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共和主義者と彫刻家の野心が生んだ巨大プロジェクト | 自由の女神像の誕生秘話 #3

自由の女神像の裏話の続きです。モネとアリス+オシュデ氏シリーズの箸休めとして手短にシェアする予定が、すっかり長くなってしまいました。でも同じ時代の背景を理解する一助となればと思います。

今回は、この壮大なプロジェクトが誰によって、どのように始まったのかに焦点を当てます。ちょうどモネのような若手芸術家たちが苦闘していた時代、すでに確立されたアーティストやエリートたちは、国を超えた大型プロジェクトに取り組み、権威を確立しようとしていました。作品その様子を、雑学的に楽しんでいただければ幸いです。



自由の女神像の発端 —— 独立100周年(だけ)ではなかった?


五郎さんのテロップによれば、「フランスの法律家で詩人のエドゥアール・ド・ラブライエが、アメリカ独立100周年を記念して自由の女神像を贈ろうとフランス人に募金を呼びかけた」ことが始まりとされています。しかし、実際には最初から記念像を贈る計画があったわけではなかったようです。

「1865年から構想を開始した」とされるこのプロジェクトは、確かにアメリカ独立100周年(1876年)の10年前に始動したことになります。しかし、実際に完成したのは1886年であり、普仏戦争や政局の混乱を考慮しても、ずいぶんと遅れたことになります。では、なぜ「1865年から」とされているのでしょうか? それは、アメリカ独立100周年の10年前だからというより、リンカーン大統領が暗殺された年だったからのようです。

エドゥアール・ド・ラブライエ(1811-1883、左)、オスカル・デュ・モティエ・ド・ラファイエット(1815-1881、中)、イポリット・クレレル・ド・トクヴィル(1797-1877、右)。
自由の女神像の構想の発端となる夕食会に参加した、親米派フランス共和主義者たち。


1865年、リンカーン暗殺後まもなく、共和主義者でアメリカの民主主義を理想視していたラブライエは、南北戦争での北軍勝利を祝うとともに、リンカーンの死を悼むため、親しい知識人たちをヴェルサイユ近くの自身の別荘に招きました。この席には、アメリカ独立戦争で活躍したラファイエット侯爵の孫や、『アメリカのデモクラシー』で知られるアレクシス・ド・トクヴィルの兄、そして当時、ラブライエの胸像を制作していた彫刻家バルトルディも同席していました。しかし、この夕食会では、アメリカに何かを贈るという話すら出ていなかったようです。

では、どうして「アメリカへの贈り物」という発想が生まれたのでしょう? それは、フランスの地方紙がリンカーン未亡人に記念メダルを贈るための募金活動を行ったことがきっかけだったようです。

フランキー・マグニダスによるリンカーンのメダル(ブロンズ製、1866年)。
ニュー・ハンプシャー歴史協会コレクション所蔵。


そのメダルには、以下のような銘文が刻まれる予定でした。

《奴隷制を廃止し、国家の統一を回復し、共和国を救い、自由の女神像を曇らせることのなかった誠実な男リンカーンに、フランスの民主主義から捧ぐ》

この動きに触発されたラブライエらは、やがてより大きな「アメリカへの贈り物」をしようと考えを発展させていきます。それは同時に、ラブライエのような共和主義者たちにとって、専制的なナポレオン3世への批判でもありました。


自由の女神像に込められた、共和主義者の帝政への挑戦


法律家のラブライエがアメリカの民主主義を理想視していたのには、具体的な理由がありました。彼は、皇帝による専制的な第二帝政(1852〜1870年)に批判的でしたが、そもそもナポレオン3世によるクーデタを許してしまった制度的な欠陥にも着目していました。

彼によれば、第二共和制(1848〜1852年)が短命に終わったのは、アメリカのように上下院による二院制を採用せず、国民議会のみの単一立法制だったために、議会との対立や政治的混乱が続き、最終的にクーデタを招いてしまったからです。

したがって、ラブライエにとって自由の女神像を通じて共和制アメリカの自由と民主主義を称えることは、帝政への明確なアンチテーゼでした。

このような流れの中で、共和主義的な価値観を体現する銅像の構想を抱いたのが、彫刻家バルトルディでした。

彫像ブームが後押しした、バルトルディの大胆な野心


ヨーロッパの広場や公園には、数多くの銅像が建てられています。アンシャン・レジーム(旧体制)期の銅像は主に聖人や王族を讃えるものでしたが、18世紀末以降、自由主義や共和制の影響で出生ではなく業績によって称えられる人物の像が増えていきました。こうした彫像ブームにより、偉人の像を建てることが社会的な潮流となり、設置に向けた委員会が発足し、募金活動が行われ、芸術家が選ばれ、記念碑が設置されるという流れが定着していきました。

19世紀のフランスでは彫像ブームが起こり、ヴォルテール(左)からカマンベールを発明したマリー・アレル(中)まで、実に多様な「偉人」を称える記念碑が次々と建設されました。しかし、19世紀末にロダンの『バルザック像』(右)を巡る論争を契機に、この風潮は次第に衰退します。最終的には、ヴィシー政権下でドイツの戦争努力を支援するため、公共の記念碑が非鉄金属として提供され、多くの彫像が溶かされることになりました。


こうした風潮の最盛期が七月王政期から第三共和政期にかけてであり、ちょうどバルトルディが自由の女神像を制作していた時代と重なります。彼もまた、巨大彫像によって自身の名声を確立しようとしていました。

実は、バルトルディは自由の女神像以前に、巨大彫像を制作する機会を逃していました。1855年のエジプト旅行でメムノンの巨像に感銘を受けた彼は、1867年、スエズ運河の入口に巨大な記念碑を建設する計画を持ちかけられます。しかし、最終的に彼が提案した「アジアを照らすエジプト」像は、五郎さんの教養講座でも紹介されていたように、採用されませんでした。

この時の無念もあり、バルトルディにとって自由の女神像は、絶対に実現させたいプロジェクトとなったと思われます。彼は1870年には自由の女神像のテラコッタ製縮小モデルを制作し始め、構想を固めていきます。

バルトルディが1870年の普仏戦争中、プロイセン軍による包囲に抵抗したベルフォール市を称えて制作した記念碑『ベルフォールのライオン』(1875-1880)。岩を背景にしたこの彫刻は、全長19.06メートル、高さ10.56メートルで、フランス最大の石像となっています。


折しもこの年、普仏戦争が勃発。翌1871年にはフランスがプロイセンに敗北し、アルザス=ロレーヌがドイツ帝国に割譲されました。アルザス出身のバルトルディにとって、これは深い衝撃でした。この出来事が彼の愛国心を刺激し、共和主義の理想を象徴する自由の女神像プロジェクトへと本格的に傾倒していくことになります。

次回は、この自由の女神像プロジェクトの資金調達の裏話をご紹介します。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。



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