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制作日記ーコッポラの魔力と挑戦の執行猶予ー

🌱今日の日記は以前公開したこちらの記事の後日譚です。



7月24日

今日のらんまん。


藤丸くん、粘菌の世界に出会うのね‼️もしかしたら彼が大きな功績をうむエピソードもあるかも☺️


田邊教授も好きです。万太郎を脅威に感じる想いは共感出来るし、彼の出入りを許しているという当時としては随分紳士的な譲歩をしていると思う。嫌いなキャラがいないのが、「らんまん」のいいところかも。


午前中は、洗濯とお掃除をして、noteを打ちながら、子供の宿題をみる。
午後はひたすらゴロゴロする。

大きなミスをしてしまい、両親に間違った帰省日を伝えてしまって
大迷惑をかけてしまった。
本当にすみません。。。。


今日ものんびり過ごし、ゴッドファーザーのYouTubeを眺めたり、コッポラ監督の記事を読んだり、お昼寝して身体を休ませる。

20年以上も前に観たので詳細は覚えていないけれど、冒頭の結婚式での豊かなファミリーの光景の中にちょっと不穏な未来を感じたり、
パイプオルガンの洗礼式と交錯するように描かれた粛清シーンは容赦なくて圧倒的な映像美だった。
ヴィトーを慕う弁護士のヘイゲンの理知的で不気味な感じが好きだったんよ。。。



「地獄の黙示録」のワルキューレの騎行を流しながらベトナムの村人を次々に殺戮してゆく映像は、嫌悪しかなかった。
人間の悍ましさをよくぞ映画にしたなあと思った。
どんな脳みそしてるのかなあ、と。



わたしはワーグナーが聴けない。
聞いても心が動かず感動はしない。
映画のもっと昔に起こった、この作曲家の音楽を利用し、人々を鼓舞させて粛清という名の大殺戮を行ったのを知ってしまったから。
歴史的に悲劇をもたらす思想は、偉大な作家の純粋な表現を歪曲させる。。。
後世まで複雑な禍根を残し、これは哀しいことだと思う。



「地獄の黙示録」を観た時に、「音楽」は人を陶酔もするし、人間の判断を「麻痺」させる毒にもなるんだな、と思った。
そういう、トラウマにも近い強烈なインプレッションを観客に与えたことも、コッポラ監督の狂気にも似た突出した才能を感じる。


ああ、「ゴッドファーザー」をまた観たい。part 2も良かった。
IIIは、コッポラの力がなくなり、雰囲気も寂しさが漂っているのでまだ観ていないのだ。


そして。。。。

↑こちらの日記で中間報告をしたけれど、

このあいだ話し合って、どうも一年挑戦出来る時間が延びる可能性が濃厚になってきた。


今年の2月に、主人から、会社を辞めるかもしれないから、収入がなくなる、
12月までになんらかの形にならない場合は、商業への漫画の挑戦はお金にならないしやめて欲しいと申しつけられていた。


↓詳細は有料マガジンにて。。。


当時の日記にも書いたけれど、残り10ヶ月でどうこうするのは物理的にキツいなあと思っていた。

担当さんがついても、



プロット→OKもらう
ネーム→OKもらうまで何度もリテイク
担当さんからOKもらっても、次は他の編集さんや編集長にOKをもらえなければ
ボツ→最初からやり直し
編集会議でOKが出れば、雑誌又はWeb掲載に向けて作画スタート
ただ、場所によっては担当さんがOKが出ればいい確率で掲載に結びつくところもある‼️
(⚠️予告が出て、やっと確定👍✨✨)

数ヶ月後や遅くて半年後に掲載


という果てしないステップを経てゆく。
(多くの作家さんはこのステップに耐えきれず人生を生き直します。。。)

一見読んでしんどいかもだが、商品として売り出し、お金という報酬を得るには、プロの読み手に認めてもらうのが大前提なので、至極当然のステップである。
わたし自身は担当さんへの信頼感さえあれば、このステップには耐えられるし、テクニックをとても鍛えられるのでかなり有り難くもある。

商業作家が漫画が上手くなるは、このしごきによる鍛錬で無駄なものが削ぎ落とされて、作家の一番推せる技術や才覚をまさぐり探りにじり寄ってゆくことで、見つけてゆくものと思っている。


ただ、この間中は、ものすごく本人は病む。
ずっとずっと出る杭が打たれている状態。
長いとそれが何年も続くのだ。

人の成功が羨ましく思えたり、ものすごく時間をかけて作った作品を否定されたら落ち込むし、本当に精神的に苦しい。
自分も他人も信じられなくなる。
わたしは人のマンガが読めんかったし、ネットでの書き込みは一度みたきりで、
今でも自分の商業作品の感想レビューや書き込みは読んでいない。



