秩父事件ってなあに?〜秩父事件140周年に寄せて①〜
1.はじめに
10月の日曜日、娘から「秩父事件の椋神社に行きたい。」とせがまれ、折りからの秋晴れに誘われて、椋神社を訪れることにしました。
椋神社は、明治17年(1884年)11月1日、秩父困民党が蜂起した場所ということで有名です。
せっかく秩父事件にゆかりのある椋神社へ行くので、見学先を椋神社に加えて、「道の駅龍勢会館」に設置されている秩父事件資料館である井上伝蔵邸と、石間(いさま)交流学習館の3ヶ所を巡ることにしました。
椋神社は、名前の通り、椋の木が多数植栽されていて、境内は秋の日差しを浴びて、明るい雰囲気でした。
神社といえば、どこも常緑樹がびっしり植樹されていて、昼なお暗いところが多いのですが、椋神社は明るいのです。
冬になり椋の木が落葉すれば境内は裸木ばかりになるので、椋神社の祭神はあまりに明るすぎて、きっと困っているのではないでしょうか。
神社の境内を散策していると、境内の一角に、「秩父事件百年」というブロンズの青年像とともに「秩父事件百年の碑」が建立されていました。
碑文には、「秩父事件より百年、自由と民主主義が愈
(いよいよ)重きをなす今日、私たちは、この運動の源流としての秩父事件を切に思う。
慈(ここ)に、父祖たちの鎮魂を事積を顕(あきら)かにしその遺産を継承すべく記念碑を建て、自由への狼火(ろうか)がわが秩父谷にあげられた証(あかし)としたい。」(1984年11月3日)とありました。
※カッコ内の読みは、筆者によります。
帰宅の車の中で、娘から早速秩父事件について、いくつかの質問が続き、これに答える帰路となってしまいました。
2.娘と私の秩父事件問答
娘:秩父の困民党が蜂起したのはいつのことなの?
私:明治17年(1884)年11月1日だよ。
娘:明治17年というと、どういう時代だったの?
私:この頃は、自由民権運動が高まった頃で、明治政府が国会開設の約束はした
ものの、開設時期ははっきりしておらず、憲法もまだない時代だったのだよ。
さらに、世界的な不況が重なり、当時、日本の最大な輸出産業だった生糸の輸出が激減したため、生糸が大暴落をし、生糸の輸出に頼っていた秩父地方の農民の生活は困窮を極めていたんだよ。
娘:困窮した農民達は、どうしたの?
私:今の時代のように補助金も助成措置も何もなかったのだよ。
そこで農民達は生糸を作るため、生活資金を得るために高利貸しの所へ走り、高利でお金を借りたのだよ。
娘:当時の高利貸しはどんな感じだったの?
私:とんでもない高利の貸付をしていたんだよ。例えば、10円借りると1年も経たないうちに26円以上になるという暴利だったんだよ。
借りたお金を返済できずに破産に追い込まれる農民が続出するという状況が生まれたんだ。
娘:高利貸しに苦しんだ農民達は、どこに助けを求めたの?
私:当時の秩父の郡役所や警察署に、負債の据え置きや高利貸しの暴利を取り締まってくれるよう何度も請願をしたのだが取り合ってくれなかったんだ。
逆に、警察は、農民が集まるのは集会条例違反だと言って、農民達を取り締まるばかりだったんだ。
娘:役所や警察からも相手にされず、農民達はどうしたの?
私:農民達は、やむを得ず高利貸しとの個別交渉を始めたんだ。
しかし、高利貸しもさる者、負債農民の要求には応じようとしなかったんだよ。
娘:高利貸しに拒否された農民達はどうしたの?
私:この状況を打開しようとした農民のリーダー達(落合寅市、高岸善吉、坂本宗作ら、この3名は後日、自由党に加入する)が、当時の自由党員達と協力して、負債に苦しむ農民達を山林に集め、集会を頻繁に開き、組織していったのだよ。
こうして秩父困民党は生まれたのだよ。
困民党は、郡役所、警察署から無視され続け、止むなく「蜂起」という手段を決意していくのだよ。
娘:蜂起の日とその後の困民軍はどうなったの?
