最低最悪の経験ほど、実は最高の学びになる理由
noteの毎日投稿を始めたのが今年の2月。
もうすぐで9ヵ月に達するが、何度かストレスで睡眠が上手く取れない日が続いた。
そういうときほど「毎日当たり前にやっていることをしっかりやろう」とnoteを書いていた。
もう解決したので書けるのだが、ある人間関係のいざこざに巻き込まれ逃げ遅れ、そのストレスで一週間ほどひどく苦しんだ。この時期は、寝ても中途覚醒するので全然睡眠時間を確保できなかった。
今、傷の上にかさぶたが張り、痛みを覚えなくなった感じもする。
しかし、この手痛い経験が今年、最大の学びになったのは間違いない。
僕はこの出来事以降、人との接し方や言い方により一層気を付けようと誓った。
そして自身の傲慢だったところに気がついた。気づかないうちに横柄になり、それによって多くの人を傷つけていたとわかった。
人間関係の問題は、どちらか片一方が100%悪いということは少ない。
非はお互いにあるものだ。
いざこざに巻き込まれたあと、少し余裕ができてから僕はその相手の視点を想像してみることにした。「彼から見た僕はどう映ったか?」をイメージしてみたのだ。
すると「ああ、こういう見え方をしていたら、怒るかもな」と相手の気持ちがなんとなく掴めた。
しかし、こちらにも言い分はある。
僕の中で「それはちがう」と譲れない部分が出て、結果ぶつかることに。
お互いの正義と正義がぶつかってしまったのだ。
彼ともう付き合うことはないだろうが、特に憎んだりしていない。彼は身を削るような暮らしを続けるストイックな努力家だった。
当時、揉めていた渦中や直後に投稿していた記事を読んでみると「正しさとは何か?」「正義とは何か?」といったテーマの記事を並んでいる。
自分の中で「正しさ」について、決着をつけたかったのだろう。
彼が彼の中にある正義で僕を裁こうとしたように、僕も自分の正しさでどこかジャッジしようとしていた面は否めない。
やるせなさがあふれ過ぎ、どこかで落としどころをつけたかったのだろう。
結局、明確な答えは出なかったように思うが、次のことがわかった。僕は「自分の正しさを追求することで、誰かを苦しめたり、息苦しくさせたくない」と感じる人間なのだ。
正しさを追求するのなら、自己完結させた方がいい。そもそも主観的な正しさを価値観の異なる人間に、無理やり押しつけるものではない。
この結論を出せたことで前に進めた。
曖昧なもの、グレーなものの価値を見出せるようになれた。
決めなくてもいいことや勝敗自体をつけなくていいことが、実はたくさんあるのだ。
暮らしの中で、ときに痛みを伴う出来事に遭遇する。
僕は極度の怖がりだ。できれば痛みを避けたい。
ただし痛みを通してしか学べないことも確実にある。
「自己の信じる正義に異常な固執のしかたをする人は遠ざけよう」と思いつつ、痛みを経験しないと学べないことがたくさんあることを知った。
今年最低最悪だった出来事は、今年最高の学びとなった。
世間知らずの僕は今後も痛みに懊悩しながら、まだ気づけていない、さまざまなことを学んでいくのだろう。