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ハンナ・アレントの「トロイの木馬」 -- 『人間の条件』を貫くニヒリズム
アレントの『人間の条件』をいかに読むか。ここで「読む」という言葉で表現したのは、テクストの複雑性を縮減すること、すなわち特定の解釈のもとにテクストを従属させるという暴力的な作用を強いることである。テクストを解釈して自らの血肉にする過程において、この暴力は避けられない原罪であればこそ、私はテクストに対して可能な限り誠実でありたい。
さて、『人間の条件』の読み方の一つに、次のようなものがある。人間が人間であることの所以、すなわち人間が動物一般から隔てられている所以は、言葉をもって他者と対話することである。たしかに人間は動物であり、それは生命過程としての「労働[labor]」とその生産物の消費に表現されている。しかし、人間はそれ以上のものである。人間は「仕事[work]」の生産物によって「世界[world]」を打ち立て、労働によって世界を維持しながら、その世界において「活動[action]」を営む。活動の核心は、他者との対話を通して自己の卓越性を示すことにあり、これこそが「人間の条件」である、と。
この解釈では、対話がクローズアップされる。それゆえに、対話を成立させる条件である「多数性[plurality]」にも焦点が当たる。多数性とは、誰一人として自分と同一の人間がいないという状態であり、その状態があるからこそ、自らの意見を表明することや他者の意見を傾聴することに意義が生じるのである。逆に言えば、人間が多数性を喪失すれば、対話の条件が失われ、人間は動物へと堕ちる。また、言うまでもないことだが、暴力によって他者を黙らせれば、そこには対話が生じないゆえに、人間は動物へと堕ちる。あるいは、それぞれの人間が対話の場から身を引けば、やはり人間は動物へと堕ちる。人間が人間であるために必要な条件は、他者と対話を営み、そのなかで自己の卓越性を示しつつ他者の唯一性を尊重すること、そして対話が営まれる場としての「世界」を維持することである。
なるほど、『人間の条件』をこのような人間賛歌として読む人もいるだろう。ここでの主張は、人間は人間であるために他者と対話しなければならない、というものである。この説教くさい主張は、たしかに西洋の知的伝統と整合しているために、アレントを解説した言説として説得力をもつ。しかし、私はこれに満足できない。この解釈は『人間の条件』の核心を見逃している。本著を支えているのは、果たして「人間」という抽象的概念なのだろうか。人間であることは、アレントにとって何を意味するのだろうか。何が、彼女に本著を書かせたのか。彼女は、いったい何を危惧していたのか。
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アレントが「活動」のモデルを大英雄アキレウスに求めていることは注目に値する。そこには彼女の思想が凝縮されて表れているため、少し長くなるが引用しよう。
したがって意識的に「完全[essential]」であろうとし、「不死の名声」を得る物語とアイデンティティを残そうとする人は、だれでも、アキレウスがしたように、自分の生命を危険に曝すだけでなく、短い生涯と夭折を善しとしなければならない。唯一最高の活動を終えてそれ以上長生きしない人だけが、疑いもなく自らのアイデンティティの主人公となり、偉大になりうるのである。なぜなら、そういう人は、自分の始めた事柄をそのまま続けた場合に惹き起こすはずの帰結から身を引き、死へと逃れるからである。アキレウスの物語には規範になる意味が含まれているが、それには理由がある。というのは、この物語は、「幸福[eudaimonia]」を手に入れるには、必ず、生命を代償にしなければならないことを簡潔に示しているからである。その上、この物語では、このような「幸福」を確実なものとするためには、ただ綿々と生き続けて自分を小出しに暴露するのを断念し、活動の物語が生命そのものと一緒に終わるようにたった一つの行為の中に自分の全生命を要約しなければならないということが示されている。たしかに、アキレウスも、結局のところ、物語作者、詩人、歴史家に依存している。このような人々がいなければ、彼の行なったことも、すべて空虚なものであろうから。しかし、彼は物語作者の手に自分の行為の完全な意味を手渡すことができる唯一人の「主人公」であり、したがって、他のだれにもまして英雄である。
