武蔵一宮 氷川神社

武蔵一宮 氷川神社公式note。須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三柱を御祭神とする神社…

武蔵一宮 氷川神社

武蔵一宮 氷川神社公式note。須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三柱を御祭神とする神社です。 ホームページ http://musashiichinomiya-hikawa.or.jp/

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最近の記事

~第228回~「菱と蓮と水の話」

現代には様々なお菓子がありますが、奈良時代や平安時代は果物などを意味することが多く、『延喜式』巻三十三・大膳下にみる諸国の貢進菓子には地方ごとの特産物ともいうべき農産物が掲載されています。 その頃の武蔵国は何を中央政権に貢進していたかがわかる木簡が、奈良・平城京左京三条二坊にあった長屋王(天武天皇の孫)邸宅跡から出土しています。 この木簡の表裏には以下の文字が記されております。  (表)「武蔵国策覃郡宅□(子?)駅菱子一斗五升」  (裏)「霊亀三年十月」 つまり、霊亀3

    • ~第227回~「災害と稲の話」

      古来、日本人は春に農耕の実りを祈り、秋に収穫を感謝する、祈りと感謝を忘れずに生活してきました。 武蔵一宮氷川神社では、秋に神様に収穫を感謝する神事「抜穂神事」を斎行しております(10月9日)。 これは当社における古の新嘗祭で、当日は五穀豊穣を感謝して、県内で収穫された稲穂と、前日に神職が調理した団子をご神前に献じます。 ただ今年は酷暑や台風などの天災により、全国各地で農作物の不作、被害が拡大しました。 氷川神社の主祭神である須佐之男命と稲田姫命の出会いは、災害に立ち向

      • ~第226回~「蛍と武蔵一宮氷川神社②蛍の献上」

        前回に続き蛍のお話です。 近代日本では庭園に無数の蛍を放す行為が趣ある趣味とされており、それに伴い華族や政界への蛍の贈呈などが盛んでした。 また、それ以前にも天皇家や宮家へ蛍を献上する事がよく行われていました。 例えば地方へ行幸する明治天皇に対して現地の住民が蛍を献上した事例もあり、陛下の御所への蛍の放虫に関する新聞記事は明治11 年まで遡れます。 このような、蛍自生地域から天皇陛下や宮家への蛍の献上が本格化するのは明治 20 年代と思われ、新聞記事でその事例を探すと、明治

        • ~第225回~「蛍と武蔵一宮氷川神社 ①鉄道とのご縁」

          大宮は「鉄道の街」としても知られている地域。 この鉄道、実は大宮の蛍と深い関わりがあります。 そもそも大宮と蛍との関わりも古く、例えば大宮には戦国時代から伝わる伝説があります。 武蔵一宮氷川神社と大宮公園の北東に位置する寿能城(今は城址)での戦で悲しい最期を迎えたお姫様が、見沼の竜神の力で蛍の姿を借りて生き続けた伝説です。 そして明治時代以降、大宮は蛍の名所として人気を集めるようになりました。 その様子は「ホタル出盛りの土日には上野と大宮の両駅は子供連れの客で花見時並みに

        ~第228回~「菱と蓮と水の話」

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        • 氷川風土記
          225本

        記事

          ~第224回~「秋と観月と実り」

          9月(長月)になりました。 神道では1年を通し多くの神事・祭礼が行われますが、長月の時季になると観月祭が行われます。 地域によって9月、10月のどちらかで行われており、武蔵一宮氷川神社では10月に行われます。 旧暦8月15日は十五夜、中秋の名月ともいわれ、もとは供物を献じて十五夜の満月を鑑賞する「中秋観月」が中国から伝わり、時を経て日本で定着し、各地の神社でも行われるようになりました。 観月祭は、御神前で神事を斎行した後、楽器の音色を楽しむ管絃や、神を和めるための祭祀舞など

