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【読書】エーミールと探偵たち(児童書)
岩波少年文庫のフェアをきっかけに、20年近く前に購入した作品を本棚から引っ張り出して読んでいます。今週はケストナーの『エーミールと探偵たち』を読み返しました。
『点子ちゃんとアントン』でもそうですが、この作品でも裕福な家の子とそうではない子の生活の対比が描かれています。主人公のエーミールは母親と2人で慎ましく暮らしており、互いに互いを尊重しながら、大切に思いながら助け合って生活をしています。『点子ちゃんとアントン』のアントンと違うのは、物乞い(原文ママ)をしなくても母の美容師としての稼ぎで何とか暮らせているところ。母への愛がたっぷりなのはアントンと同じところです。
しかしそんなエーミールが、泥棒と同じ汽車に乗ってしまったところから大きな事件に巻き込まれます。
"「あの人がいない!」
ひざががくがくふるえた。エーミールはのろのろと立ちあがって、頭はからっぽのまま、服のほこりをはたいた。
さて、つぎの問題だ。お金はだいじょうぶ?そう考えると、エーミールはなんとも言いようのない不安におそわれた。
(中略)
ポケットがからっぽだ!お金がない!"
なんと、お母さんが持たせてくれた140マルクを盗まれてしまうのです。
盗んだ人は分かっています。汽車の中で同じ個室に座っていた、山高帽を被り「グルントアイス」と名乗った人です。
その人を追って途中下車したエーミールは、ベルリンの街で出会った少年グスタフとその仲間たちと共に、犯人を捕まえることに成功します。
子どもの頃に読んだときには、少年たちが犯人を追い詰めるところが一番好きでした。ワクワクするし、おもしろいし、痛快だからです。
しかし今回読み返してみて、一番心に残ったのは何でもないページでした。
"「お金をなくした?そういうのがいるんだよね。で、どこまで行くの?」
「どこって…んー、わかんないんです。」
「だったら、次の停留所でおりるんだね。そこでゆっくり考えな、自分がどこに行きたいんだか。」
「だめ、それはできません。ぼく、この市電にのっていなくちゃならないんです、車掌さん。お願いします。」
「おりなさいと言ったら、おりなさい。わかったね?」
「その子にきっぷを。」
新聞を読んでいた男の人が、行った。男の人は、車掌にお金をわたした。
(中略)
「いいんだよ。そのきっぷは、きみにあげたんだ。」"
一文無しのエーミールを1番はじめに助けてくれたのは、市電にたまたま乗り合わせた男の人でした。大人になってからこの場面を読み、ちょっぴり涙が出ました。この男の人は、「こういう子どもたちはわざと無賃乗車をしているんだ。大人を陰で嘲笑っているんだ。」という旨を話す車掌さんに「この子は笑わないよ。」とはっきり言います。私はこんな大人になれているだろうか -- 。
余談ですが、無事に犯人を捕まえたエーミールは、期せずしてこの男の人と再会を果たします。
"「ぼくのこと、おぼえてませんか?」
「いいや。」
「きのう、市電177番で、きっぷを買ってくれたじゃないですか。あのとき、ぼく、お金をもってなかったんです。」
「そうだったなあ!いま、思い出したよ。」
(中略)
「ぼくは、エーミール・ティッシュバインです。」
「ぼくはケストナー。」"
そして読者は、その男の人が「ケストナー」であることを知るのです。この場面を読んで、再びちょっぴり涙が出ました。そうか、ケストナーがエーミールを助けてくれたんだ。
全然違うことは分かっているのですが、『十二国記』シリーズ(小野不由美)にて、主人公を助けてくれた犬狼真君が本当の名を名乗ったときの感動と似たものを受けました。
ケストナーの作品は、子ども向けのものです。しかし、「かつて子どもだった」我々が読むと、新たな発見や、気付かされることがあるのだと感じました。それはきっと、子どもたちを取り巻く「貧困」や「大人のずるさ」、「信頼できる大人の存在」などが描かれているからなのでしょう。
外出の際には耳にはイヤホン、目はスマホ、が基本の私ですが、もう少し周りにも意識を向けていきたいです。そして、本当に困っている人がいたら(小さな親切・大きなおせっかいにはならないように)、役に立てる人間でありたいです。