(以下、ページ数は志水速雄訳のちくま学芸文庫版に準拠する)
ここでアレントは、アキレウスを「唯一最高の活動を終えてそれ以上長生きしない人」としている。ところで、ホメロスの叙事詩『イーリアス』におけるアキレウスの活躍は、基本的には怒りと復讐に動機づけられたものであった。たしかにアキレウスの活躍によってギリシアはトロイアとの戦争に勝利したが、彼はギリシアのために戦ったわけではなく、また自己の卓越性を示すために戦ったわけでもなく、友人パトロクロスを殺した敵将ヘクトールに復讐するために戦った。この長大な叙事詩のハイライトは、アキレウスとヘクトールの壮絶な一騎打ちである。アキレウスはヘクトールを倒したあと、その亡骸を二輪馬車でさんざん引きずり回して侮辱した。しかし、ヘクトールは太陽神アポロンの寵愛を受けていたので、アキレウスはアポロンの怒りを買い、彼もまた復讐に倒れることになる。このように、アキレウスの英雄譚は復讐の物語なのである。
アレントにおいて、復讐が「活動」の一形態だと明言されていることを、決して見落としてはならない。しかし同時に復讐は、「活動過程の無慈悲な自動的運動」を生みだし、人間を過程の必然性に従属させ、人間から自由を奪うものだとされている。
復讐というのは、最初の罪にたいする反活動[re-acting]の形で行なわれる活動である。だから、この場合、人は最初の罪の帰結に終止符を打つどころか、あらゆる活動に含まれている連鎖反応がその無制限な進路を進むにまかせてしまい、結局、過程に拘束されたままとなる。しかし、復讐は、罪にたいする当然の自動的反応であり、活動過程は不可逆的なものであるから、それだけに予期され、計算さえされうるものである。〔…〕許しを説くイエスの教えに含まれている自由というのは、復讐からの自由である。なぜなら復讐を続けた場合、行為者と受難者は共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ、この活動過程は、許しがなければけっして終わることはないからである。
必然性への従属か、それとも必然性からの自由か。この二項対立は『人間の条件』を貫いており、動物と人間の対立、あるいは「自然」と「世界」の対立と等置される。自然とは自動的かつ必然的な過程であり、動物はそれに従属する。人間も動物であるからには必然性に条件づけられているが、すべてにおいて必然性に従属しているわけではなく、そこから逃れて新しいことを始めることができる。この予期できない「創始[initiative]」の営みこそ、人間が人間たる所以だと、アレントも宣言している。「人間である以上止めることができないのが、この創始であり、人間を人間たらしめるのもこの創始である」(p.287)。
だとするならば、「罪にたいする当然の自動的反応」である復讐は、「予期され、計算さえされうる」から、動物的な営みに他ならない。それは、活動でありながら動物的なのである。実際、『イーリアス』における予言はことごとく成就する。つまり、アキレウスは彼の物語を通して必然性に従属していた。たとえ彼が偉大だとしても、それは彼が人間として卓越していたからではないのである。
この謎を解くにあたって、考慮すべき問題がもう一つある。それは、暴力の問題である。アレントは、次のように述べている。「ただむきだしの暴力だけが言葉を発せず、この理由のゆえに、暴力だけは偉大ではありえないのである」。「ギリシア人の自己理解では、暴力によって人を強制すること、つまり説得するのではなく命令することは、人を扱う前政治的方法であり、ポリスの外部の生活に固有のものであった」(p.47)。ここに示されているのは、対話という人間的方法と、暴力という動物的方法の対比である。そして、アキレウスこそ、暴力によって復讐を果たした英雄なのである。しかし、「暴力だけは偉大ではありえない」のだとしたら、彼はどうして偉大なのだろうか。
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私がここで試みているのは、冒頭で示したアレント読解の転倒である。労働と仕事と活動の区分、そして人間の人間性の称揚は、アレントの本来的な問題関心を事後的に正当化するロジックに他ならない。『人間の条件』は、偽装工作という意味で、まさしくトロイの木馬のような著作である。