          ~第224回~「秋と観月と実り」

          ~第223回~「玉串の話し」

          神社は様々な自然の恵みと共に在ります。 例えば、神社でお供えされている植物の葉。 参拝の折に見たことがある人も多いかもしれませんが、これは玉串(タマグシ)といいます。 常緑樹である榊(サカキ)を使うことが一般的で、地域によっては様々な常緑樹を使いますが、常に青々としている榊は生命力や繁栄の象徴と考えられてきました。 玉串は神前にお供えするものとして、神饌(神様にお供えする飲食物。米・酒・魚・野菜・果物・塩・水等)と同様の意味があると考えられていますが、神饌と異なる点として

          ~第223回~「玉串の話し」

          ~第222回~「スサノオノミコトの子孫たち」

          武蔵一宮氷川神社の主祭神・須佐之男命には多くの子孫神がいます。 最も有名な子孫神は「因幡の白兎」の神話で知られる大己貴命(大国主命)ですが、その他に「大年神(おおとしのかみ)」も知られています。 大年神の「大」は美称で、「年」は穀物や稲の意味とされています。 その子孫には農耕や穀物にまつわる神々が多く、「稲の豊饒をもたらす神格を表す」とする説もあります。 また、大年神は「年神」という方が知られているかもしれません。 全国的に正月、家ごとに年神を迎えて祭る風習が伝承されていま

          ~第222回~「スサノオノミコトの子孫たち」

          ~第221回~『オリンピックはどうなった』②~八田一郎~

          前回、武蔵一宮氷川神社に名の由来を持つ、日本郵船の「氷川丸」と講道館柔道の創始者・嘉納治五郎のご縁をご紹介しました。 嘉納治五郎は東京五輪開催に情熱を捧げた人でもあり、その夢は今も多くのアスリートに受け継がれています。 その嘉納治五郎のご縁から日本に定着した競技があります。 それはレスリングです。 日本レスリングの父と称される八田一朗は、昭和4年、早稲田大学在学中に柔道部として行ったアメリカ遠征でレスリングに敗北したことを契機に、昭和6年、数名の同志と日本初のレスリング部

          ~第221回~『オリンピックはどうなった』②~八田一郎~

          ~第220回~『オリンピックはどうなった』①~嘉納治五郎~

          武蔵一宮氷川神社に名の由来を持つ日本郵船の船「氷川丸」は、日本のオリンピック史に関わる船です。 氷川丸が誕生したのは昭和5年(1930)。 以後11年の間に太平洋を146回横断、約1万人が乗船し、大勢の著名な方々も乗船されました。 その中に、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎も。 嘉納は昭和13年(1938)、東京五輪の開催のためにエジプト・カイロで開かれたICO総会(オリンピック会議)に出席。 その後、4月22日にバンクーバーから氷川丸に乗船しました。 その帰国途上の5

          ~第220回~『オリンピックはどうなった』①~嘉納治五郎~

          ~第219回~「例祭と神幸祭」

          8月1日は武蔵一宮氷川神社の例祭でした。 年中行事の中で最も重要な祭のため、例祭の前日より神職は神社に篭り潔斎し、前日祭を行います。 明治天皇が維新の大本を敬神の上におたてになられ、明治元年10月17日に「氷川神社親祭の詔(祭政一致の詔)」を賜い、当社を勅祭の社と御定めになりました。 そして明治4年(1871)に氷川神社は官幣大社に列せられました。 以後、毎年の例祭には勅使の御差遣、御付きの楽師により「東游」を御奉納いただくようになり、現在に至っております。 翌8月2日は神

          ~第219回~「例祭と神幸祭」

          ~第218回~「スサノオノミコトと鐵]

          武蔵一宮氷川神社の主祭神・スサノオノミコトは荒々しい性格や英雄としての姿、そして疫病を祓う神としてなど多岐にわたる姿があり、由来についても様々な説があります。 まず、神名の「スサ」はスサブ・ススムなどと同源とする説と地名由来とする説があります。 地名由来としては出雲国飯石郡の須佐郷や紀伊国在田郡の須佐郷が挙げられ、スサノオをその土地の首長、または部族の守護神としています。 『出雲国風土記』(8世紀成立)からは、スサノオが出雲一帯で稲田の神や地主神として信仰されていたことがう