多くの人は心が深く沈み、好きだった漫画が嫌いになるのが嫌でフリーになったり、同人を楽しむんだと思う。



けれど、商業作家は、この道を踏んでやっとお金を頂いている。

こういう長期的なステップを踏んでゆくので、残り10ヶ月じゃ無理だな。。。
これからどうしよう。。。という気持ちがあった。
新人作家だと、掲載や連載までに2年はかかると言われている。
わたしの場合は一年半くらいかかりそうと直感で感じた。




なので最近は諦めモードでもあったのだが、主人自身の事情もあって、
執行猶予が一年伸びる可能性が強くなった。

それを聞いた時、あ、残り17ヶ月になるなら。。。。
あれ。。。。頑張ったら。。。。もしかすると。。。あれれ。。。❓
という可能性がみえてきた。

なので、この記事のように、少し強気な心持ちになれた。

こちらは本心が書けたと思う。
自分なんて。。。と卑下することもなく、冷静に今を見つめたありのままの気持ち。


創作を仕事としてもやってゆきたいんだな、と自己を顧みて思った。

創作や漫画で稼ぐって、(あくまで自分個人ですが)
大きな自信と自己肯定感に繋がる。
それはクリエイター皆が出来ることではないから。
利益をうむ才能があったり、強力な読者さんがついていたり、営業力があったり、編集さんに好かれる人格者だったり、わたしのように全てなくて下手でも、地道に我慢強く粘ってゆくタイプだったり。。。
どこかが突出していないと、仕事としては報酬が得られない。

ただ、仕事だけでやってゆくには辛いことが多く、アンデンティティーが崩れてしまう。
誰のためでもない、人には読んでもらえないかもだけど、自分の心から好きと思えるものを、余暇で作れたらなと思う。

先日、自分があたためているアイデアを、活字で表す方が効果的なのか振り返ってみた。

10個くらいあるうちで、一個二個くらいしかなかった。
あとは映像が強く出てきたり、自分しか描けるものがいないと感じたり、
(傲慢ではなく、単純にそのジャンルが漫画ではなかったりで)

語彙も知識も貧相で活字で表現するテクニックをそもそも持っていないこともあり、
ああ、これはしばらくマンガで七転八倒しながらやっていかねば、本心が納得しない、と思った。
(活字で表したいものの一つは、今や商業漫画では取り扱いが難しいテーマのものもある。)

自分の描きたいものは、とても時間がかかってしまう。
今やっているので制作が一年かかっている。
本当はチマチマと時間をかけて熟成させるように作り込んでゆきたいけれど、
仕事でそれをやると、納期に間に合わずお金にはならない。



期限内でかき込みたい、追求したいのをぐっと我慢して、抜いた絵を量産してゆく形になる。
自分の劣化した絵や作品を、他の作家の魂が込められたスゴイ漫画と、今流行の絵柄と比較され続ける苦痛に耐えなければいけない。。。

それがすごく嫌で嫌で、そもそものマンガの才能がないんだな、
だったら好きなように描けるフリー活動をしていたけれど、

お金を稼げないと、満たされないタイプなんだ、幸せを半分しか感じないや、と分かった。この数年やってみて。
フリーの時の方が読まれる幸せは少し得れたけれど、実質収入は小さい。
なので半分の満足感。



家族のためにやる、というより、自分の本心が納得しない。
仕事としてやらないと。ぽっかりと空虚な気持ちになる。

これはクリエイターとしてどれが正しい、どれが一番なのか、という次元の話ではなく、
単純に「そういうタイプ」ということなんだと思う。

ヘンリーダーガーのように、お仕事をこなしながら半世紀も誰に見せることもない作品を描き続ける器用さも寡黙なる情熱もなく、かといって人気漫画家になれる器もない。
仕事や社会的責任を放って、何も働かぬまま好きなように時間を生きれる年や立場でもない。

ならば、マンガ表現のテクニックは習得しているから、それで細々とかき集めてお金を得たいなあと思うし、ハードル高き一般企業に勤めるよりは、漫画や創作で仕事をする方が自分の鋳型に合っていると思う。
(身体が弱いわたしにとって、普通に会社勤めは漫画以上に難しいのだ。。。
専業漫画家の多くが会社で働いてる人すげえ。。。と思っていると思う。)

なんとまあ、強欲な。。。と思うのだけれど、仕事で満たされないものを余暇でみたそう、ということで、仕事だけに入魂するのではなく、自分の心が解放される創作も漫画と活字共にやってゆきたい。


お金を得るための半分の幸せ。
もう半分は心の幸せ。


けれど、自分の才能の限界は誰よりも自分がよくわかっているので、
持ってもそう長くはない。

老境になったら活字にシフトできるよう、ベイビーステップで活字の分野でも毎年小さな目標を定めて、やってゆこうと思う。


なんにせよ、ここ数日で心が少し安心したのと、
2月には靄がかってみえなかった道が少しみえたような、明るい気持ちになれた。

なので、頑張る。