
「note」はゴミ箱?
「noteはゴミ箱として使えばいい」
自分がつかっていたり理解している表現であっても、いざ他人の口から聴くと、ハッとさせられる言葉がある。
この言葉は、とある人がボイシーの中でお話されていた内容で、ぼくの感覚に少しの引っ掛かりをもたらした。
はじめに言っておくと、この言葉を否定してるわけではないし、この発言をした人を非難する訳でもない。
むしろぼくも、そのとき思ったことを書きなぐる「ジャーナリング」をする際は、思考の整理や余分な情報の排水という側面において「ゴミ箱」ということばを用いたりもする。
自分でも、そう感じている言葉なのに他人の口からゴミ箱というワードを聴くと、こうも引っかかるものか、と驚いた。
おそらく腑に落ちている言葉ではなかったのだろう。
なので今朝のジャーナリングは、その事をひたすらに書きまくった。A4コピー用紙が真っ黒になり、インクが無くなるまで書いた結果、ひとつの代替できる言葉がフッとでてきた。
それが「コンポスト」
「noteはコンポストとして使えばいい」
これが、とてもしっくりくる。
こうやって、自分の想いと表現が一致する瞬間があるから、書くっていう行為は楽しいし、考えるっているプロセスは尊いなと思う。
言文一致ならぬ、想表一致だ。
コンポストであれば、捨ててるイメージではなく置いて育てるイメージになる。
置くなら物置とか倉庫でも良いのでは?と思われるかもしれないが、それでは廃れたり風化するイメージが残る。
また、コンポストであれば1番大切と感じている「いったん置いて育てる」という意味合いがきれいに表現されるのだ。
コンポストは、調理の過程ででた生ゴミなどを菌の力によって分解・発酵させる容器や堆肥のことを指す言葉なので、それこそ、いったん置いて再利用可能なものへと生まれ変わらせるという意味合いがある。
1度書いた文章を、次の日にみてみると「何だこの変な文章は……」と肩を落としたことがないだろうか?
ぼくはある。なんなら、昨日も一昨日も同じような経験をして急いで推敲し、アップし直したものだ。
でもそれは、いったん書き出した言葉そのものに肩を落としたのではない。1日置かれたことによる思考の発酵によって「もっといい表現ができそう」と感じるからだ。
言葉を表出しコンポストすることは、思考や言葉そのものを発酵・熟成させると、ぼくは考える。
1日置かれた文章を読み返すことによって、客観的に読めるのはもちろんのこと、言葉や思考も一段深まっているから、元の文章に違和感を覚えるのだ。
であるとするならば、より多くの言葉を毎日まいにちコンポストしていったら、思考の深化はどうなるのか……
そう考えると、ワクワクしてくるんだ。
だから紙に書くし、だからこうやって画面に打ち込む。
毎日、言葉をコンポストしていく。
その先に、ぼくの求めるぼくが出したい表現があるから。