夏目漱石が下鴨・糺(ただす)の森で過ごした淋しく寒い春の夜|偉人たちの見た京都
1907(明治40)年3月28日午後7時半過ぎ。文豪・夏目漱石(1867~1916)は東海道線の列車から京都駅に降り立ちました。時に漱石、40歳。明治25年に帝国大学学生時代に訪れて以来15年ぶり。人生で2度目の京都来訪です。
すでに『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』を発表し、人気作家としての地位を確立しつつあった漱石は、この年の2月に一切の教職を辞職。朝日新聞社に入社するまさに直前の京都行きで、しばしの休養と京都にいる旧友を訪ねるための旅でした。
朝の8時に東京駅を発った漱石は、11時間30分の汽車旅を終え、京都駅に到着します。
汽車は流星の疾きに、二百里の春を貫いて、行くわれを七条のプラットフォームの上に振り落す。余が踵の堅き叩きに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉から火の粉をぱっと吐いて、暗い国へ轟と去った。
たださえ京は淋しい所である。原に真葛、川に加茂、山に比叡と愛宕と鞍馬、ことごとく昔のままの原と川と山である。昔のままの原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至っても、皆昔のままである。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも京は依然として淋しかろう。
この淋しい京を、春寒の宵に、とく走る汽車から会釈なく振り落された余は、淋しいながら、寒いながら通らねばならぬ。南から北へ――町が尽きて、家が尽きて、灯が尽きる北の果てまで通らねばならぬ。
「遠いよ」と主人が後ろから言う。「遠いぜ」と居士が前から言う。余は中の車に乗って顫えている。東京を立つ時は日本にこんな寒い所があるとは思わなかった。(略)
漱石にとっては2度目の京都ですが、前回の来訪は真夏の7月のこと。今回は3月とはいえ、早春の京都の夜はかなりの冷え込みだったようです。漱石は相当に寒かったのでしょう。日記にも「京都 ノ first impression 寒イ」と書き残しています。
また明治40年頃の京都はまだまだ電灯の普及率も低く、東京や大阪に比べると街並みが暗く淋しく感じられました。漱石は出迎えてくれた友人2人と人力車に乗って、暗い京都の街を北に向かいます。
「遠いよ」と言った人の車と、「遠いぜ」と言った人の車と、顫えている余の車は長き轅を長く連ねて、狭く細い路を北へ北へと行く。静かな夜を、聞かざるかと輪を鳴らして行く。
鳴る音は狭き路を左右に遮られて、高く空に響く。かんかららん、かんかららん、と言う。石に逢えばかかん、かからんと言う。陰気な音ではない。しかし寒い響きである。風は北から吹く。
細い路を窮屈に両側から仕切る家はことごとく黒い。戸は残りなく鎖されている。ところどころの軒下に大きな小田原提灯が見える。赤くぜんざいとかいてある。人気のない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まっているのかしらん。春寒の夜を深み、加茂川の水さえ死ぬ頃を見計らって桓武天皇の亡魂でも食いに来る気かも知れぬ。(略)
漱石たちがどの路を人力車でたどったのかは定かではありません。ただ、当時の京都の市街は夜になると戸を閉ざし、明かりも消して、静まりかえった家が多かったようです。その中で、わずかに光が見えたのが、赤い小田原提灯に「ぜんざい」と書かれた店だったと漱石は記します。
「ぜんざい」は、今は亡き親友の正岡子規に連なる思い出でもありました。漱石はこう続けます。
始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町の柊屋とか言う家へ着いて、子規と共に京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。
この大提灯を見て、余は何故かこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日に至るまでけっして動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食った事がない。(略)