二重に動物的なアキレウスが、アレントにおいて偉大とされている。彼の暴力的な復讐は、なぜ「唯一最高の活動」と呼ばれるに値するのだろうか。その手がかりとなるのは、先の引用における次の部分である。「たしかに、アキレウスも、結局のところ、物語作者、詩人、歴史家に依存している。このような人々がいなければ、彼の行なったことも、すべて空虚なものであろうから」。ここでアレントは、アキレウスが偉大であるのは叙事詩が遺されたからだと主張している。この論理は根源的である。アキレウスが偉大だったがゆえに叙事詩が遺されたのではない。叙事詩が遺されたがゆえに、アキレウスは偉大なのである。言い換えれば、叙事詩が遺されることこそが、何よりも重要なのである。
叙事詩が遺されること、すなわち自らの死後も他者によって記憶され続けることによって初めて、人間は空虚さから救い出される。この確信が、アレントの思想の核心である。アレントにとって「人間」と「動物」の違い、あるいは「活動」と「仕事」の違いなどはすべて副次的な問題であって、いかに人間を空虚さから救い出すかが本質的な問題である。
本著では、いたるところに空虚さへの恐怖がつづられている。「仕事とその生産物である人間の工作物は、死すべき生命の空しさと人間的時間のはなかい性格に一定の永続性と耐久性を与える」(p.21)。「ポリスは、なによりもまず、個体の生命の空虚さにたいするギリシア人の保証であり、この空虚さを防ぎ、死すべき人間の不死は維持できないにせよ、少なくとも人間の相対的永続は維持する空間であった」(p.84)。「人間がその中に生まれ、死んでそこを去るような世界がないとすれば、そこには、変化なき永遠の循環以外になにもなく、人間は、他のすべての動物種と同じく、死のない無窮の中に放り込まれるだろう」(p.152)。「人びとの住家となる人間の工作物がなければ、人間事象は遊牧民の放浪と同じように浮草のような、空虚で無益なものであろう」(p.328)。
彼女が恐怖する空虚さとは、生きることの無意味性である。自分が死んだあとに何も残らないとしたら、どこに生きる意味があろうか。英雄的行為のために死んだ人間の人生は、いかに肯定されるのか。結局はすべてが忘れられてしまうのであれば、我々はどうして倫理を実践しなければならないのか。最後にはすべてが無に帰すのであれば、我々は何を根拠に生きればいいのか。近代の明晰な思想家たちがことごとく直面したニヒリズム、あるいは生きることのリアリティの喪失に、アレントもまた直面したのである。これらの問いを停止するべく、彼女は次のように宣言する。「現世は潜在的に不死である[a potential earthly immortality]と確信し、現世の枠をこのように乗り超え[transcendence]ないかぎり、厳密にいって、いかなる政治も、いかなる共通世界も、いかなる公的領域もありえない」(p.82)。最後にはすべてが無に帰す、ということは、たとえそれが真実だとしても、生きることの意味を守るために否定しなければならないのである。
人間が死すべき存在だとしても、現世は不死であるということ。そして、不死なる現世において、すでに死んだ人間が他者に記憶され続けること。アレントにとっては、この二つを確信することが、生きることのニヒリズムから解放されるために必要であった。ここには、彼女自身の人生を肯定する以上に、彼女が見た他者の人生を肯定するという意図があったのかもしれないが、それはテクストからは分からない。確かなことは、アレントが超越[transcendence]を自覚していたことである。すなわち、現世の不死は、いかようにも証明できない。それはただ信仰されるのみである。
ここまで来て、ようやくアキレウスの問題を理解することができる。アキレウスがどれほど人間として卓越していたか、あるいは彼がどれほど動物的であったのかは、アレントの関心の対象ではない。彼女にとっては、アキレウスの物語が現代まで受け継がれていることこそが、現世の不死を信じるための拠り所なのである。
