持たないやつらが、とやかく言うんじゃねー。
目のゴミを取ったそばから、新しく目にゴミを入れてくるんじゃねー。
そこの話がすっ飛ばされているようなら、そんなもんダメに決まってるだろう。そんなやつらのやることなすこと、ただの「出たら目」にしかならねーんだよ。
何もかも右も左も分からないよりはマシかも知れない。
だが、そういうキレイゴトは、認知バイアスを明確に含む。
というか、「見たいものしか見ないし、見たくないものは見えない」ようになる。
「うつくしくなくととのっていないものは、たとえ現実にあろうが、見たくない。
なかったことにしたい。
ということで、そんなものは、ない」
こういうのが好きな人たちには、キレイゴトは非常に馴染みやすいだろう。
が、しかしそれでは、複雑な現実はガリガリと見えなくなるんですよね。解像度は低くなってしまう。
こんなんで現実の問題を解決出来ると思うか? 私は無理だと思う。
いつか、見えている人には露骨に見える地雷の兆候が、その人たちには見えなくなり、「地雷を踏んだらサヨウナラ」になる。
そうなってしまうの、少なくとも、俺、やだ…
そういうのを強いられたくない…
4_4.とはいえ、社会にはいろんな人がいるので、社交や処世で高い解像度を振り回す訳にはいかない
とはいえ、社会にはいろんな人がいるので、社交や処世で高い解像度を振り回す訳にはいかない訳です。
ここで言う、いろんな人とは、物事や人の解像度にグラデーションのある人たち、というニュアンスで言っています。
で、高い解像度を振り回して、それを万人に要求して、社交や処世をやると、まあ無理ですよ。
そんなもん、「今出来ていない? 今すぐ出来ていろ。はい出来た。やれ」なんてので、一足飛びに出来る訳ないじゃん。
これについては、「ある種の」物事の解像度が高い人たちは、直ちに納得してもらえると思う。
そういう人たちは、少なくとも「今出来ている人」と「今出来ていない人」が違うということも、同じ方法を振りかざして同じ結果になる訳がないということも、百も承知でしょう。
「何を甘ったれたことを言っとるんだ。そんなもん根性でクリアするんじゃい」?
「困難な道のりを根性による馬力で突破」とかだったら、まだいいよ。
「「方位」は分かるが「距離」までは知れない」というやつなら、その方位で距離をやればいい。ここは確かに根性でどうにかなるところがかなりある。
でも、「絶望的に非効率的な総当たりを、超高速でやれば、いつかは終わる」というの、やめた方がいいですよ。方位も距離も分からないのなら、根性が天文学的に要るもの。
根性が枯渇して、廃人になる度合いも、爆上がりになってしまうだろう。
じゃあ、そういうの、ダメなんだって。他人に要求していいことじゃないんだって。
そういう、「高い解像度を振り回して万人に強いるシバキ根性論者」の人たちと違って、ふつうの人はそこまで解像度の高さにこだわってない。
というか、それが必要なのは、一般に、何らかの意味でデリケートな人たちに限られてくる。
そういう人に配慮出来るというのは、もちろんとてつもない優しさですよ。
でも、「これはやると世の中で善く機能することだから、万人が、資源を顧みずに、出来ているべきだ」というの、何も「優しくない」からね。
閾値を超えられないのに、資源を吐き出させて、全部無駄にさせてスッカラカンにさせるの、むしろ、「人を被害の状態に持っていきたい」鬼畜の所業ということに、とても見えるのだが…
そこを、それでも、「高い解像度を万人が気合い入れて持て」とは、口が避けても言いたくない…
4_5.とはいえ、社会のいろんな人のために、社会は回らなきゃならないので、それなりの解像度はどうしてもあった方が良くなる
もちろん、全く話がかみ合わないくらいし、社会が回らないくらいの、解像度のバラつきは、困る。
ここはどうしても、一応社会が回る程度には、解像度を上げてもらう。という類いの話は避けられなくなる。
だからこそ、義務教育等が、制度としてかなり有効だと認められている訳だ。
うまくいけば、成績のいい人たちが、もっと社会を活発に回せるようになる。
だが、それはそれ、これはこれだ。一応社会を回すための教育、社会を活発に回すための高度な教育、両方やらなきゃならない。
まして、
「後者のために前者には達成出来なくなってもらう。悪くは思うまいね」
なんていう人がいたら、まあ
「他所様の教育行政の予算の財布に、平然と手を突っ込んでんじゃねえ。盗人猛々しい」
とは、そりゃあなるよ…
(終わらなかったので、次回で終わらせます。(下)の次は(結)です。よろしく)
(ええー…何言ってんのこいつ…)