          ~第218回~「スサノオノミコトと鐵]

          ~第217回~「自然への畏怖とスサノオノミコト」

          武蔵一宮氷川神社の主祭神・スサノオノミコトは全国に広く民間信仰を集める神様としても知られております。 その信仰の一つは疫病退散の神としてのもので、スサノオノミコト並びにスサノオノミコトと習合した祇園精舎(仏教の開祖・釈迦に寄進された僧院)の守護神・牛頭天王への信仰です。 古くより日本人は生活を脅かす天災や疫病は、非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、鎮めてきました。 これを御霊信仰と言います。 この日本古来の自然への畏怖の心とスサノオノミコトへの信仰が平安

          ~第217回~「自然への畏怖とスサノオノミコト」

          ~第216回~「武蔵の国大宮の駅、氷川神社をもって、当国の鎮守となす」

          明治元年、京都を発し江戸城に入城した明治天皇は、氷川神社を武蔵国の鎮守、勅祭の社と定めて御親祭されました。 以後、8月1日の例祭には、天皇陛下が勅使を御差遣、奉幣されております。 その勅使が参籠される建物が勅使斎館(ちょくしさいかん)です。 現在の勅使斎館は昭和12年に竣工されたもので、8月の例祭以外にも特殊神事「大湯祭」の後斎(12月11日)でも使用しています。 そこでは饗膳式(きょうぜんしき)という古式床しい直会の儀が執り行われ「幾久(いくひさ)、幾久、幾久」と社頭隆盛

          ~第216回~「武蔵の国大宮の駅、氷川神社をもって、当国の鎮守となす」

          ~第215回~「雅楽とスサノオノミコト」

          雅楽は日本が生んだ総合芸術です。 ①日本古来の儀式音楽や舞踊など ②飛鳥時代から平安時代初め頃までの間に中国大陸や朝鮮半島から伝えられた音楽や舞 ③平安時代に日本独自の様式に整えられた音楽など を指し、それぞれ以下のものが伝わっています。 ①日本に古くから伝わるもの 【国風歌舞】『古事記』『日本書紀』の伝承に由来するものや、日本各地の風習に由来するものなどがある。 ②外来のもの 【唐楽(とうがく)】中国、インド、南ベトナム等より伝来したもの。器楽合奏の管絃と、舞のある舞楽

          ~第215回~「雅楽とスサノオノミコト」

          第214回 氷川風土記「石碑と渋沢栄一」

          日本各地の神社に共通して存在するものに「石碑」があります。 神社名を石柱などに刻んで建てたものは「社号標(しゃごうひょう)」と言いますが、それ以外にも奉納や式年などの記念の際に作られた碑も多く存在します。 例えば、武蔵一宮氷川神社三の鳥居内の境内、天津神社向かって左手に「敷石寄附録」と書かれた石碑があります。 これは境内を整備した時の寄付者の名簿が刻まれたものです。 ここに記された寄付者の中に「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一の文字があり、大正2年に200円寄付をした

          第214回 氷川風土記「石碑と渋沢栄一」

          第213回 氷川風土記「鷹匠と鷹と大宮」

          6月8~9日に行われた「氷川神ほたる鑑賞会」では、境内で鷹匠が鷹と触れ合える機会を提供しておりました。 以前、氷川参道の天満神社付近で、日本最小のタカである「ツミ(雀鷹)」が撮影されたことがあります。 平成ひろばまで降りてくることもあるそうです。 また、御本殿裏の神社の森ではオオタカが営巣しています。 武蔵一宮氷川神社が鎮座する大宮は鷹とのご縁があります。 12月に行う特殊神事「大湯祭」に関わりがある氷川内記(当時の神主家の一つ)が、紀州鷹場内での殺生を理由に延宝7年(16

          第213回 氷川風土記「鷹匠と鷹と大宮」