私:農民達の蜂起は、明治17年(1884年)11月1日で、この日に椋神社に秩父群下の3000人を超える農民が集結して、農民軍の役割と5ヵ条の軍律を決め、困民党軍として蜂起したんだ。
これが世にいう「秩父事件」だよ。
しかしながら、蜂起した困民軍は、明治政府の繰り出した警察、憲兵、軍隊によって鎮圧されてしまったのだよ。
娘:群馬や長野など、近県の農民の援助はなかったの?
私:群馬や長野の農民から地域ぐるみに応援はなかったんだ。しかし、群馬や長野の自覚的な自由党員が困民党軍に参加して、蜂起の中で重要な役割を果たしていたのは事実だよ。
隣県の農民達と連携できていなかったことは、「困民党」の大きな弱点だったと言えるね。
娘:「自由党」は、「困民党」を助けてくれなかったの?
私:「困民党」の中の自由党員は、貧困農民の救済を「自由党」の幹部に訴えたが、幹部は、この訴えを無視したのだよ。
実のところ、「自由党」の幹部は、地方の党員が過激化して、群馬事件、福島事件、加波山事件という事件を次々と起こしていたため、地方の過激化した党員達を持て余していたんだよ。
それで、「困民党」が蜂起を決めた明治17年10月29日に、自由党は解党を決めているんだ。
蜂起に走った困民党軍は、おそらく「自由党」の解党を知らずに蜂起しているのだよ。
つまり、「自由党」は「困民党」を見捨ててしまったんだよ。
娘:解党した「自由党」は消滅してしまったの?
私:1890年(明治23年)には、板垣退助を再び総裁として「自由党」を再組織しているんだ。1898年(明治31年)には対立していた「進歩党」と合流して「憲政党」を組織し、1900年(明治33年)に、政友会に合流し、体制内政党になってしまったんだ。
娘:ところで、蜂起関係者はどういう処分を受けたの?
私:埼玉県、群馬県、長野県の3県の裁判所で、スピード裁判が行われ、困民党の幹部(田代栄助ら12名)らが死刑を宣告されたんだ。
事件後に逃亡していた井上伝蔵ら3名も死刑宣告を受けたんだ。
幹部以外でも懲役刑を科されたのが142名、罰金と科料の刑を科されたのも併せて3667名にのぼったんだ。大がかりな処分だったのだよ。
娘:困民党の蜂起の思想的な背景はどこにあったの?
私:「アメリカ独立宣言」(1776年)の前文に謳われた、「基本的人権の保障、抵抗権、革命権の行使」と言えると思う。
秩父の人達も、
「むかし思えばアメリカの
独立したのもむしろ旗
ここらで血の雨ふらせねば
自由の土台がかたまらぬ」
この歌を歌って、行進していたのだから、アメリカ独立宣言の思想を
理解していたのだと思うよ。
3.さいごに
明治政府は、秩父事件に参加した者に対し、「暴徒」として断罪してきました。しかし、困難な生活に落とし込まれた農民達が、自らの生存をかけ、軍隊とも対決することを辞さず行動してきたことに、ただ、驚くばかりです。
憲法や国会もなく、言論集会も厳しく統制されていた当時、蜂起することは、生命や財産を賭けるに等しいことだったのです。
困窮する生活の中でなお、人として輝いていた困民党員の姿に、今を生きる私達に訴える熱いものがあります。
この「困民党」の勇気ある蜂起を再評価し、顕彰していこうという運動が起こっているのです。
最後に、拙作の短詩を3首(句)並べてみました。ご鑑賞ください。
椋の実がびっしり秋の椋神社
耳を澄ませば今鬨(とき)の声 (短歌)
秋蚕(あきご)捨て父と子は今日白襷(しろたすき) (俳句)
自由自治元年秩父困民党 (川柳)
【参考文献】
井上幸治『秩父事件 自由民権期の農民蜂起』中公新書
秩父事件研究検証協議会編『秩父事件 圧政ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ』新日本出版社
※冒頭の写真は音楽寺からの眺めです。困民党は、音楽寺に立ち寄りその後大宮郷(秩父市街)へと向かいました。