京都の「ぜんざい」は、関東では「しるこ」に該当するようです。実は漱石も子規も「汁粉」が好物で、「汁粉党」(子規)や「汁粉を食べ過ぎた」(漱石)という記述も残っています。「ぜんざい」が京都の名物だったという資料はありませんが、明治40年頃にも寺町や新京極には何軒もの「ぜんざい屋」が存在していました。
車はかんかららんに桓武天皇の亡魂を驚かし奉って、しきりに馳ける。前なる居士は黙って乗っている。後ろなる主人も言葉をかける気色がない。車夫はただ細長い通りをどこまでもかんかららんと北へ走る。なるほど遠い。(略)
かんかららんは長い橋のたもとを左へ切れて長い橋を一つ渡って、ほのかに見える白い河原を越えて、藁葺とも思われる不揃いな家の間を通り抜けて、梶棒を横に切ったと思ったら、四抱か五抱もある大樹の幾本となく提灯の火にうつる鼻先で、ぴたりと留まった。寒い町を通り抜けて、よくよく寒い所へ来たのである。
人力車の長い旅もようやく終点に到着です。鴨川(賀茂川)にかかる橋のいずれかを渡り(本欄の筆者は葵橋と推定しています)、下鴨神社の近くまでやってきました。
はるかなる頭の上に見上げる空は、枝のために遮られて、手のひらほどの奥に料峭*たる星の影がきらりと光を放った時、余は車を降りながら、元来どこへ寝るのだろうと考えた。
「これが加茂の森だ」と主人が言う。「加茂の森がわれわれの庭だ」と居士が言う。大樹をめぐって、逆に戻ると玄関に灯が見える。なるほど家があるなと気がついた。(略)
主人とは、帝大で2年上級だった思想家・哲学者の狩野亨吉。設立中の京都帝大の学長になる予定でした。居士とは、狩野と同級で漱石とも親しかったドイツ語学者の菅虎雄。菅は京都にある第三高等学校の教授でした。
狩野と菅の二人は、下鴨神社の境内にある糺の森の近くの借家に同居していました。漱石は彼らの家に滞在する予定になっていたのです。
「糺の森」とは、京都市左京区の下鴨神社(賀茂御祖神社)の参道に広がる原生林です。面積は約3万6000坪。ケヤキ、エノキ、ムクノキなどの広葉樹を中心に、中世の樹林を構成していた樹種が自生。樹齢200年から600年の樹木が約600本も数えられます。『源氏物語』や『枕草子』にもその名が謳われ、国の史跡に指定されています。
家には狩野と菅のほかに、若い書生と台所番の老爺の男ばかり四人が暮らしていました。男所帯の家はおそらくは殺風景で、質素なありさまであっただろうと想像されます。湯につかり、蒲団に入っても、漱石の感じている寒さは一向におさまりません。
真夜中頃に、枕頭の違棚に据えてある、四角の紫檀製の枠に嵌め込まれた十八世紀の置時計が、チーンと銀椀を象牙の箸で打つような音を立てて鳴った。
夢のうちにこの響を聞いて、はっと眼を醒ましたら、時計はとくに鳴りやんだが、頭のなかはまだ鳴っている。しかもその鳴りかたが、しだいに細く、しだいに遠く、しだいに濃かに、耳から、耳の奥へ、耳の奥から、脳のなかへ、脳のなかから、心の底へ浸み渡って、心の底から、心のつながるところで、しかも心のついて行く事のできぬ、はるかなる国へ抜け出して行くように思われた。
この涼しき鈴の音が、わが肉体を貫いて、わが心を透して無限の幽境に赴くからは、身も魂も氷盤のごとく清く、雪甌*のごとく冷かでなくてはならぬ。太織の夜具のなかなる余はいよいよ寒かった。
この後、漱石は明け方、ケヤキの梢に鳴くカラスの声で再び夢を破られます。寒さに震えながら窓を開けると、細い雨が糺の森に降っていました。漱石が京都から友人の小宮豊隆に送った手紙には「京都は寒く候 加茂の社はなお寒く候 糺の森のなかに寝る人は夢まで寒く候」と記され、「春寒く社頭に鶴を夢見けり」という俳句が書かれていました。
糺の森の家は漱石に強い印象を与えたのでしょう。この3年後の1910(明治43)年に発表された長編小説『門』には、明らかにこの家をモデルにした家が登場しています。漱石の泊まった家は1990年頃まではかろうじて残っていたそうですが、今は跡形もないと聞いています。
出典:夏目漱石「京に着ける夕」
文=藤岡比左志
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