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シンデレラの策略

井戸の水に指先を浸すと、途端に感覚がなくなる。まるで自分の指ではないかのようだ。エラは思い切って両手を手首まで水に入れ、洗濯物を強く押し洗いした。水滴が袖や胸にはねるが、そんなことは気にしていられない。粗末なドレスにくたびれたエプロンを着た彼女の髪は、もとは肩から背中にかけて艶やかに波打っていたが、今は無造作に後ろでまとめられている。彼女の形よく整えられ美しかった桃色の爪は、ところどころひび割れて、とても年ごろの娘のものとは思えなかった。
「シンデレラ!」
館から苛立ちの滲んだ声で呼ばれる。シンデレラというのは、エラの継母と連れ子である2人の娘が付けたあだ名だ。優しかった父親が死んだ後、継母とその娘はエラを召使のようにこき使い、エラという美しい名前さえ取り上げてしまった。暖炉を灰にまみれながら掃除するエラの姿を見て、継母たちは侮蔑を込めて「シンデレラ(灰かぶり)」と呼んだのだ。
「すぐに!」
エラはまだ水を含んだ洗濯物を硬く絞ると、早足で館へと向かった。5分でも遅れれば、継母はその10倍の時間をかけて自分に小言を言うだろう。嫌味や悪口は言われ慣れているが、その時間は少しでも短い方が良い。なにしろ、給金が払えないせいで昔から雇っていたメイドも料理人も全員、逃げ出してしまったのだ。今は、昔から仕えてくれている執事が一人いるだけで、山ほどある仕事をこなすにはエラも働かなければいけなかった。
さらに悪いことに、執事は2日前から街へ出かけたきり、まだ帰ってきていない。今日、この館で洗濯や料理をするのはエラしかいなかった。
「遅かったのねぇ」
継母はまだ寝間着姿でソファーに悠々と座り、暖炉の火に当たっていた。そのすぐそばでは2人の娘たちが、色とりどりのドレスをとっかえひっかえしては、無造作に床へ投げ捨てている。エラは黙ってその様子を見ていた。そのドレスはかつて、エラのものであり、娘たちが付けている髪飾りも靴も全て彼女のものであった。
「このドレスを繕ってちょうだい。明後日、娘たちがお見合いなの」
「明後日?」
「ええ。まだ日取りは決定ではないけれど、出来上がりは早いに越したことないわ」
エラはテーブルに置かれた2着のドレスを見て絶句した。赤と青の美しい絹で作られたドレスは、腰がとても細く編まれていて、娘たちには少し小さすぎる。
「無理ですわ。メイドには全員暇を与えましたし、私は裁縫なんてできませんもの」
「そうね、でもお願いよ。だって、どうしても必要なんですもの。それに、この館を売りに出したくはないでしょう?」
継母は口元を手で覆うと、ほほほ、と意地悪く笑った。エラは血が出るほど唇を噛み締めたが、頷くしかなかった。
父親が死んだとき、彼は夫人にこの館を含むほとんど全ての財産を託したが、彼女とその娘は数年でその財産を食いつぶし、今はこの館しか残っていない。その館でさえ、借金返済のために売りに出されそうになっていたのを、エラが必死に頼み込んで止めたのだ。そのとき夫人が出した条件が、「メイドの代わりにエラが家の仕事をする」というものであった。
「お母さま、ギルバートが帰ってきたわ!」
上の娘のソフィーが窓の外を指しながら嬉しそうに言った。
「きっと、お見合いの日取りについて報せを持ってきたに違いなくってよ」
下の娘のリリアが両手を合わせてほおを紅潮させた。
数分後、ノックとともに静かに扉が開かれた。
「奥様、今、戻りました。遅くなって大変、申し訳ありません」
部屋に入ってきた執事のギルバートは、深くお辞儀をすると主人たちに向き直った。彼の身なりは外から帰ってきたばかりとは思えないほど、乱れ一つなく整っており、銀色の髪が暗い部屋の中でもまるで光を受けているように輝いていた。
「構わないわ。それで?」
夫人は肩にかかったショールを掛け直し、流し目で彼を見た。夫が亡くなって数年、夫人はギルバートに執心なのだ。
夫人に促されたギルバートは、一拍置いてから、流れるような口調で言った。
「残念ながら、今回のお見合いは無かったことに、ということです。先方のご親戚の方がどうしても首を縦に振らないのだとか」
「何ですって!」
ギルバートの報告を聞いたソフィーは金切り声を上げて地団駄を踏み、リリアは力なく床に座り込んだ。
「親戚だなんて!あの奥方が反対したに決まってるわ。なんて意地の悪い。ああ、可哀そうな私の娘たち」
夫人は2人の娘を抱き寄せると、涙を流す彼女たちと一緒に自分も泣いた。
娘たちがお見合いを断られるのは、今回が初めてではない。これまでも何度かそういった話はあったのだが、色々な理由をつけてことごとく断られていたのだ。
その理由の最も大きなものは、この家の財政が傾いていることである。名家として名高かったエラの一族は、夫人たちが来てこの方、財政がひっ迫し、それに伴って名家としての威信も失いつつあった。
「奥様、お嬢様方、落ち着いてください。実は、良い話もあるのです。王様が王子様の誕生日に舞踏会を開かれるのですが、そこで花嫁探しも行うと街ではもっぱら噂になっております」
「何ですって!リチャード王子が結婚を!」
この国の王子、リチャードは次の誕生日で20歳になる。以前から縁談は何度も持ち上がっていたが、どういうわけか形になったことはなく、隣国の姫君や大貴族の娘たちが我こそはと妃の座を狙っていた。
「舞踏会!こうしちゃいられないわ。早く新しいドレスを準備しなきゃ!」
「そうね、お姉さま!ああ、お見合いが破談になったのは、きっとこのためよ。神様が私たちにチャンスを与えてくださったんだわ」
娘たちは先ほど落ち込んでいたのが嘘のように、興奮した様子で喋り続けている。それもそのはず、リチャード王子は身分もさることながら、眉目秀麗で剣術にも長けており、身分の上下を問わず女性たちの憧れの的であった。
「本当に、なんて幸運なんでしょう。王子様の花嫁探しだなんて、滅多にない機会じゃないの。娘たちにはとびきりのドレスと立派な馬車を用意しなければ」
娘たちを見ながらうっとりした表情で話す夫人に、エラはにべもなく言い放った。
「そんなお金、うちにはありませんわ。お母様がご存知のように、我が家にはもう財産と呼べるものは一つも残っておりません。あるのはこの館ぐらい。それでどうして、豪華なドレスや馬車を準備できると思うの?」
「まあ、なんて口のきき方でしょう。それに、貴族の娘がお金の話なんてはしたない」
「お言葉ですけれど、事実ですわ。年が越せるかどうかも分からない状況じゃありませんか」
「お黙り!ああ、ギルバート、お前からも何か言ってやって頂戴。この子ったら、お金の話をしていつも私を責めるのよ」
継母はソファーに両手をつき、上目遣いでギルバートに訴えかけた。その首には幾本もの筋が浮かび上がり、少女のような態度とは裏腹に、彼女の実年齢を示している。エラはそんな夫人の姿を、苦虫を嚙み潰したような表情で見ていた。
「奥様、申し訳ありません。私のような者が口出しできることではありませんので」
表情の乏しい顔で、ギルバートがいつものように丁寧に答えると、夫人は恐ろしい形相でエラを睨みつけた。
「とにかく、娘たちは舞踏会に行かせます!お金のことは心配いらないわ」
夫人はそう言うと、鼻息荒く部屋を出て行った。

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蒼樹唯恭
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