密教という、巨大な「真意」を追求してみる@苦行するだけで、それが描けるのか、実践的に考えてみるのだ。 講座「仏教と日本の関わり」はいかに?その5
空海の「密教」邂逅への系譜
さて、いよいよ本題に入りましょう。
空海と、その密教の奥庭を探ってみることにします。
あたしと仏教との邂逅は、
実はもともと真言密教であったのですが、
仏教自体を学んだのは、実は天台であり、
かつ道元の思想である曹洞宗の教学でした。
ですから「諸法実相」はわかっていたものの、
真言密教の奥義である「大日経」の世界には
到底及ばないような気もしていたのです。
つまり、曼荼羅やら加持祈祷といった、
言ってみれば「文字にならない」教義に対する難解さというか、
既に完成された体系のようなものを感じたからです。
空海は奈良時代末期の宝亀5年(774年)
讃岐国(現在の香川県)に生まれました。
幼名を佐伯真魚といい、
子供の頃から大変利発であったようでございます。
12歳で讃岐の国学に学びますが、あまりに優秀だったため、
叔父のすすめで15歳で都に上り、18歳の時には大学に入学します。
このころの「大学」は朝廷の役人を養成する機関で、
卒業生は中央の高官になる道が保証されていました。
つまり、エリート中のエリートというわけです。
地方豪族の子弟にはよほど優秀な逸材でもないかぎり、
とうていあり得ない進路であったわけです。
しかし、空海はこの大学をあっさりとやめてしまい、
どこかに姿をくらましてしまったんでございます。
で、どこにいたのかというと、
私度僧になって山岳修行に入っていたんです。
場所は役小角から始まったという山岳修行のメッカ、
紀伊山地の山奥でした。
すなわち大峯山や高野山を中心に
山林修行にいそしんだわけでございます。
なにゆえこのような挙に及んだかというと
空海はこの修行において、
ある修験者から「虚空蔵聞持の法」を授かります。
ここで空海は「真言遍誦」という
密教の修行に初めて触れるわけです。
実はこの頃、密教は正式に伝来してはいなかったのですが、
実はこの頃にはもう断片化された密教は
非公式にもたらされており、これら「雑密」という
一連の非体系密教を修行している集団がおりました。
これらの人々を修験者といい、この「雑密」こそ、
役小角を始祖とした「修験道」だったのです。
空海はこの修験道に入り、密教のエッセンスを、
厳しい荒行を通じて修めていくわけです。
空海自身が著した「三教指帰」によれば、
修行中の姿のあまりのみすぼらしさに
貧者さえも嘲笑ったと言います。
やがて、四国に渡り、石鎚山などの険しい山々によじ登るなど、
究極の荒行三昧に入ります。
そして室戸岬の洞窟での瞑想時に、
虚空蔵聞持を大悟し会得したといいます。
遣唐使として唐に渡る
やがて、空海は31歳の時、
留学僧として遣唐使の一員になるわけですが、
なにゆえその資格を得たのかは実は謎でございます。
遣唐使と言えばこの時代の国家的大プロジェクトですが、
一介の「乞食坊主」と同様の私度僧であった空海が、
出立のわずか1ヶ月前に「得度」し、
国家の正式な僧の資格を得ているわけです。
この辺のカラクリは実は歴史上の大きな謎なのです。
また、この留学生の資格も
最澄のように国費留学ではなく、
あくまでも私費留学であり、
20年間自己負担の条件を付けられたものであったわけです。
そうなれば、空海はこの段階で
莫大な「パトロン」を持っていたのではないのかと思われるわけですが、
このあたりのことは真偽は定かではなく、
推察に任せるしかございません。
実は、室戸岬での大悟は空海24歳の時、
そして入唐が決まった31歳までの7年間の空海の足跡は
まったく空白で謎なんです。
最近の研究によれば、
この7年間、空海は山岳修行者の一群に加わっていたと考えられます。
つまり、空海は「雑密」をさらに極め、
体系的な密教を日本に伝えようという
プロジェクトを企てていたのではないかと
考えられるわけです。
やはり空海にはパトロンがいた?
確かに役小角に始まる「修験道」は密教でしたが、
「本格的な密教」ではないわけです。
こういう修行者の総意は、
自分たちが行っている修行の理論的体系の組織的成立を、
強く希望していたのではないかと推察されるわけです。
その推進役として、天才的資質を持った空海に
託したのではないかということです。
したがって、彼ら修験道修行者のネットワークが、
経済的・人脈的なバックボーンとなり、
空海の「遣唐使入り」を実現させたのではないかという事です。
しかも、入唐した空海は、
まっすぐに当時の中国においての密教の正統継承者である、
惠果阿闍梨に師事します。
そんなコネクションがどこにあったのかということも、
よく考えれば謎が残るのです。
たとえば、伝記であるように、
唐代一の密教の師であった恵果阿闍梨が、
いくら空海の才能を見極めたとしても、
一介の「東夷蕃国」の僧である空海に
そうやすやすと密教の奥義を授けるものなのでしょうか?
ふつ~に考えると疑問が残るんですよ。
したがって、おそらくはそれ以前に日本における大きな勢力が、
ひそかに唐の密教界に対し、
何らかの働きかけを行っていたのではないのかと言う事は
十分推測されるわけです。
まぁ、いずれにせよ、
空海はそれを受け継ぐだけの才能も品格も
持ち合わせていたことだけは確かなのでしょう。
それがすべて歴史として結果に表れております。
ある意味、恵果阿闍梨の選別眼は
確かであったと言うべきでしょう。
まさに傑物傑を撰ぶとでも言うことではないかとも思われます。
惠果阿闍梨が見抜いたのは、
空海が入唐前までに山岳修行で身につけたであろう、
密教の前段階修行の成果による体験のなせる雰囲気であり、
それを感じ取ったに違いないからでしょう。
密教の「正統」日本に渡る
空海は惠果阿闍梨の下で、
「大日経系」と「金剛頂経系」密教を伝法されます。
数ヶ月後最後の仕上げとして「阿闍梨」の位を授かる灌頂うけ、
「遍照金剛」の灌頂号を授かるのでございます。
さらには当時の唐においての最新鋭の技術をもって、
密教の秘儀を行うには欠かせない法具一式、
そして曼荼羅を作らせます。
もちろん惠果阿闍梨の指導の下ではあるのですが、
その制作費用、さらにはおびただしい数の
写経本の作成に至っては、
空海が用意した留学費用をつぎ込んだわけですから、
その経済力もただものでは無かったことは
ゆうに想像できます。
推測の域は出ないものの、
やはり最澄の国家ルートとは違う
「バックボーン」の存在があったに違いないでしょう。
そして、空海は惠果阿闍梨から
天竺伝来の8つの法具を授かります。
いわば「密教の正統」が空海に授けられ、
その正流が日本に渡ったと言うことになるのです。
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