シェア
井戸の水に指先を浸すと、途端に感覚がなくなる。まるで自分の指ではないかのようだ。エラは思い切って両手を手首まで水に入れ、洗濯物を強く押し洗いした。水滴が袖や胸にはねるが、そんなことは気にしていられない。粗末なドレスにくたびれたエプロンを着た彼女の髪は、もとは肩から背中にかけて艶やかに波打っていたが、今は無造作に後ろでまとめられている。彼女の形よく整えられ美しかった桃色の爪は、ところどころひび割れて、とても年ごろの娘のものとは思えなかった。 「シンデレラ!」 館から苛立ちの滲ん
「お嬢様、大丈夫ですか?」 「ええ、慣れているわ」 エラとギルバートは、広間から厨房へと移動し、粗末な木の椅子に向かい合って座っていた。 ギルバートに力なく微笑むエラの顔には血の気がなく、唇はひどく荒れている。裕福だった少女時代からはかけ離れたエラの姿を見て、ギルバートは一瞬、館を出てはどうかと言いかけたが、すぐにその言葉を引っ込めた。 エラにとって、この屋敷は両親の形見であり、生きるよすがでもある。ここを離れて生きる人生など、彼女にとっては考えられないことなのだ。 「お嬢様
その日の夜、エラはなかなか寝つけなかった。一日中働きづめで体は疲れているが、明日街に行くことを考えると緊張して目が冴えてしまうのだ。 エラは生まれてこの方、一人で街に行ったことがない。小さい頃に両親と訪れたことは何度もあるが、御者や侍女が一緒だったし、街の中でも貴族達が集まるような場所しか足を運んだことがなかった。 自分にできるのがろうか。そんな不安が頭をもたげ始める。しかしエラは同時に、今までにない高揚感も感じていた。何かが起きそうな気がする。そんな期待めいた予感が彼女
*前回のあらすじ* 継母の陰謀で身売りされそうになったエラ。間一髪のところで執事のギルバートに助けられる。 翌日、エラは買い出しのために街へ出た。ギルバートは最後まで渋っていたが、「何かあったらすぐにコインを投げる」という条件で、なんとか説得した。 エラが向かった街は屋敷から少し離れた場所にあり、徒歩で行くには少し遠い。しかし馬車で行くにも専属の御者はとうの昔に暇を出していておらず、別の御者を借りるお金もなかったため、エラは屋敷に1頭だけ残った老いた馬に乗って行くことにした
*前回までのあらすじ* 一人で街に買い物に来たエラは、ある古ぼけた店でガラスの靴に出会う。その美しさに魅了されたエラは店の老人から試着をすすめられる。驚いたことにガラスの靴はエラの足にぴったりとはまった。その様子を見ていた見知らぬ青年がガラスの靴をエラに贈り、そのお返しに2人は街を散策することになる。 エラと青年は、市場を見て回ったあと広場にたどり着いた。「はぐれるといけない」という青年の主張に押される形で、エラは彼と手をつないでいたが、広場にあった椅子に座るタイミングでそ
*前回までのあらすじ* エラはガラスの靴を贈ってくれた見知らぬ青年と街を歩く。青年とどこかで会った気がするエラだったが、彼は名乗らないまま去ってしまう。 「お帰りなさいませ」 小柄な老人が椅子から立ち上がり、青年に近付いて深々とお辞儀をした。老人の着ている服は先ほどの粗末な麻布のものとは異なり、濃い黒色の絹のローブになっている。その長く伸びた裾が、風が吹くたびにはためいて、まるで漆黒のカラスのようにも見えた。 「いかがでしたか?」 老人はしわだらけの顔に、笑みを見せて
*前回のあらすじ* 青年の正体はリチャード王子だった。「ガラスの靴がぴったり合う女性が、王子の結婚相手にふさわしい」という魔法使いオーリーの言葉に従い、リチャードはその策に乗ることにする。 「あのエラという少女について、気になることがある」 リチャードは足を組み直した。 エラは、明らかに貴族であるにもかかわらず、粗末な服を着て平民のフリをしていた。お供も連れず白昼堂々と街を歩く姿から、貴族の娘がお忍びで出歩いているとは想像し難い。リチャードが問うても、頑なに自分は使用人で