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死すべき人間を空虚さから救い出すためには、現世の不死[earthly immortality]が確信されなければならない。この宣言が『人間の条件』を貫いている。なお、このような宣言は、西洋の知的伝統においてはさほど珍しいものではない。カントは「霊魂の不死」を実践理性の要請として宣言し、またボーヴォワールは「人類の不死」を宣言したが、これらはほとんど同型だと言えるだろう。少なくとも、アレントのこの部分に革新性はない。
アレントがラディカルである所以は、その先にある。彼女は、読者に対して「現世の不死」を直接的に訴えることはしなかった。むしろ、「現世の不死」には特権性を与えず、それを成立させる人間の能力[capacities]に特権性を与え、そちらを議論の基礎とした。そして、アレントの主張は次のように展開される。すなわち、人間は、現世の不死を可能たらしめる能力を本質的に有しているが、近代あるいは現代に生きる我々はその能力を上手く発揮できていないがゆえに、生きることのニヒリズムに囚われてしまう、と。このような迂回戦略によって、再解釈された西洋の知的伝統に基づいて現代社会を批判するという体裁をとることが可能になった。これは極めて巧妙な偽装工作であって、議論の出発点とされる「労働」と「仕事」と「活動」の区別(それは直観的かつ自明な区別だと偽装されている)を読者が受容した途端に、その読者は「現世の不死」という規範を暗黙裡に受容してしまう。この戦術にこそ、アレントのラディカリズムがあるのである。
アレントにおいて活動力の三類型が要請されるのは、次のような論理による。まず、人間が動物だということは認めざるを得ない。人間は自然の物質代謝過程に組み込まれており、それは人間が食事をするという事実に端的に現れている。このような活動力に注目したのがマルクスであり、アレントは彼に倣って「労働[labor]」の領分を確保する。しかし、労働は生きることの意味を保証しない。人間は死すべき存在であり、自らの死後に何も遺らないのであれば、結局のところ生きる意味はないとアレントは考える。そこで彼女が見出したものこそ記憶[remembrance]だった。人間は記憶されるべきであり、記憶されるべき出来事は「活動[action]」によって生み出されるのである。また、それは個人の生の意味を保証するものであるからには、それが誰[who]によって行われたのかという暴露[disclosure]を伴うものでなければならない。しかし、記憶とは本来的に不安定なものであるから、それは「仕事[work]」によって確実化される必要がある。仕事の生産物によって耐久性のある「世界[world]」が作られ、活動の内容が作品として保存されるからこそ、活動は記憶され続けることができる。このことが確信されて初めて、死すべき人間は、最後にはすべてが虚無に帰すのだというニヒリズムから救済され、英雄的行為は無駄ではないと信じることができる。
しかし、アレントはこの論理を反転させて展開する。「本書は、人間の条件の最も基本的な要素を明確にすること、すなわち、伝統的にも今日の意見によっても、すべての人間存在の範囲内にあるいくつかの活動力だけを扱う。〔…〕したがって、理論上の問題として、本書は、労働、仕事、活動にかんする議論に限定され、これが本書の三つの主要な章を形成する」(p.16)。「私の議論は、人間の条件から生まれた人間の永続的な一般的能力の分析に限定されている。いいかえると、人間の条件そのものが変化しない限りは二度と失われることのない人間の一般的能力の分析に限定されている」(p.16)。プロローグにおけるこれらの文章からも分かるように、アレントの実践理性の要請として生みだされた活動力の三類型が、さながらデカルトにおける “cogito” のように、不動の真実として提示されている。
アレントの凄まじさはこれにとどまらない。彼女はさらに、それぞれの活動力を根拠づけ条件づけるものとして、「人間の条件[human condition]」という概念を提示した。彼女はこの概念を次のように説明する。
