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エッセイという名の日記

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日常の中で感じたことや考えたことなどをつらつらと。
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#考えたこと

他者と比較してしまうことこそ

ここ最近、モヤモヤすることがいくつかあったんだけれど、そのどれもが「仕事に関することで他者と自分を比較した結果」モヤモヤしていることに気づいた。家庭のこととかお金のこととかに関しては、不思議とモヤモヤすることは少ないのに、こと「仕事」に関しては他者と自分を比較して落ち込むことが多い。 なぜだろう? 子どもの頃は、○○ちゃんちはいいなあ、とか、家庭に関することも羨んだりしていた気がする。でも今はそれはほとんどない。いや、実際にはあるけれど、感情がどうしようもなく波打つほどに

離れていく縁、つながる縁

いつからだろうか。自分が選ばないほうがいい・結果的に自分に必要がない人や物が選べない、という体質(?)になった。 選ぼうとしても、どこかの段階で「相手から」断られたり、私にも相手にも非がない円満な方法で、第三の選択肢が現れる。そして、あとになってから『あそこで縁が切れたのは必然だった』と気づく。 そもそも、離れていく縁の場合は、第一印象の時点でなんとなく違和感があったり不信感があったりする。でもこの点については、つながる縁の場合も「(いい意味でも悪い意味でも)強烈な印象」

「才能」はいつも他者が教えてくれる

私は、行動力がある人間だと思われることが多いように思う。しかし、自分では全くそうは思わない。一旦やり始めたことはわりあい続くほうなのだけれど、「実際やるかどうか」「最初いつやるか」という部分を決めるのに時間がかかるのだ。 いつもの私の記事を客観的に見ると、自分のやりたいことに邁進しているような感じがする。衝動性が高く、勢いで突っ走っているようなイメージを持っている方もいるかもしれないが、案外慎重で初速が遅いので、周囲からは「考えてる暇があったらやったほうが早いよ」と言われた

旅はちいさな「生まれ変わり」体験、かも。

最近、無性に旅行に行きたい。特に「ここに行きたい!」というのはないんだけれど、とにかくどこか違う景色が見られるところへ行きたい。ずっと頭の中でぐるぐると旅行に行きたいなぁ、と思い続けているが、今のご時世では、なかなか素直に実行できないところが歯がゆい。 私は、旅行にはそこそこ行ってきたほうだと思う。両親が年に1回くらいの頻度でいろいろな場所に連れて行ってくれたし(当時は反抗期・思春期だったこともあって、あまり楽しいと思っていなかったけれど)、友達とも何度か旅行に行った。

『物は言いよう』は「胸に届く」ことばで

私は「物は言いよう」が下手だ。自分に利を得るために「うまいこと」を言って相手を納得させる一連の流れが苦手と言ったらいいか。遠慮深いと言えば聞こえはいいが、社会人として社会で活動している以上、「物は言いよう」ができないとまずいという危機意識が常にどこかにある。 「嘘も方便」もうまくできないし、なんというか、会話においてストレート以外のボールが投げられない。もともと、言い過ぎて後悔するよりも、失敗するくらいなら言わない、と黙り込むタイプ。良くも悪くもまっすぐだが、裏がなさすぎて

「万人受け」はこだわりを貫くからこそ

万人受けする、という言葉がある。goo辞書で「万人受け」という言葉を調べてみると、『だれからも好評を得られること。広く人気があること。』というふうに書かれている。 万人受けという言葉は、一般的に『自分のこだわりがある』ことと対極の概念であると捉えられているように思う。そしてこの2つは、どちらか両極に振れやすい概念というか、バランスを取るのが難しいもののような気がしている。 少なくとも私は、この2つのバランスが取れていない。たぶん世間でも、「万人受け」した方がよいという風潮

夢を見て、無意識のしっぽをつかまえる

久しぶりに怖い夢を見た。怖い夢というか、私が定期的に見る「同じテーマの夢」だ。客観的に見れば怖い内容ではないのに、目が覚めたあとにすごく怖く感じたり、何時間も気分が落ち込んだりする。そういう夢。 この繰り返し見る夢を忘れた頃にまた「同じテーマの夢」を見て、ハッと目が覚める。そのたびに、ああそうだ、きっと私が今認識しなければならない問題があるんだ、と気づくのだが、この「認識しなければならない問題」や「現状に潜む意味」に向き合うのが怖くて億劫で、毎回最奥までは自分の内部を探らず

オタクになれなくなったのは

私はわりと歴史が好きである。いや、「好きだけれどニワカ」と言ったほうが正しいかもしれない。所謂、youtubeで動画を見たり、図書館で世界史関連の本を借りて読んだりする程度。そこまで深堀りしていないため、「ニワカ」だと自己分析している。 歴史と言っても、日本史は苦手で、世界史が好きだ。高校時代も、日本史は赤点ギリギリだったのに、世界史は3年間オール5だった。この違いはなんだろう。カタカナの地名や人名は覚えられるのに、漢字の人名は覚えられなかった。不思議。 最近、youtu

タイミングの正体

タイミング、とは一体なんなのだろうか。ウィキペディアを見てみると『どの時、どの瞬間にすべきか、ということに関する、人間による(あらかじめの)判断・選択のこと』と書かれている。 日本では、運とタイミングは切っても切り離せないものというか、どちらかというと人知の及ばない領域のこと、というニュアンスで解釈されることが多いように思う。 私も、上述したウィキを見るまでは「タイミングとは人の力でどうこうできない、何かを起こす・何かが起こるのに最適な時期」という風に捉えていた。でも『あ

それでも田舎に住みたいですか?

私は今、家と農地を探している。将来的に就農を考えているからだ。 今住んでいる家も一軒家の借家だけれど、ここに移住してきた時に行政から紹介された物件で、色々問題もあり、最初から長期間住むつもりがなかったというのもある。 田舎で家を探すというのはとても大変なことで、こんなに空き家があるのに一向に決まらない。というのも、様々な方面の問題が山積しているからで、これらの問題があることによって「移住」が難しくなっていると感じる。 具体的に思いつくままに、私が今直面している問題につい

余白の方が大事かもしれない

何かをする時、何かをした時。つい内容を充実させることばかり考えがちだけれど、もしかしたら余白の方が大事なのかもしれない、とふと思った。 余白とは、言い換えれば余裕のことであるし、ゆとりとか含みとか、どちらかと言えば「大人びた」要素だと感じる。 言葉を発する時もそうだ。例えば、セールスマンに目をつけられたとしよう。セールスマンが「絶対こいつに買わせてやろう」という圧力をもって、考える隙を与えずにまくし立ててきたとしたら、私はかえって「怪しさ」や「言外に存在する余裕のなさ」を