*あらすじ* 継母たちに虐げられている少女、エラ(シンデレラ)。彼女の味方は執事のギルバートだけだった。継母は屋敷を手に入れるため、エラを襲わせるが、ギルバートにより阻止される。翌日、街に買い物に出たエラは、不思議な青年にガラスの靴をもらうが、その正体は第一王子リチャードだった。 エラは街を出て、買い出しの品を老馬の背にくくりつけると、足早に帰途に就いた。すでに西の空が茜色に染まり始めている。いくら馬に乗っているとはいえ、夜道を女一人で進むのは危険だ。 エラはガラスの靴を懐
*あらすじ* 継母たちに虐げられながら、屋敷を守るため召使のように働く少女・エラ。彼女はある日、街で不思議な青年に出会いガラスの靴を贈られる。帰宅すると継母たちの姿はなく、不審に思って広間へと急ぐが…。 果たして、そこにはギルバートがいた。しかし、継母や姉たちの姿は見当たらない。いつもなら、用もないのに広間でたむろっては、お喋りばかりしているのに。 「ギルバート」 エラは扉から中に入り、声を掛けた。 ギルバートはソファに腰かけたまま、深く項垂れている。豪華な華の刺繍が美
*あらすじ* 継母たちに虐げられながら、屋敷を守るため召使のように働く少女・エラ。彼女はある日、街で不思議な青年に出会いガラスの靴を贈られる。同じ日の夕方、帰宅したエラは屋敷が継母によって抵当に入れられ、すでに自分たちのものでないことを知る。 ギルバートがイサベルと出会ったのは、彼女が17歳のときだった。ギルバートがその当時いくつだったのか、本人さえ覚えていない。魔法使いというのは長生きで、通常の人間の数倍は生きると言われているが、大抵の魔法使いが途中で年齢を数えるのを止め
*あらすじ* 継母たちに虐げられながら、屋敷を守るため召使のように働く少女・エラ。 エラを側で見守る執事で魔法使いのギルバートは、継母たちへの復讐に手を貸すことを約束した。 ギルバートは昔、森に住んでいたが好奇心から人間の世界を覗こうとする。そのとき偶然、赤い髪の少女に出会って…。 「あんなことで失神するなんて、魔法使いって繊細なのね」 赤い髪の少女は、呆れたように言った。先程ギルバートに向けられていた短剣は、今、彼女の細くくびれた腰のベルトに収められている。 あの後す
*あらすじ* ずっと森の中で住んでいた魔法使いのギルバートは、ある日、泉の近くで人間の少女イザベルと出会う。 イザベルがギルバートに会いに来るようになってから、数日が経った頃。最初は嫌がっていたギルバートだったが、イザベルの勢いに押されて彼女との約束の日には必ず泉へ行くようになっていた。 会うと言っても恋人のような甘い逢瀬ではなく、一方的にイザベルが話すのをギルバートが聞くという形のものだったが。 二人が出会った頃、イザベルにはすでに心に決めた人がいた。 「とっても素敵
*あらすじ* イザベルにはすでに心に決めた男性がいた。望まない婚約から逃れたいと悩む彼女に、ギルバートは自分が手伝うと申し出る。 「手伝うって、どうやって…?」 イザベルは怪訝そうにギルバートを見つめた。 「簡単ですよ。さっきも言ったように、逃げてしまえばいいんです。この馬に飛び乗って好きなところへ行けばいい」 ギルバートはそう言って、近くに寝そべっていたイザベルの馬を指さした。 「そんなこと、できるはずないわ」 「どうして?」 「…どうしてって、逃げたってすぐ
*あらすじ* 本当に好きな人と一緒になりたいなら、今ここで逃げなさい。ギルバートがそう告げ、イザベルは一人馬に乗って去っていった。 ―とんでもないことをしてしまった。僕のせいであの人の命が危険にさらされるかもしれない。 後悔と自責の念が体を動けなくさせる。ギルバートがその場を離れることが出来たのは、イザベルが立ち去ってしばらく後のことだった。 重い体を引きずるようにして自宅へ戻ると、朝、狩りに出かけたはずの父親が居間の椅子に座っていた。 驚きのあまり反射的に顔をこわばらせ