人間の条件というのは、単に人間に生命が与えられる場合の条件を意味するだけではない。というのは、人間が条件づけられた存在[conditioned beings]であるという場合、それは、人間が接触するすべてのものがただちに人間存在の条件に変わるという意味だからである。〈活動的生活〉が営まれる世界は、人間の活動力によって生みだされる物から成り立っている。しかし、その存在をもっぱら人間に負っている物は、それにもかかわらず、それを作り出した人間の絶えざる条件となっているのである。結局、地上の人間に生命が与えられる場合の条件に加え、また一部分それらの条件から、人間は自分自身の手になる条件を絶えず作り出していることになる。この条件は、それが人間起源のものであり、変化しやすいものであるにもかかわらず、自然物と同じような条件づけの力をもっている。人間の生命に触れたり、人間の生命と持続的な関係に入るものはすべて、ただちに人間存在の条件という性格をおびる。これこそ、なにをしようと人間がいつも条件づけられた存在であるという理由である。
ここでアレントが主張しているのは、社会学において「再帰性」と呼ばれるところの人間理解である。人間は、特定の条件のもとで活動力を発揮し、その条件を再生産または変化させていく。アレントが「労働の人間的条件[human condition]は生命それ自体である」(p.19)と言うとき、それは生命によって労働が可能となり、労働によって生命が再生産されることを意味する。労働という活動力が生命という人間の条件に対応しているように、仕事は「世界性[worldliness]」という人間の条件に対応し、活動は「多数性[plurality]」という人間の条件に対応している。
ただし、「仕事」や「活動」といった概念がアレントの実践理性の要請であるからには、それらを保証する「世界性」や「多数性」といった概念も実践理性に要請されたものだということを見逃してはならない。要するに、それぞれの活動力を論理的に遡行することによって、彼女は「人間の条件」を見出した。このことは、ホッブズやロックといった啓蒙思想家が、導出されるべき結論から遡行してそれぞれの「自然状態」を見出したことと同型である。
ところで、アレントはなぜ「人間の条件」という概念を必要としたのだろうか。結論を先に言えば、人間が「仕事」と「活動」の能力を本質的に有していることと、現代社会においてそれらの能力が発揮されていないことを同時に肯定するためには、その概念が必要だった。何度も強調してきたように、アレントの思考を究極的に統御しているのは、「現世の不死」が可能だということを確信すること、すなわち生きることのニヒリズムから解放されることである。そのため、彼女は「仕事」と「活動」の能力が人間に備わっていることを否認するわけにはいかない。たとえ現代社会でそれらの能力が本来なされるべきように発揮されていなかったとしても、それは人間がそれらの能力を失ったからだと説明することはできない。だからこそ、彼女は苦肉の策として、現代社会では「仕事」と「活動」の人間的条件が失われているのだという説明を用意したのである。
実際に、近現代を分析している第6章では、人間がこれらの能力を喪失しているわけではないことが何度も強調される。「いうまでもなく、これは、近代人が物を作る能力を失っているとか、失いかけているという意味ではない」(p.502)。「同じように、活動する能力も、少なくとも過程を解放するという意味では、私たちにまだ残っている」(p.502)。人間が本質的に「仕事」と「活動」の能力を有していることは、アレントの実践理性の要請であって、それを肯定するためにすべての議論が組み立てられているのである。
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そして最後に、アレントは「人間である(人間らしい)[be human]」という規範的概念で、議論の全体を装飾した。この規範的概念は、クラシカルでありながら色褪せない魅力を持っているため、他者を説得するうえでは利便性が極めて高い。ただし、この概念に対して、アレントは矛盾した態度をとっている。まず、「人間の条件」という概念が明確に提示される第1章において、彼女は次のように述べている。
誤解を避けるために述べておかなければならないが、人間の条件というのは、人間本性[human nature]と同じものではない。人間の条件に対応する人間の活動力と能力を全部合計してみても、それで人間本性のようなものができあがるのではない。私たちがここで論じているものも、あるいは思考や理性のように論じる対象からはずしたものも、さらにそれらをすべてこと細かに数えあげてみても、それがなければもはやこの存在が人間的[be human]とはいえないという意味で人間存在に不可欠な特質を構成するものではない。
