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コルシア書店の仲間たち 須賀敦子 読書感想

1960年代ミラノの、本と本屋を愛する仲間たちの事を日本人が書いた話。

本や本屋には各々のオーラがある。

派手な山積みになっているダヴィデの詩集を見て作者は「自分は、本当はその本の中にいるような、本の中から、書店に来る人たちを見ているような、そんな気がした。」

このニュアンスは分かる。そして本たちはこんな風に書店にいる人たちを見て、静かに語りかけているのではないだろうか。そのせいか、本屋に入って手ぶらで出てくるにはかなりの勇気を要する。みんなの声を無視するのは大変なのだ。そして先日の旅先の、個性的で素敵な本屋に出会うと、宝物を見つけたように幸せな気分になる。ナポリの修道院の図書館も魅力的だった。それはきっと本たちが大切にされていて幸せだから、私も幸せな気持ちになるのか。

美術館の図書館員と言うのが私が生まれ変わったらやってみたい職業だ。なれるかは分からないから、とりあえず余生をそういう図書館で何かテーマを決めて研究しながら過ごすと言うのが老後の夢。知識が得られ、美しいものを見て心が豊かになり、新たな発見があり、本に囲まれて色々と考える日々。考えるだけで楽しい。

この本に出てくるミラノのインテリ仲間は階級や職業、生まれも育ちも経済力も異なる人たちだが、ある種の本に関しては共通したこだわりがあり、それが時代の流れと共に変化していくのを読むのは、特殊な形であれイタリアと言う国を理解するに役立つと思う。この国における宗教の重要性、戦争の傷跡、貴族階級とボランティア、メセナ、ユダヤ人とゲルマン人などなど。この本を20代でスペインに来る前に読んでいたらどれほど新鮮だったかとも思う。30年ここに住む間に私も同じような体験をしてきて、その度に一つ一つ考えさせられたテーマだ。それはある意味本の中でしか、活字でしか知らなかった情報が目の前に投げかけられ、それを体感する、現実として向き合うと言うことかも。パズルのピースをはめるように、知識があるべきところに収まっていくような、感覚。日本にいては分からなかったことだと思う。今も生きている千年も何百年もの悠久の時を表す遺跡旧跡、文化や習慣の中に暮らして初めて分かること。

一方、日本人でなかったら「私」がこのような人たちと交わることは無かっただろうし、本屋に勤めていると言うだけで、日本人でなければたくさんのお屋敷に招かれることもなかっただろう。外国に住むと言うことは往々にしてこのような特別な機会に恵まれる。そしてそこには多くの場合何らかの期待があるもので、特別な専門知識や、日本の歴史に詳しいわけでもない一般人はしばし困る質問を浴びせられる。結論を求めるわけではないけれど、国際人としてどんなテーマでも自分の考えをきちんと持ち、それを説明できることが求められ試される。

だから「私」が「11年にわたるミラノ暮らしで、私にとって一番よかったのは、この「私など存在しないみたいに」という中にずっとほうりこまれていたことだったかもしれない。」と言う表現にもうなずける。

特におしゃべりと世話好きなラテン民族の中にあっては、とても貴重。

そんな中で本と本が好きな仲間たちと、清貧という言葉が似合うような日々を送る「私」。それはある意味現実離れした彼女のユートピア、理想的な生活だったのだ。そしてはじけた夢、日本に戻って離れていても、ミラノを訪れ避けていても縁があり、ダヴィデで終わる。

読み物として私にとっては、特に面白くはなかったけれど、ミラノにこそ行かなかったもののイタリア旅行を終えて、この本を読んだからこそ理解できる事も多く、旅の記憶を本と一緒に楽しめた一冊。

2018. 8.3.


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