このように、少なくとも第1章においては、いかなる活動力が人間的であるか、あるいは、いかにして人間は人間的となるかという問いは封じられている。しかし、以下に示すように、第2章では第1章の態度が切り捨てられている。
たしかに人間の活動力は、すべて、人びとが共生しているという事実によって条件づけられているのだが、人びとの社会を除いては考えることさえできないのは、活動だけである。たとえば労働という活動力は他者の存在を必要としない。もっとも、完全な孤独のうちに労働する存在は、もはや人間ではなく[not be human]、まったく文字通りの意味で〈労働する動物〉 animal laborans ではあるが。また、たとえば、なるほど自分だけで仕事をし、製作し、自分だけが住む世界を自分だけで建てる人間は、〈工作人〉 homo faber ではないかもしれない。しかし、やはり製作者ではある。そういう人間は特殊に人間的な特質[specifically human quality]を失っており、むしろ、造物主とはいえないまでも、神であり、プラトンがある寓話の中で描いたような神的なデミウルゴスであろう。
そして、本著を通じて支配的なのは、この第2章の態度である。人間は動物一般から区別されなければならないという傲慢な態度が、本著ではしばしば表明される。ここから、本稿の冒頭で示したような誤読、すなわち本著の主題を「人間が人間であることの所以」と理解するような誤読が生じるのである。もちろん、そのような誤読を誘導することこそがアレントの戦略であるからには、前述したアキレウスの問題が生じるとは言え、それは彼女の意図に沿った正当な誤読である。
以下に、三つの引用を示す。いずれも、読者の人間としてのプライドに訴えかける文章なのだが、それぞれ重心が異なっている。一つ目は、人間的な生活のためには「仕事」の生産物が必要だと主張している。二つ目は、人間が人間らしく生きるためには「活動」が必要だと主張している。三つ目は、現代社会において人間が人間らしさを失っていることを警告している。
〈労働する動物〉は、物を自然の手から受け取り、それを消費することなしには、そして自らを成長と衰退の自然過程から守ることなしには、生き残ることができない。他方、物は、その耐久性によって使用に適合し、そのような物に取り囲まれた安らぎがなければ、この生命もけっして人間的ではないであろう。
つまり言論と活動は、人間が、物理的な対象としてではなく、人間として、相互に現われる様式である。この現われは、単なる肉体的存在と違い、人間が言論と活動によって示す創始にかかっている。しかも、人間である以上止めることができないのが、この創始であり、人間を人間たらしめるのもこの創始である。
しかし、もう一つ、もっと重大で危険な兆候がある。それは、人間がダーウィン以来、自分たちの祖先だと想像しているような動物種に自ら進んで退化しようとし、そして実際にそうなりかかっているということである。
アレントの巧妙なレトリックに呑み込まれてみるならば、たしかに『人間の条件』は人間賛歌として読まれるだろう。しかし、本著を貫いているのは、人間は動物一般とは隔絶していなければならない、というつまらないプライドではない。そうではなく、いかにして生きることのニヒリズムから解放されるか、いかにして英雄的行為に論理的な基礎を与えるか、いかにして「現世の不死」を確信するか、という問題なのである。
このことを前提するならば、アレントの本来的な問題関心から離れたところで「活動[action]」や「世界性[worldliness]」といった概念を援用することの不毛さが理解されるはずである。彼女はニヒリズムを第一義的に問題化したのであって、たとえば「公的領域[public realm]」や「権力[power]」については、それらが論じられていたとしても彼女の直接的な関心対象ではない。古い概念を新しい仕方で再生しようという意図があるならともかく、アレントに依拠しようとして彼女の概念を援用しながら、彼女のニヒリズムに無頓着なままでいることは、あまり誠実な態度とは言えないだろう。
〔とは言え、アレントの戦術はあまりにも巧妙である。ホメロスの叙事詩を参照すれば、彼女の『人間の条件』は、オデュッセウスの「トロイの木馬」に喩えることができよう。すると思い出されるのは、太陽神アポロンの呪いを受けたカサンドラである。〕